紀伊半島・縦横

紀伊半島、縦断・横断の意である。紀伊半島とは近畿のどの辺から半島になるのか知らない。漠然と堺あたりはまだ半島の域内ではないように思う。地図を広げて見ると、紀伊半島とは大阪湾に出っ張っている田倉崎の灯台以南、そして東は伊勢の安乗岬の灯台の南あたりからであろうかと推察する。そして半島の中央は、矢張り吉野山から南からである事は間違いないような気がする。

その吉野山の蔵王権現堂から紀南の熊野本宮大社までは、将に紀伊半島の脊梁をなす山脈であり、これが紀伊半島の脊髄と言える。蔵王権現堂から熊野本宮までは100キロを越える、その脊梁の山々に途絶えることなき一筋の(そま)道が延々と続く、これが「大峯奥駈道」と言われ中世から日本最古の山岳宗教修験場である。これは去る12月に日本海新聞の潮流に寄稿した通りである。

その熊野本宮へ、中世の天皇・上皇初めとする公家・女官から一般庶民の補陀洛信仰(ふだらく)は驚くばかりのものがある。梁塵秘抄に歌われている、(蟻の熊野詣で)

[熊野へ参らむと思へどもかちより参れば道遠し。すぐれ て山きびし、むま(馬)にて参れば苦行ならず、空より参らむ羽たべ若王子]。

京の都から、幾多の険しい山々を越えての本宮詣では想像を絶するものがある。あの後白河上皇は述べ34回の熊野詣でをしておられ、驚異そのものだ。

それは、私がこの熊野詣でに魅せられて、伊勢路以外の古道を略々全部、歩行し終えての実感である。

この熊野詣での最も至難なものが先述の「大峯奥駈道」である。

最もポピュラーなものが紀伊田辺から内陸部の滝尻を経ての「中辺路」、これは田辺から本宮まで約80キロ。世界遺産に登録されてから老若男女が多く見られ俗化進行形である。

紀伊路というのは、京の都から伏見の川下りをして大阪の天満から大阪湾岸近くを南下し紀伊田辺への道である。大辺路は、この田辺を起点として海岸部寄りの古道で、白浜の富田坂から周参見、見老津、田並、串本から紀伊姫を時に海岸近く、時に山中深く辿り紀伊勝浦の天満宮を経て那智川河口の補陀洛王子社に辿り着くもので全長120キロである。
そこから更に那智大滝、青岸渡寺、大雲取山を越えて本宮に至るという頗るつきの道を歩むのだから凄いものだ。

大峯奥駈道ほどではないが、紀伊半島深奥部を通る「小辺路」がある。途中に宿がなく、まだ必ずしもポピュラーではない古道である。山々を登り下り進む「小辺路」は約70キロがある。高野山から数日の山中泊りを重ねつつ十津川、果無山脈を横断して本宮に詣でるのだから、大変な道である。私は親友と昨年春に決行している。小辺路は自然そのままの古道で大峯奥駆道に次ぐ長丁場だけにとても素晴らしい。高度1000米の山々を幾つか越えなくてはならぬ。

更に、高野山の町石道も入れなくてはなるまい。私は既にこの道もすませている。

それ程までにして中世の人々は何故熊野詣でをしたのか。
この世が余りにも戦乱や飢饉やらで人生に希望がなく、あの世に浄土を願わざるを得なかった中世であったのだ。
だから、当時の僧たちは裸足で街頭に進出し、信仰を唱えて庶民の心の救済に乗り出した。日本仏教の開祖たちの出現である。弘法大師、伝教大師、日蓮上人、道元禅師等々である。
当時の無知な庶民に対しては、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで極楽浄土に行けると説かねばならぬ背景があったのだ。だが、現代の庶民はこのような当時の説教だけでは救えまい。僧侶が、極楽浄土に死んだら行けると説くには無理がある。

この現実の世の中こそ極楽にしなくては人間は余りにも悲しい存在ではないか。
あの世に極楽を求めて、せめてもの救いとした中世の人々の辛い現実が、この熊野信仰の根の部分ではなかろうか。

このような事を考えながら、私は親友と共に、ここ数年かけて、伊勢路以外の熊野古道を歩み続けてきた。

もとより、紀伊半島の大峯奥駈道周辺の主な山々も登山している。台高山脈、果無山脈、金剛・葛城連山、それらの周辺の山々や渓谷も歩んできた。勿論ごく主要な山だけであり残っている険しい山もまだまだ沢山あるが、私は紀伊半島を東西南北、縦横に歩き廻ったような気持ちである。

だが、まだまだこれからだと思っている。私は更に半島の古道や山並みを逍遥し続けるであろう。是非とも半島の山野を歩き続けたい、人生と同じように、生きてある限り、私は今日も歩き続ける。

平成19年2月1日 徳永圀典