■ 神学院時代の生活・訓練シリーズ:その1
1984/06/10:スタッフ・ミーティングにおいて
「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。」 (マルコの福音書4:28、29)
アウトライン:
T 最初のテスト ― 御前の歩み U 恩師の教団離脱 ― 神にのみより頼む姿勢 V 倍 加 特 伝 ― 時間の使い方・メソジズム W 教会からのサポート― 信仰経済 X 来訪者 ― 世界宣教へのチャレンジ
T 最初のテスト:
BTCの入試は、筆記試験と面接試験との両方からなされました。面接試験のことも、いろいろ、思い出すことがありますが、それはさて置いて、筆記試験に臨んだときのことが一番印象に残っています。3時間の時間が与えられて、聖書、国語、英語、一般社会(一般常識)と4科目のテストがありました。時間の配分は、自分で自由にと言うことでした。説明が終わると、試験官は「では、終了10分前に、また来ます。質問があったら、その時に伺いましょう」と言い残して、部屋を出て行ってしまわれました。後の時間は、監督官なしで時間です。世の中では、このような情況では、カンニングも起こりうることでしょう。しかし、牧師になる者たちのためのテスト会場、監督官の目があって、、、と言うのではなく、神の御前で、、、なのだ、と言うことを、強く実感しました。そして、「神の御前に、、、」ということが、神学院での生活の根本であることを、間もなく教えられるようになりました。何事をするにも、ダビデのように、神を前においての営みを身につけるよう指導されたのでした。
U 恩師の教団離脱:
第2学年の時のことでした。クリスチャンとして教会生活を初めて以来2年間、神学院入学まで母教会の牧師として、ご指導を頂き、それゆえ尊敬しており、その感化を大きく受けていた恩師が、ある事情があって教団から退くことになりました。その教会からの献身者ということで、恩師とともに教団を退くのが常識的な判断であったかもしれません。しかし、当時の私は、世界宣教に目が開かれた時で、教団が様々な理由で分裂し、いくつもの小グループになってゆくようでは、世界宣教と言う大きな働きが、それによって妨げられるだろう、とすれば、個人的なことには目をつぶって、群れとしての一致を保ち続けることが、主のみこころであるように判断しまして、インマヌエルの群れにそのまま留まることを決意したのです。 心の問題、信仰のことを相談すべき人物が目の前から取り去られました。その結果、人ではなく、神により一層目をあげるような信仰の姿勢に変貌せざるを得ませんでした。
V 倍加特伝:
私が神学院在学中の4年間は、倍加特伝、全県攻略運動とか、次から次へと、国内伝道の方策が打ち出され、それに伴って、神学生たちも、神学院に留まって、静かに学びを継続する、というよりは、各地での特別伝道集会の応援に借り出される毎日でした。夕刻にお弁当持ちで、近隣教会に出掛け、帰院するのは真夜中と言う日々でした。 そのようなスケデュールの中で、学び取ったのは、時間のクズを集めるという知恵とスキルでした。メソジズムと言う学科で教えられた時間の管理の実践が、そこにあったのです。
W 教会からのサポート:
私が神学院で3年間学んでいる間、母教会は忠実にサポートを送り、神学院の必要を賄ってくれました。しかし、個人的な必要のためには、信仰によって満たす必要がありました。
X 来訪者:
私たちが聖宣神学院で学んでいた1960年代は、インマヌエルの群れにとって、世界宣教のヴィジョンが、世界宣教の実践へと移行してゆく時期で、当時、チャペルでみことばを語ってくださる来訪者の中に、多くのインドへの宣教師がおられ、そのメッセージは宣教へのチャレンジに満ちていました。入学当時は、世界宣教に無関心だった私も、在学中に段々と、世界宣教を自分の問題として考え、祈るように変えられていったのです。
■ 神学院院報シリーズ:その3
. 聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供
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■ 神学院時代の生活・訓練シリーズ:その1
1984/06/10:スタッフ・ミーティングにおいて
「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。」
(マルコの福音書4:28、29)
アウトライン:
T 最初のテスト ― 御前の歩み
U 恩師の教団離脱 ― 神にのみより頼む姿勢
V 倍 加 特 伝 ― 時間の使い方・メソジズム
W 教会からのサポート― 信仰経済
X 来訪者 ― 世界宣教へのチャレンジ
T 最初のテスト:
BTCの入試は、筆記試験と面接試験との両方からなされました。面接試験のことも、いろいろ、思い出すことがありますが、それはさて置いて、筆記試験に臨んだときのことが一番印象に残っています。3時間の時間が与えられて、聖書、国語、英語、一般社会(一般常識)と4科目のテストがありました。時間の配分は、自分で自由にと言うことでした。説明が終わると、試験官は「では、終了10分前に、また来ます。質問があったら、その時に伺いましょう」と言い残して、部屋を出て行ってしまわれました。後の時間は、監督官なしで時間です。世の中では、このような情況では、カンニングも起こりうることでしょう。しかし、牧師になる者たちのためのテスト会場、監督官の目があって、、、と言うのではなく、神の御前で、、、なのだ、と言うことを、強く実感しました。そして、「神の御前に、、、」ということが、神学院での生活の根本であることを、間もなく教えられるようになりました。何事をするにも、ダビデのように、神を前においての営みを身につけるよう指導されたのでした。
U 恩師の教団離脱:
第2学年の時のことでした。クリスチャンとして教会生活を初めて以来2年間、神学院入学まで母教会の牧師として、ご指導を頂き、それゆえ尊敬しており、その感化を大きく受けていた恩師が、ある事情があって教団から退くことになりました。その教会からの献身者ということで、恩師とともに教団を退くのが常識的な判断であったかもしれません。しかし、当時の私は、世界宣教に目が開かれた時で、教団が様々な理由で分裂し、いくつもの小グループになってゆくようでは、世界宣教と言う大きな働きが、それによって妨げられるだろう、とすれば、個人的なことには目をつぶって、群れとしての一致を保ち続けることが、主のみこころであるように判断しまして、インマヌエルの群れにそのまま留まることを決意したのです。
心の問題、信仰のことを相談すべき人物が目の前から取り去られました。その結果、人ではなく、神により一層目をあげるような信仰の姿勢に変貌せざるを得ませんでした。
V 倍加特伝:
私が神学院在学中の4年間は、倍加特伝、全県攻略運動とか、次から次へと、国内伝道の方策が打ち出され、それに伴って、神学生たちも、神学院に留まって、静かに学びを継続する、というよりは、各地での特別伝道集会の応援に借り出される毎日でした。夕刻にお弁当持ちで、近隣教会に出掛け、帰院するのは真夜中と言う日々でした。
そのようなスケデュールの中で、学び取ったのは、時間のクズを集めるという知恵とスキルでした。メソジズムと言う学科で教えられた時間の管理の実践が、そこにあったのです。
W 教会からのサポート:
私が神学院で3年間学んでいる間、母教会は忠実にサポートを送り、神学院の必要を賄ってくれました。しかし、個人的な必要のためには、信仰によって満たす必要がありました。
X 来訪者:
私たちが聖宣神学院で学んでいた1960年代は、インマヌエルの群れにとって、世界宣教のヴィジョンが、世界宣教の実践へと移行してゆく時期で、当時、チャペルでみことばを語ってくださる来訪者の中に、多くのインドへの宣教師がおられ、そのメッセージは宣教へのチャレンジに満ちていました。入学当時は、世界宣教に無関心だった私も、在学中に段々と、世界宣教を自分の問題として考え、祈るように変えられていったのです。
■ 神学院院報シリーズ:その3
. 聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供