. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデ以外による詩篇」 に学ぶ : 第11講
■ 今日の「井戸掘り」

    「それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきつかさたちよ、慎め。」              詩篇2:1〜12E 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   人は考える葦だと言われているように、人は、その考えたこと、心に理解したことを行動に移します。それゆえ「悟る」ということが「慎む」に先だってなされなければなりません。「悟る」ことなしには、相応しい行動は、いかなる行動も生まれてこないのです。

   しかし、一旦心が悟りを得ると、それに基づいて、手足が動きます。ここでは「慎む」と言う姿勢になって顕われてくるのです。

   地の権力者たち、王や裁き司たちは、権力を手にしているがゆえに、自らの立場を誤解して、恰も、絶対権力者のように振舞いがちです。それで、彼らは、彼らの上に至高の存在者がおられて、彼らは、その天におられる方のみこころの、地上における遂行者に過ぎないことを「悟る」必要があり、また、その悟り・理解に基づいて、自らの行動を「慎む」ことが必要です。

   「天の御座に着いておられる方」の存在を悟り、そのみこころを悟ることが、地上の王たち、さばき司には、絶対必要です。そうすることをしなかったので、過去の地上の権力者の多くは、暴走して、恰も絶対権力を有するかのように横暴に振る舞い、正義を忘れ去ったのです。

   現代では「主権在民」と言われ、特定の権力者に権力があるのではなく、権言は国民にあると言う理解が浸透しています。例え、君主制から民主制に体制が変ったとして、「天におられるお方」の存在を頷き、そのみこころを「悟る」ことが必要です。民主主義の名の下に、神を否定し、そのみこころを蹂躙するような社会を作り上げてゆくことが、実際に行われています。「悟る」こと、「慎む」ことをしないからです。

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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