. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第1講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。」. . . . . ペテロの第二の手紙1:1 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   神の子たちは、恵みの階段を昇れば上るほど謙遜になっていくのでしょう。ペテロは、その第一の手紙では、冒頭の自己紹介に、単に「イエス・キリストの使徒」とのみ書きましたが、この第二の手紙の冒頭には、それに加えて「」イエス・キリストのしもべ」と言う句を付け加えています。使徒といった権威を表すタイトルよりも、しもべという謙遜を表す肩書きのほうが、パウロ同様、意識の中で大きくなってきているのです。

   第一の手紙では、手紙の受け取り手がどこにいるかという、地上での所在への言及が顕著ですが、第二の手紙では、キリストに焦点があっています。そして、キリストが「神であり救い主である」として紹介されています。「私たちの神」と言う表現に、ペテロが生涯かけて宣べ伝えてきた真理が結晶しているのをみます。キリストが救い主であられるためには、神であることが必須であるという論点は、後にニケヤ会議でアタナシウスが展開した論点です。キリストの神性を否定することは、キリストが救い主であることも否定することになります。

   「キリストの義によって、、、信仰を受けた人々」ということばは、パウロ的です。しみの咎もないキリストの生涯と死、そして、それによってキリストが得られた義こそが、私たちの信仰を支えるものなのです。そのような信仰ですから「尊い」と書かれているのは当然でしょう。

   そして最後に「私たちと同じ信仰を受けた」との句ですが、この表現もパウロ的ではないでしょうか。信仰は、神の賜物で、私たちにとっては「受ける」ものだということです。現代のクリスチャンの多くは、信仰について語るとき、「受ける」というより「信仰を持つ」、「信仰に入る」といった自分の主体性を強調して語りますでしょう。しかし、初代のクリスチャンたちにとっては「信仰は受け」取るべきもの、「神の賜物」だったのです。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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