神学院院報から ■ 「若い同労者への折々のメッセージ」


■  神学院院報シリーズ:その2

「近視眼であり、盲目であって」

「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」
(ペテロ第二、1:9)

  2000年の元旦を迎えた時、 囁かれたY2K問題による大きな混乱・不祥事も惹起こされずにその日を越えた。嬉しいことである。
  しかし、この Y2K問題は人間が如何に近視眼的かを如実に物語っている。コンピューター社会が始まろうとしていた時、専門家でさえ記憶容量の不足のみに思いを向けて、やがて50年、100年後に直面するであろうY2K問題に対する認識を欠いていた。トップ・レベルの科学者・技術者たちも100年先は読めなかったことで大きな代価を支払った。Y2K問題に気づいて、それがもたらす危険・混乱を排除するため、各国、また、様々な企業が注ぎ込んだ対策費たるや、まことに膨大なものであった。まして、Y2K問題に起因する事故なりが発生したなら、その損害額たるや、更に大きなものとなったであろう。
  聖書には、もう一種類の近視眼的な状況に関する言及がある。即ち、ペテロの第二の手紙1章9節をみると冒頭に掲げたことばを見出す。クリスチャンとして「信仰に徳を、徳に知識を、、、そして、兄弟愛に愛を加える」という潔めの生涯における継続的な成熟の証しがなければ、その出発点となる初時の、また、全的といわれる潔めの転機的経験は無にひとしく、自らの歩むべき栄光への道が見えていない近視眼の者、盲目な者であると、老聖徒ペテロは言う。
  昨年聖宣神学院の創設50周年の年を記念して論集「きよめと人間性」が出版された。誠に幸いなことで、50周年記念の年に相応しい企画であった。執筆された諸師、実務に当たられた宣教研究委員会の諸師の労多しとするところであり、改めて感謝するものである。しかし、この論集出版、また、諸論文執筆の背景に、転機的な体験を経験したと証しする私たちのその後の歩みに疑問が投げ掛けられたとのことがある。私たちが「、、、兄弟愛に愛を加え」、「これらが、、、備わり、豊かにな」っている現状ではないことが意識されたことが、この論文執筆への一理由であったことを覚える時、必ずしも喜んでもいられない気がする。私たちは、この点でも近視眼的ではないのか。

■  神学院院報シリーズ:その1

■  神学院院報シリーズ:その3

.                                   聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


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