. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第3講
■ 今日の「井戸掘り」

「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」. . . . . ペテロの第二の手紙1:3 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   この第3節、誤訳とまではいえませんが、最後の箇所「私たちに与えるからです」は、「与えたからです」と過去形で訳したほうが正確でしょう(文語訳を参照のこと)。ここに記されていることは、既に備えられた恵みであって、近いにせよ遠いにせよ、将来そうなるというものではありません。既に「与えられた」のです。

   さて冒頭の「ご自身の栄光と徳によって召されたお方」も、欄外註をみますと「、、、『徳へと』召されたお方」とも訳せるとあります。神の栄光と徳は、神が召しなさる時の手段なのでしょうか、それとも、別訳が示すように、神の召しの目標なのでしょうか。どちらにも真理がありますが、「ご自身の栄光と徳へと、、、」のほうが、訳として相応しいように感じます。

   「いのちと敬虔」と二つのことが列記してありますが、ギリシャ語では、このような表現の場合、一つが他を修飾すると理解したほうが良いようです。すなわち「いのちと敬虔」は、「敬虔な生き方・人生」を指すものといえるでしょう。主イエスの神としての御力は、信仰生涯にかかわるすべての必要なものを備えてくださったのです。ここにおいても、再び、主イエスの神性が強調されています。

   2節に「主イエスを知ることによって」とありましたが、この3節にも「、、、私たちが知ったことによって」とあります。更に8節には「私たちの主イエス・キリストを知る点で、、、」とあって、ペテロは信仰における体験的な知識を強調しています。父なる神、また、主イエスを知ることも恵みは素晴らしいものです。ヨハネも「永遠のいのちは、御父と御子を知ることにある」と書いているのを想い起こします(ヨハネ17:3)。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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