「傘寿」記念特集 岫雲斎の「回想」その六人生とご縁と宗教
はるけくもあゆみ越しかな山々を 八十路になれど道なお遠し 岫雲斎圀典
この二つのビルで私は24年間過したことになる。
平成22年6月度
1日 | 徳川幕府の宗教的過失 |
江戸時代、始祖・家康は北陸の一向一揆に大変難儀した。自分の家老が一向宗の指令を聞くからである。その故であろう、徳川家は浄土宗を傀儡にした。開祖法然さんには、50年に一度は「大師号」を付与するように朝廷に対策した。だから、法然さんは沢山の大師号を貰っている。 |
あの唐招提寺の開祖・鑑真和上は、和上即ち僧侶のままなのである。十年以上前、当寺の森本管長が鑑真和上に大師号を付与すべく動いたが実現できなかった。付与の権限は天皇である。これから見ても浄土宗は徳川幕府の御用宗教であると言える。 |
2日 | 先祖を寺の担保にとられた日本人 |
墓地を握られていると言うことは、宗教の自由、精神の自由が制約されたということである。なんとなれば、江戸時代末期、国民は一人残らず、どこかの寺に所属するような命令が出た、寺が戸籍管理をしたのである。これにより日本の仏教は堕落した。これがそのままの現代の檀家制度である。爾来、寺の僧侶は布教しなくて食えるようになった。 |
だから、江戸末期となると、僧たちは妻帯を始めた。東南アジア諸国の仏教僧は妻帯しない。妻帯は日本の僧侶だけであり堕落だ。我々のような平凡な人間が仏教大学出ただけで、たいした修行もしないし、乱世であるのに、辻説法もしないで、どうして庶民を救済など出来ようか。そして今尚、極楽を唱えるなど、21世紀の日本仏教も衰えるであろう、大都会では現にその兆候が見られている。 |
3日 | 霊魂について |
死んでもあの世はないと思う。だが、霊魂はある、然しその霊魂には形はない。 |
死者の霊魂を感じるのは、死者と生前に心からなる強い関係を結んだ現存する人のみ感じるものであろう。 |
4日 | 死霊と心 |
この世に明かりのない古代を想像してみる。夜は墨汁を流したようで月明かりが無ければ文字通り一寸先も見えまい。ススキの穂が揺れたり草木の風になびく音や影に古人は怯えたのであろう。科学の無い時代の天変地異、死者への畏怖は現代人には想像を絶するものであったろう。 |
特に仕掛けをして殺した人達への恐怖、恨みを抱いて死した人達への恐怖は夜には一段と凄みを増したであろろう。 考えてみれば、あの世の閻魔様や地獄という中世の尻尾はたかが50年前まで我々の中に残っていたのだ。 |
5日 | 心の炎 |
昔は、自分の心の影、良心の痛みに怯えているのだと思うが、死霊として祟りを恐れていたのだ。それに比べると現代人は悪くなった。無惨な殺され方をされた人達の話は枚挙にいとまが無いが死霊なるものが殺人者に仇 |
を打ったと言う話はついぞ聞かない。 然し乍ら、神即ち天地自然の理法とか法則は人間の心も支配している。生きている限り時間をかけて必ず報復して行くであろう事は確信できる。 |
6日 | ドロドロした人間の心の炎 |
このドロドロした人間の心の炎に動かされている嫌な社会現象が益々増えている。人間の性が織りなすこの現実、せめて自分の心だけでも良く耕して行こう、 |
良い種を心田に播いて行こう、良いことのみ思って暮らして行こうと切実に思う昨今である。さすればこの世で神を見ることができるのであろうか。 |
7日 | 恐いのは人間 |
私は登山が好きで各地の山々を登る。時に単独行もする。暗い針葉樹林など歩いている時には動物より一人の人間に遭遇した時のほうが不気味さを覚える時もある。動物は警戒心が強く近づかないし攻撃もしないし喧嘩も人間のように命までとらない。 |
人間は何を考えているのか分からない。心の中の思いこみは良くても悪くても大きい力を発揮する。良いことなら思いこみのエネルギーが強い程成功率が高い。悪い思いこみはエネルギーのうねりを起こす。言われた言葉に傷ついて最近も上司を殺したとの報道があった。 |
8日 | 生霊 |
言われた言葉が多年に亘り根を張り心の中にしっかりした核を育てる。人間の器量とか気質により千差万別ではあろうが、思いこみが恨みとなり長く心に沈殿し、いつの日か必ず現れる。これが生霊、ライブスピリットではあるまいか。生霊のほうが実害をもたらす。 |
死者の霊魂は精神的関係の強い生存者に精神的実体として残る。先祖の命の後継者である子孫に被害を与えるなど仏の道からみて考えられない。考えてみれば有史以来、人間のこの思いこみと恨みで闘争やら殺戮を繰り返し現在でも地上に絶えることはなさそうだ。 |
9日 | 心の陶冶 |
心のコロコロしない人もあらうが心は元来そういう性質を備えているらしい。その心だが他人には本当の処は中々見えないようである。態度、表情、言葉、行動、等々のいわばボディランゲージを総合的に時間をかけて観察し洞察しなくては真の心の実像は把握出来ない事もある。 |
これは人間のみの特徴で動物にはみられない。動物は自己に忠実に生きているからであらうか。いつも、いつも自分の心を見つめて一定の場所で動かないようにするのが修養と言うものかもしれない。ちょっとした刺激でコロコロ動く心、心が満足しない時には炎のように熱くもなる。 |
10日 | 一切は心より転ず |
心の炎立ちである。そうなると手がつけられない。相手の悪い事ばかりの思いが心に充満する。そうなってしまうと悪の思いがどんどん肥大して限りない。善の入る隙がない。心全体にガンが出来てしまう。人により違いがあろうが、やがて炎も燃え尽きる。 |
ふと相手の美点に気づき反省を始めると今度は善の炎が燃え上がる。人間の心は不思議な生き物のようだ。心は孫悟空のように天空を自在にかけめぐる。心の中に地球はおろか宇宙さえ描き俯瞰すらできる。まさに一切は心より転ずる。 |
11日 |
宗教の共通テーマは「心」 |
一切は心より転ずの「心」である。般若心経の核心は「依般若波羅蜜多故。心無けい礙。無けい礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。」であろうと確信している。 |
私の意訳は 「このような菩薩の般若波羅蜜多の智慧の教えによるが故に、即ち無所得の境地で心を綺麗さっぱりとするからこそ、心にわだかまりが無くなる。心にわだかまりや障害がないから何の恐怖も有り得ない、転倒し夢想するような妄想から心が解放されて安心が生じ究極の覚りを得られるのだ。」である。 |
12日 | 一切は心より転ず | 華厳宗に「唯心偈」というのがある。口語訳すると「心はたくみなる画師の如く 種々の五陰をえがき一切世界の中に法として造らざる無し。 心の如く仏も亦しかり 仏の如く衆生も然り 心と仏と及び衆生とは 是の三差別無し。諸仏は悉く一切は心より転ずと 了知したまう。 |
若し能く是の如く解らば彼の人は真の仏を見たてまつらん。心も亦是の身に非ず 身も亦是の心に非ずして一切の仏事を作し自在なること未だ曾て有らず。 若し人もとめて三世一切の仏を 知らんと欲せば 応当に是の如く観ずべし心は諸の如来を造ると。 |
13日 | 山上の垂訓 |
キリスト教の聖書マタイ伝第五章に有名な山上の垂訓がある。この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 |
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。 |
14日 |
心のきよい者は幸いです。 |
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 わたしのために、ののしられたり迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 |
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15日 | 人間は心の持ち方次第 |
心、精神、魂、霊魂、いつの頃からか人間は心の持ち方次第だなと気づいた。そして「一切は心より発する」の自戒の言葉を創った。その後「唯心偈」に「一切は心より転ず」とあるを知る。 |
般若心経にも心に障りが無ければ一切の妄想から超越出来るとある。華厳宗の唯心偈に、心は巧みなる画師の如しの意の「心如巧画師」がある。 |
16日 | 神を見ん |
若いときに傾注した聖書にも「求めよさらば与えられん」がある。マタイ伝の有名な山上の垂訓に「心の清きものその人は神を見ん」とある。神を見んとは含蓄が深い。 |
どおやら人間を救う宗教の深奥は心にある。 「その敬する、仰ぐ、参る、候ふ、侍る、祭る、己をこれに打ち込む、いわゆる献ずる、自献する心、これを宗教と言う」と言ったのは安岡正篤先生である。 |
17日 | 心はどこにあるか | その心だが、一体どこにあるのだろう。どんなものなのだろう。コントロールの難しい心は頭脳でもない、心臓でもない。何となく胸のあたりに潜んでいるようではある。健康状態もよく、平穏で冷静に頭脳が働いている時、心は実に広々と豊かで奥行きも深い。心の重心も下がっているようである。家族にも友人にも部下にも隣人にもゆとり |
を以て望むことができる。処が自分の意に沿わなかったり、心や肉体に不快な刺激が加えられると途端に心は動き始める。コロコロとして自らも心の存在を忘れてしまう事さえ屡々ある。時には頭を通り抜けて心は昇華さえしてしまう。 常に心は見つめてコロコロしないようにしなくてはならぬもののようである。 |
18日 |
心は気体? |
心は気体なのかもしれない。頭脳と肉体と良心とが冷静に連動している時が最高のコンディションのようである。 |
人により心の大きさ、奥行き、重さ、要するに器が大層違うと思われる。重心の位置まで違うらしい。 |
19日 | 精神的実体が霊魂 |
英語のスピリットの訳語は心とか精神、霊、魂、霊魂である。亡霊と使う場合さえある。日本語になると表現が豊富である。自分の身近な人で生存中にこの世で人の心を感動させる行為があったとする。自己犠牲の涙ぐましい行いで自分を支え尽くしその方のお陰で今日の自分があったとする。その故人の言動を思い起こすたびに故人の生き様が強く甦りその方の |
心や精神は涙無しには語れない。そこに故人の心と言うか精神、スピリット即ち魂を感じるからだ。故人が生きているようにさえ思う。この状態こそ故人の精神であり霊であり魂なのだと思う。故人がこの世に残した無形の精神的所産が霊であり魂として生存者に恰も生きているように感じられる、この精神的実体こそ霊魂なのである。 |
20日 | 稲荷山古墳 | この精神的実体こそ霊魂であり魂と言えるのではなかろうか。だから故人と無関係の人には霊魂は感じられない。 だが、殺人者は当該故人と実に深い関係にある筈だ。 |
故人の霊魂は殺人者の中に強く生き続けているに違いない。霊魂とはこのようなものではあるまいかと思った矢先、平成6年9月19日のテレビで稲荷山古墳発掘の話を妻から聞いた。 |
21日 | 埋葬者は雄略天皇に近い方らしい。実に素晴らしい金文字入りの刀剣を発見し発掘した人が手にした瞬間、一天俄にかき曇り雷鳴が轟いたと言う。 |
霊魂との関係でこれをどお考えるか。霊魂に関する私の不遜な考えはこれで振り出しに戻ったように思ったが、無関係であろうか。 |
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22日 | 絶対孤独の存在 |
「人は独りで死ぬ、従って、人は独りであるかのように生きてゆかねばならない」。パスカルのパンセにある言葉である。 |
実に真実であり実感がある険しい、だが誰もが必ず通過しなくてはならぬ真理である。 |
23日 | 人間という存在は |
同じことを、お釈迦様は「人、世間の愛欲の中に在りて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る」と無量寿経で言われてる。「独り来り、独り去る」、 |
人間は「ひとりであるかのように生きねばならない」のである。 これが人間という存在である。 それには森羅万象という法(真理)を求めて強く生きるしかあるまい。 |
24日 | 仏道をならふというは、自己をならふなり |
これは道元禅師の「正法眼蔵」の中の著名な「現成公安」の言葉。 「仏道」とは、仏(釈尊)の説いた教えで仏法とも言う。 |
仏道を習うということは、外のことを習う(学ぶ)のではなく、自己を習う・学ぶことだーと道元禅師は説いている。 道元禅師は「自己をならふといふは、自己を忘るるなり、自己をわするるといふは万法に証せらるるなり」とも。 |
25日 | 自己に執われない・自己を超えること |
「自己を習う・自己を学ぶ」とは、「自己を忘れること」、忘れるとは、忘却でなく、「自己に執われない・自己を超えること」だという。 |
万法に証せらるるなり」の「万法」は、「一切の差別の現象」だが、要するに森羅万象(一切の事象)のこと。 |
26日 |
一切に生かされて生きる |
従って、「万法に証せらるるなり」とは、森羅万象の全てのものに支えられて生きさせて頂くので、自分一人の力ではない、という事。 |
すると 「自己を習うとは、一切に生かされて生きる「真実を知る」との結論になる。 |
27日 | 自己を習い続ける |
このように、わかった自己を更に習うのが禅で、自己とか他者と言った仕切りが除けられ、自己への執着心がすっぽりと抜けると言う。 |
無心に他の為に尽くす自己を習い続けるのだと、松原泰道禅師の法話である。他力本願の浄土宗と異なる、私は自力本願の禅に惹かれるのである。 |
28日 | 物足りない題目仏教 |
古代と違うこの時代、ただ南無阿弥陀仏だけでは、荒々しい人生の戦いの真最中の人間にとっては生きる力とはならないのではないか、死の直前には、すがる思いでそうなるのであろうが。 |
他力本願の大乗仏教に私は物足りない思いを続けてきている。だから禅の教えには強く惹きつけられる。お題目だけ唱えて安心の境地にというのは中世の為政者にとり極めて好都合であったのであろうが。 |
29日 | 仏の形は人間の形 |
空海は知を強調し五ッの知を配して体系化し物質原理と精神原理の一元化を果たした。科学の知恵はこの一ッに過ぎない。知恵と生の一致が密教の理想だが、生を上においている。密教は秘密仏教、なぜ秘密かと言えば、おのれを隠し姿を現さ |
ぬのが生そのもので、生は解明されない何かを宿しているという。人間がそのまま仏となる密教では、仏の形は人間の形であり大宇宙の生命は人間の形となって現れると言う。空海の示した法は生きている。 |
30日 |
お釈迦さまに帰れ |
お釈迦さんの言葉と現在の仏教は大違いのように思える。お釈迦さんの言葉を、色々な人間が、色んな時代に自分なりに解釈して宗派を作ってきた。日本では鎌倉の仏教が原点であろう。私が不思議に思うのは仏壇でもお釈迦さまの仏像でなく始祖の仏像が普及されて、始祖の見解が中心になり過ぎていることである。 |
極端な例があの世のことであり、葬式のことである。 お釈迦さまはこれらに就いて何も云われていない。 私は仏教を学ぶのに原点、即ちお釈迦さまに帰るべきだと主張したいのである。形式的なものが庶民の無知の為に跋扈し蔓延してきたのではないか。 |