日本人の、心の古典12. 歌論書
平成17年10月

 1日

後鳥羽院口伝

後鳥羽院、1180年―1239年、高倉天皇第四皇子、四才で即位、19才で譲位。和歌を奨励し「新古今集」勅撰の霊令を下し、自らも積極的に参加。承久の変に敗れて隠岐に配流、崩御。 口伝は歌論書、藤原定家に対する批判的な言辞が注目される書、和歌に対する見解、心得などが書かれている。
 2日 定家は、さうなき者

定家は、さうなき者なり。さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさあさと思ひたりし上は、まして余人の歌、沙汰にも及ばず。やさしくもあるように見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。

定家は、比類ない歌人である。あれほどにすぐれていた父、俊成の歌をさえも軽々しく思っていたからには、まして他の歌人の歌は問題にするにも及ばない。優美で深みのあるように見える歌の姿は、実に比類ないように思われる。
 3日

道に達したるさまなど、殊勝なりき。歌見知りたるけしき、ゆゆしげなりき。ただし引汲−いんぎふーの心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、ことわりも過ぎたりき。他人の言葉を聞くに及ばず。

歌の道に熟達している様子など、ことさらすぐれて歌のよしあしを見分けているありさまは、恐ろしいほどすぐれている様子だった。しかしながら、ある歌について弁護しようという気になってしまうと、その強引さは鹿のことを馬とするようなものである。人前をはばからぬ勝手気ままな言動は、道理を外れていた。他人の言葉を聞こうともしない。
 4日 無名抄

歌論書、建暦元年1211年―建保元年1216年、鴨長明著。和歌に関する故事も歌人の逸話、作歌の心得、歌体論など。

鴨長明、鎌倉時代の歌人、京都・下加茂神社神官の息子、50才で突然出家、大原に籠もる。
 5日 匡房と能因

また、曰く「匡房卿の歌に、白雲と見ゆるにしるしみ吉野の吉野の山の花盛りかも
これこそはよき歌の本とはおぼえはべれ。

また。俊恵が言うには、「匡房卿の歌に、
白雲=白雲のように見えるので、はっきりわかる、今、吉野の山の桜の花の盛りであることが。

 6日

させる秀句―すくーもなく、かざれる詞もなけれど、姿うるはしくきよげに言ひくだして、たけ高く遠白きなり。

これこそは、優れた歌の手本と思われる。それほど秀逸で巧みな句もなく、飾っている技巧的な詞もないが、歌の風体が端正で、さっぱりとどこおることなく表現して格調高くかつ雄大である。
 7日

たとへば白き色の異なる匂ひもなけれど、もろもろの色にすぐれたるがごとし。よろづのこときはまりてかしこきは、あはくすさまじきなり。

たとへば、白い色が格別の美しさもないけれど、すべての色よりすぐれているようなものである。万事においてこの上もなく勝っているものは、淡白で殺風景なものである。
 8日

この体―ていーはやすきやうにて、きはめて難し。一文字も違ひなばあやしの腰折れになりぬべし。いかにも境にいたらずして詠み出でがたきさまなり。」

この歌のような風体は、簡単なようでいて非常に難しい。一文字も違ってしまつたらば見苦しいし腰折れの歌になってしまうであろう。いかにも高い境地に到達しなくては詠出することの困難な歌体である。」
 9日

また
「心あらん人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを


これは、はじめの歌のやうに限りなく遠白くなどはあらねど、優深くたをやかなり。

また、「心あらん=情理をわきまえている人に見せたいものだ。津国の難波あたりの春の風情は。
これは、はじめの匡房卿の歌のように限りなく崇高で雄大などということはないが、優美でありしなやかである。

10日

たとへば、能書の書ける仮名のし文字のごとし。させる点を加へ、筆を振るへるところもなけれど、ただやすらかにこと少なにて、しかも妙なり。」

たとえば、書のうまい人が書いた仮名の「し」の文字のようなものである。それほど力を入れたところを加えたり、うまい筆づかいを発揮しているところもないけれど、ただ難がなくおだやかで口数が少なくしかも上手なのである。
11日 正徹物語

歌論書、文安5年、1448年、正徹著。

正徹は、1381年―1459年、室町前期の禅僧。冷泉派に学んだ歌人。
12日 待つ恋に

風あらき本あらの小萩袖に見てふけ行く月におもるる白露

この歌は、ふっと我が身を題の心になして詠みたれば待つと言わねども、待つ心聞こえたり。

待つ恋という題で、風あらき=風がはげしく吹いて、本あらの小萩には白露が重々しく置いていて、ふけゆく月下に、訪れる男―ひとーを待つ私の袖にも涙の露が重く置いていることだ。という歌がある。この歌は、完全にわが身を「待つ恋」という題の心に重ねあわせて詠んでいるので、歌の詞では待つと言わないが、待つという心が聞こえてくる。
13日

ちやと聞きて何とも心得られず、たは言を言ひたるやうにおぼゆべき。されども、よくよくわが身をそれになしはてて案ずれば、骨髄に通じておもしろきなり。

ちょっと、聞いていて何とも理解できず、たわけたことを言っているように思われるに違いない。けれども、念入りにわが身を題の心にすっかりとりなして思いめぐらすと、心の底にしみて感興のわく歌である。
14日

萩の咲き乱れたる庭を眺めつつ人を待ち居れば、風あらく本あらの小萩に吹きて、露も句だけ落つるに、袖の涙一つに見えて、月もふけゆくままに、いとど袖の涙も置きまされば、重くなりいて,真萩の露とあらそひたる風情思ひやられて、待つ心深く聞こゆ。

萩の咲き乱れている庭を物思いにふけって眺めながめして、思う人を待って腰を下していると、風が荒く本あらの小萩に吹いて、小萩に置いた露もくだけ落ちる折に、白露も袖の涙も一つに見えて、月の夜も更けてゆくにつれ、一層袖の涙も多くなるので重くなっていって、真萩に重く置いた露と恰も競っているような趣がおのずと想像され、待つ心が深く聞こえる。
15日

縁の端へも出でて、眺め居てこそあるらめと、おしはかるる体なり。まことに心苦しく夜もすがら待ち居たる姿、艶にやさしきなり。

縁の端へも出て、物思いに沈んで座ってこそいるであろうと自然と推し量られる歌の風体である。ほんとうに心苦しく夜通し待って座っている姿が上品で繊細優美である。
16日 風姿花伝1.


風姿花伝 2.

能楽論書、応永7年、1400年成立。全体の完結は応永25年、1418年。作者は世阿弥。現在最古の能楽論。

父、観阿弥の教えや世阿弥自身の考え方を展開、能の修業、演技、演出の心得など特に「花」という理念が能の生命と説く点が重要である。本ホームページでも取り上げた。
(16年8月―9月)

17日 世阿弥

1363年―1443年、観阿弥の子、父観阿弥は、田楽や曲舞の長所を入れて猿楽能を作る。世阿弥は後継者として発展させた。物まね中心の能を、幽玄美を理想とする歌舞中心の能に磨き上げた。

能の作者として数多くの傑作を残した。能楽論としては「風姿花伝」「花鏡」等。晩年は佐渡に流されるなど悲惨。
18日 (風姿花伝)

そもそも、花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得てめづらしきゆへに、もてあそぶなり。

そもそも花という場合も万木千草いずれの花も、四季の内のきまつた時節に咲くものだから咲く時節を待ち得て咲くのが新鮮な感動を与えるので人々が花をめでるのである。
19日

申楽−さるがくーも、人の心にめづらしきと知るところ、すなはち、おもしろき心なり。

猿楽の場合も同じで人々が見て新鮮と感じる心が、同時におもしろいと思う心である。
20日

花とおもしろきとめづらしきと、これ三つは同じ心なり。

従って、「花」と「おもしろさ」と「めづらしき」と、この三つは同じことである。

21日

いづれの花か散らで残るべき。散るゆへによりて、咲くころあればめづらしきなり。

どんな花でもいつかは散るもので、散らずに咲き残る花はない。散るからこそ、また咲く時節がやつてくるので、新鮮さが生じるのである。
22日

能も、住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風体に移れば、めづらしきなり。

能も同じで、同じ境地に停滞しないのが花であると、まず心得るべきである。一つの芸風ばかりを繰り返さず、次々と新しい芸に移るようにすれば、いつも新鮮さが生ずるものである。
23日

秘す花を知ること。秘すれば花なり、秘せざれば花なるべからず、となり。この分けめを知ること、肝要の花なり。

秘密にするがゆえの「花」であることを知ること。秘密にするから「花」なのであり、もし秘密にしなければ「花」であり得ない。この区別を知ることが「花」における極意なのである。

24日

そもそも、一切の事―じー、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆへなり。

一体、すべての物事、諸芸において、その専門の家々で秘事と申すのは、秘密にすることによって大きな効用があるからである。
25日

しかれば、秘事といふことをあらはせば、させることにてもなきものなり。

だからと言って、これを「さしたることでもない」という人は、まだ秘事ということの大きな効用を知らないがためである。
26日

これを「させることにてもなし」と言ふ人は、いまだ秘事といふことの大用を知らぬがゆえなり。

だから、秘事ということの内容を明らかにすると、さしたることでもないものである。だからと言って、これを「さしたることでもない」という人は、まだ秘事ということの大きな効用を知らないがためである。
27日

まづ、この花の口伝におきても「ただめづらしきが花ぞ」と皆人知るならば「さてはめづらしきことあるべし」と、思ひまうけたらん見物衆の前にては、たとひめづらしきことをするとも、見手の心にめづらしき感はあるべからず。

まず、ここで述べている「花」についての秘伝においても、「単に珍しいということが「花」なのだ」と人が皆知っているのであるなら、「それでは何か珍しいことがあるに違いない」と予期しているような観客の前では、たとえ珍しいことをするとしても、見物人の心に珍しいという感はあるはずがない。
28日

見る人のため花ぞとも知らでこそ、為手−してーの花にはなるべけれ。

見る人の側にとって、これが「花」だとも知らずにいてこそ、為手―してーの「花」にはなることができる。
29日

されば、見る人は、ただ思ひのほかにおもしろき上手とばかり見て、これは花ぞとも知らぬが、為手の花なり。さるほどに、人の心に思ひも寄らぬ感を催す手立、これ花なり。

だから、観客は、ただ思いのほかに感興が湧く名手であるとだけ見て、実はこれが「花」なのだともわからないのが、為手の「花」なのである。そうするうちに、人の心に思いもよらない感興を起こさせる方法、それが「花」なのである。
30日 「花」

花が花である為には、秘することが肝要だと説く。「めづらしきこと」が花になるのだとは言え、単に演技の新奇さを求めているのではない。折々の花にふと出会うような新鮮な感動を意味する。

演技者の意図や観客の意識をふと超えたところで、意外なものにめぐりあう新鮮な驚きを覚える境地である。「秘事」を肝要とするのは、秘密主義のことではない。含蓄ある考察が必要。
31日 能の芸

芸が「花」を咲かせるためには、単に演者ひとりの力にだけ終始しない。演者は観客とも関らねばならぬ。寧ろ二者の共感を基盤に「花」が生み出される。

観客をも取り込みながら芸世界を作りあげようとする点にも能の独自性がある。