傘寿」記念特集   雲斎の「回想」その四人生とご縁と宗教   

  はるけくもあゆみ越しかな山々を 八十になれど道なお遠し  岫雲斎圀

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        徳永圀典の「住友銀行」とは        「岫雲斎の回想」−−総括索引

この二つのビルで私は24年間過したことになる。

懐かしき
住友銀行本店
思い出溢れる
住友銀行神戸支店

平成22年4月

4月 1日
独来(ひとりきたり)独去無一随者(ひとりさっていつもしたがうものなし)
 

卯月は、私の誕生月である。満79歳、うーんと唸る、実はこの原稿をものしているのは昨年911日、重陽の節句の午後1612分である。果して健康で生きているのであろうか、と思わずにはおられない。いつ何事があってもおかしくない年齢である。

独来(ひとりきたり)独去無一随者(ひとりさっていつもしたがうものなし)」なのである。
誕生も一人、死ぬのも一人、病む時も一人。これは大無量寿経の言葉である。実に厳粛な事実だ。ついつい忘れている、人生とは孤独で寂しいのが本然である。改めて自覚する。
4月 2日 改めて宗教の核心は「心」 「生の哲学」の冒頭の頃、あらゆる宗教の根本は「心」であると指摘した。やはり、そう思わずにはおられない、「真理も権威も総て自分の内部、即ち心にある」と。 人間は誰しも根源的な「こころ」を内に(そな)えている。外に求めるのが「迷い」なのではあるまいか。お釈迦さんの残された言葉はそう指摘されているとしか思えない。
4月 3日 自分の肉体は父母の遺体 父や母が残されたこの自分の身体は遺体なのである。私はいつの間にかそう近くの人々に話しているようになった。昨年、初めて右の奥歯が一本脆くなり抜くこととなった。歯医者さんが抜いた時、その歯を見せられた、私は思わず手を合わせて、長い間有難うと言った。怪訝な顔をしていた看護婦に、これは父や母から貰ったものですと言った。驚いた様子であった。 間違いなく両親の遺体が自分なのであり(いと)おしい。
「わが父母はまさしく我に生きてあり思ふに()()常見(つねみ)しもかげ」、窪田空穂の歌六十六年前に亡くした父とその二年前に喪った母と、遠い昔だが父も母も自分の身体の中にまさしく生き続けていると目の前にありし日のままの面影が顕われるの意。更に「父母(ちちはは)のみ(たま)は我に生きてをり身をもて信ずつゆ疑わず」と。
 
4月 4日 死ぬなよ 「死ぬなよ、待てば咲くぞ」、これは黒田如水が地下牢に一年間の幽閉に耐え織田信長への節を守った話である。如水はある日、牢の高窓に若布をつけた(ふじ)(つる)を見つけた。

「いつでも死ねる、もう少し待て、あの藤づるも、短い花の房すら持って咲こうとしている」。「やあ、今朝咲いた、死ぬなよ、待てば咲くぞという天の啓示だ。彼は掌を合わせて藤の花を拝んだ・・・」。 

4月 5日 水の哲学

黒田如水で思い出したのが「水の哲学」である。「水五則」という文献がある。実に示唆に富むものだ。第一則は「自ら活動して(ひと)を動かしむるは水なり」。これは「(ひと)を指導するとは、自分が実践することだ」との示唆である。


率先垂範という意味ではなく、「ただ無心に動くそのことが知らず知らず(ひと)を動かしていくさまを言う」のである。
先頭に立つにはどうすべきかの水の示唆であろうか。
4月 6日 わが心にぞ尋ね入れ 一休さんの歌「よもすがら仏の道をたずぬればわが心にぞたずね入りける」。心はあらゆる宗教の根幹の問題と本欄でしばしば指摘した。 空海は自著「般若心経()(けん)」に「仏法を心の外に求める誤りを戒めている。仏教にあっては道を外に求めるのを迷いであるとする。全ての原因を、外や(ひと)に追究することなく自分の心に置くから(ひと)を責める必要もなくなる」としている。 
4月 7日

一期一会(いちごいちえ)

私が鳥取で最も尊敬するお方がある。八十歳を越えておられるが、鳥取産院の村江理事長である。ロータリアンで元ガバナー、経営者であり医師であり、温厚な紳士である。休日には野外で豪快にショベルを使い気分転換されたこともある。ある日、おーい徳永君、熊の肉食べようかと共に鍋をつついたこともある。

その先輩は、私が病院を訪ねてると、いつも玄関まで同行し玄関外で私が見えなくなるまで立礼をされる。先生、もういいですよ、と言ったら「一期一会」だよと仰った。先生から自製の柿羊羹を藁で包んだものを頂いたが、知性と教養と野生と大きく包含した稀な人物だと尊敬している。
4月 8日 会った時が別れ 井伊(いい)(なお)(すけ)は幕末の政治家、茶人としても有名、直弼は、茶の心得は「一期一会」に帰すると言い切っている。「一期」は一生のこと、「一会」は一度しか会う機会がないこと。 一生に一度限りだから、出会いの縁を大切に生かすのが茶の心得の全てがあるという。人にも物にも、その出会いを大切にすることは生きていく上で欠かせぬ心構えである。
4月 9日

(まく)煩悩(ぼんのう)

煩悩を起こすな、あれこれ迷うな、一途(いちず)にすすめ、という程度の意味らしい。鎌倉時代、元寇の役、執権北条時宗がその外交処置を誤らなかったのは、中国から招いた禅僧・無学(むがく)祖元(そげん)のこの「(まく)煩悩(ぼんのう)」の一言だという。

我々も一生の間に様々な事件に遭い判断に迷うことがある。その時、明確な目標を確立するには「(まく)煩悩(ぼんのう)」、「(まく)煩悩(ぼんのう)」と自己に命令するもう一人の自己を心の中に養っておかねばならぬ、それは歴史、人間を越えた風雪に耐えた古典を学ぶ事であろう。
4月10日 「随想」

はやきもの
はやきもの
それは水の流れ、百代の過客、光陰などと書き連ねると大層な調べとなるが還暦と共に一市井人となりて過ぎ去りしここ二十年は矢の如しであった。この間敬愛してやまないまだ若いと言える知人
友人の死をただ呆然と然し厳粛に受けとめた。
悠々たるかな宇宙のことなどと思いを馳せていても天地自然の創造進化の必然は一刻の休みもなく粛粛と行われている。
人の生死の後先などはつかの間のことなのであろう。
4月11日

余裕のひととき

初夏のこと、とある昼さがりクラシックを聞きながら屋敷の庭をいじる。驟雨(しゅうう)に驚くがままよと濡れるにまかせるも冷えるので切り上げる。明るい浴室で暖かいシャワーは心地よい。衣を替えて実に爽快な気分で書斎に入る。机上には友より文きたる。 急ぎ封をひらけば懐かしい数々が心を豊かにしてくれる。持つべきは心の友なりとふと窓をみれば夕立は去り早や薄日がさしている。庭の樹木に眼をやれば雷雨は雨滴となり青葉、青葉を伝わり落ちて時折キラッと露光る。思わず硯を持ちて受けとめたい衝動が湧く。五滴六滴で海は既に満潮。落ち着いた心で墨をする。友への筆をとる。陽はまだ高い。
4月12日 微妙なるもの 人間の暮らしとか営みには微妙なるものがある。自然で素朴なのがよい。現代諸悪の根源は成長至上主義にある。人物育成も経済も追求が余りに急すぎた。組織の自己増殖の過程でそれを失った のであろう、現代人の悲哀が聞こえる。
微妙なる営みの中に人間らしい含蓄、風韻が生まれる。その為には発酵と熟成の時が要る。それには自然になることよ、虚を以て養うことよとの内なる声が囁き呟く。 
4月13日 失いて知るもの 若さとは何と素晴らしきものか、未来があるいのちが溢ふれている。万金のカネ地位など比較にならぬ。若さのさ中はその価 値に気づかない、失いて初めて知る。加齢と共に父も母も失い友も失ってゆく。老齢になり健康も一つ二つと失ってゆく。それが生けるものの定めだと沁々と知る。
4月14日 師と友と 近年日本の古きものに一段と関心を深める。人間は加齢と共にルーツを求めるのであろうか。自分を産み且つ育てた大自然への愛着。友なる山川草木。そこに生まれる生きとし生けるものへの熱い眼差し。人間は皆同じと言う連帯感、どんなお方 人生で尊いものを學んでおられる。人間互いに師であり友であると切に思う。人間の表層に付着する世俗的なものは一過性に過ぎぬ。これに囚われるとものの本質を見失う。人間の在り方の基本は恭倹であり慎独だよとおっしやった安岡正篤先生の俤の浮かばぬ日はない。
4月15日 究極の悟言 先般、阪急電車で無心に読んでいる老婆に驚嘆した。近来、苦心探求中の正法眼蔵ではないか。日本の庶民はレベルが高い。仏教に関心を以て久しいが般若心経は高神覚昇師により自分なりのものとし朝の読経は懈怠ない。東大寺元管長の平岡定海師が二月堂ご住職の頃、般若心経の中から所望通りに揮毫して頂いた私の究極の悟言を掛軸にした事がある。
(しん)()?(けい)() ()?(けい)()() 無有(むう)恐怖(くふ) 遠離(おんり)一切(いっさい)]である。
一切は心より転ずと頭で理解しているが。解脱は至難である。
只管打座(しかんたざ)もせず身心(しんじん)脱落(だつらく)出来る道理はない。

まさに(めい)()は我にありだ。

そこに先般、さる高僧の講話で多少安堵する。
曰く、成仏とは生きて悟ること、即ち人間らしい人間になる事だと。
今からでも遅くはあるまい。来たるべき日までの一日一日を修業と心得たい。
4月16日 生きてこそ 密かに思う。迫りくる更なる老いと旅の終わりを。人生への諦観が自然に深められ静かな心で迎えたいと。大河への合流が自然であれと。身は大自然に還るとも心事は留めたいとも。そして静かに人知れずお暇乞いをとも願う。 瞬間は自他も時空も越えたまどろみの中であろうか。母なる大自然に同化される日まで、生かされる日々を生き生きて生きたい。往生(おうじょう)一定(いちじょう)なるが故に生きてこそである。
4月17日 現世の救いは 仏教に関心を持って久しい。智者の振る舞いをせずただ南無阿弥陀仏を唱うればお浄土にいけると仏典にある。鎌倉戦国時代の民衆は飢餓と戦乱でこの世は地獄であった。お念仏を唱え来世に託すしか救いはなかった時代と異なり現代の民衆に果たしてそれだけで現世の救いとなり得るか。 鎌倉時代のように民と共に生き、共に苦しみ、生きる道の見本を示す祖師のような実践者もいない現代僧侶である。現代の衆生を救うには多少の理、ことわりが必要と思える。その理の向こう、人間の最晩年には間違いなく南無阿弥陀仏のみの境地があるとは確信するが。
4月18日 現代宗教を根本的に非難する 然し、青壮年期のこの世の生きる戦いの最中に南無の帰依のみで生きる支えとなり得るか。そういう意味で理のある救いをと私は多年にわたり求め続けてきた。第一、阿弥陀仏は西方浄土の盟主、即ちあの世の仏さまだ。あの世に行く時にお願いするが、この世では現世の仏様に導いて頂きたいと思って少しも不思議はない。 飢餓と戦乱の時代は現世を絶望の末、来世の浄土を祈念するしかなかった。人間は現世を精一杯、誠実に生き抜くことが自ずから来世のお浄土に繋がって少しもおかしくはない。現世の導きと、衆生と共に生きる道の範を示す事こそ現代宗教者の真の目的であらねばなるまい。これらの答えが現代宗教に無いように見える。
4月19日 色は匂へど散りぬるを 仏教の核心に触れたいと思い続けてきた。仏教の基本原理は
三法印(さんぽういん)
四聖諦(しせいたい)」、
十二(じゅうに)縁起(えんぎ)」、
(くう)」と言われる。空海が作ったと言われる、いろは歌は涅槃経(ねはんきょう)諸行(しょぎょう)無常(むじょう)
いろはで表現した日本の傑作である。
「色は匂へど散りぬるを」-
桜花爛漫もこの世の栄華も人間も、文明さえも平家のように必ず滅びる。
「わがよたれぞつねならむ」-我が世誰ぞ常ならむ-これは是生(ぜしょう)滅法(めっぽう)
この世には常なるものは無い、宇宙の本質は変化である。
4月20日 あさきゆめみじゑひもせず 「うゐのおくやまけふこえて」
有為(うい)の奥山今日越えて-あるゆる存在、因縁により作られたものを越えるとは因縁の道理に目覚めること、この世の存在を不変と見ずに因縁により生起(せいき)したと見る-これは生滅滅(しょうめつめつ)()
「あさきゆめみじゑひもせず」-人生は、今日は今日のみの一期一会)と見る。寂滅(じゃくめつ)()(らく)である。諸行(しょぎょう)無常(むじょう)諸法(しょほう)無我(むが)涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)が仏法の真理のしるしの三法印である。すべてのものは無常であり、無我であると悟り執着を断った処に平安な境地が訪れるという事であろう。
4月21日

五蘊(ごうん)(くう)

執着なきはこの世の生き物に非ずだが。諸行とは因縁により造られた一切のもの。これらが連続して流れ、一瞬にして滅する。無常なるものは苦というから第四法印は一切(いっさい)()となる。諸法の法は行と同じで、心身環境を構成する五蘊を空と見る。物質、感覚、知覚、意志、認識のことである。我は存在せず、我々の生命は常に躍動してやまない。我々の生命は一息、一息、一呼吸の中にこそある。 常在(じょうざい)、不変化の実体(じったい)()は存在しない。
これが諸法無我。この原理の上に宗教的実践を行うのが涅槃寂静。現実的には無我であるべき我に執着するが、これを制し、律して自立自由になった時こそ、涅槃寂静である。涅槃は本質的には煩悩の火を消すこと、解脱(げだつ)を意味する。この涅槃の状態を寂静(じゃくじょう)という。自分を縛っているものからの解放、即ち心の浄土である。
4月22日 在るがままに 無常の法は、思考や論理から出発したものではなく、在るがままの現実から把握したものでなくてはなるまい。滅びさったものに感傷を抱くことに仏教は無縁、地上にあるものが無常の劫火(ごうか)に焼かれて滅ぶ(すがた)を在るがままに見ているにすぎない。 苦とは生老病死、再び戻らぬから死を悲しむのは無益、[もう私の力の及ばぬもの]と悟り悲観を去らねばなるまい。霊魂は実在するかしないか、死後の世界が在るかどおかを推論するのが分別で、この分別を超えた世界を仏陀のみが観たのであろう。
4月23日 無常を出発点に 仏は創造神ではない現に存在しているもの、存在に着目し、目前の現象が縁によっていることを見極めるものではないか。
仏法にとって真理とは在るがままの現実が無常であり
在るがままの現実を無常法と観ることを出発点とするのだ思う。
宗教は証明や論証がなされるものではない、稀有(けう)な資質を持つ人のみが、厳しい長い苦行の後に体得するものなのであろう。
4月24日 縁起について。 人生は苦であるのは無明(むみょう)に基ずく。
無明がある限り、老死(ろうし)があり、苦がある。
般若心経に[
無明もなく、無明も尽きることもなく、老死もなく、老死も尽きることもなし]とある。
仏陀の目指した人間苦の除去の為には無明、無苦を明らめねばならぬ。
それには人間の迷いの元である12縁起の連鎖を断ち切らねばならぬ。
12
項目を否定すれば悟りの生き方になる。
生も死もすべて無常で、無我で、縁起したものにすぎないと観ることだ。すべてが無常で、無我であると体得した時、人は仏-覚者になる。
4月25日 ()聖諦(せいたい)
(たい)とは優れた真理のこと。人生は苦であると説いたのが苦聖諦(くせいたい)、苦の原因は欲望や愛着の心にあるという真理を明らめたのが集聖諦(しゅうせいたい)滅聖諦(めっせいたい) は、苦悩の原因である煩悩が無くなった状態をいい、仏教の目指す浄土は涅槃にあると言う真理である。道聖諦(どうせいたい)は、涅槃に到達するための実践方法を説き八正道を指す。仏陀や聖者は、このことを知識としてでなく体得したのだ。
4月26日 欲望は無明 仏教は[不生不滅]
[生と死は別ではない][生死(せいし)一如(いちにょ)]などと説く。又、この世を無常なもの、泡沫の如きものと観る。事物は相互に関係しながら存在する。すなわち、他を縁として生起(せいき)し、他と相関しながら変動していく。
[人間の苦悩は欲望から起きる。欲望は無明、つまり、ことを明らかにできる智がない為に生じる。ものには縁によって起こる原因--縁起があるから、人間が安楽の境地(涅槃)に入るには無明に(とら)われている己を自覚し、欲望に執着せず、すべてありのままの姿で受け取る平静な心で生きることである。]という。
4月27日 縁起の道理 つまり縁起の道理に基く中道(ちゅうどう)の実践により輪廻(りんね)の世界から解脱し、涅槃の境地を得るものだという。
生身(なまみ)の体には欲望があるからこそ生
ておられるという矛盾との相克(そうこく)だ。
更に言えば、涅槃とは執着を超越したこの世で実現すべき心の状態の謂いであり、それこそが救いの浄土もしくは極楽だと私の理に於いて確信する。
4月28日 (くう)について。
すべての物に実体、自性がないことを[][般若(はんにゃ)](くう)なる真理をつかむ智慧を意味し、空と同義語。悟りの智慧で、般若(はんにゃ)(くう)とはとらわれないこと、側面的には[色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)]
形あるものも認識がなければ空。般若の空に徹すれば生のはかなさを知り同時に生の貴さを知る。はかなさゆえに貴い生である。空に徹するとは石に(かじ)りついても生を立派に実現する事か。人間の生死は無相(むそう)(くう)である。死を怖れず、死を求めず、は味わうべき言葉。
4月29日 在るがままに 空は否定と肯定、無と有、の二つを弁証法的に統合している。
在るがままにあるのが空であり、仏の(すがた)であろうか。
終わりに、空海は即身成仏(そくしんじょうぶつ)()において密教にとり生命は宇宙的生命であるとし大宇宙そのものを仏とみた。
4月30日 大日如来 一切を包容する宇宙を仏、大日如来とした。太陽を象徴した仏である。我々の生命は宇宙そのものでありすべて同じ生命を生きているとした。宇宙原理と人格原理の一致、(ぶつ)(ぼん)一如(いちにょ)である。大自然の中に仏を見る生命哲学で生命を讃美する。 大日如来は太陽の如くすべてを生み出す仏で虚無的な性格はなく肯定である。大日如来は三ッの姿で秘密な姿を示す。
(しん)()()である。(しん)(みつ)-身体、(こう)(みつ)-言葉、()(みつ)-心、で大生命の姿とする。山の体、獣の体、人間の体は身蜜、風の声、鳥の声、人間の言葉すべて口蜜、川の心、花の心、人間の心、すべて大日如来の意蜜という。
自然崇拝は縄文以来の日本固有信仰 自然崇拝は縄文以来の日本固有信仰と一致する。
鎌倉以後の祖師達はこの(さん)(みつ)を各自一蜜に専念した。
道元は(しん)(みつ)を強調し、只管打座(しかんたざ)、口蜜の強調は法然と日蓮のお題目、()(みつ)、法然は口に出す念仏に重きを置いたが弟子である親鸞は信心だけで良いとし心を強調した。親鸞に近代性が窺える。