鳥取木鶏研究会 4.月レジメ 「徳永の近・現代史」

明治の外交課題ー朝鮮半島

1.      当時わが国が抱えていた最大の国家目的の一つは欧米諸国の恫喝と無知と武力の故に幕末に締結した不平等条約の改正であった。明治4年右大臣岩倉具視を全権大使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを従え使節団を欧米に派遣した。先ず米国で改正交渉、最恵国待遇があり米国一国だけでは改正が成立しないので打ち切った。その後ヨーロッパ諸国を歴訪し見聞を広めた結果、条約改正の前提には内治整備が急務と痛感し帰国。事後条約改正は明治末期となる。これは欧米諸国の論理と一方的ルールの押し付けであり彼等の植民地収奪の手法である。現在の国際金融経済の手法と酷似している。これらへの対抗策はやはり論理と力と情報、外交能力武力を背景にしなくては対抗は至難と見られる。16世紀以来、世界の屋台骨を支えてきた彼らの財力、情報、人脈、武力と連携が背景として大きなパワーであり農耕民族は彼ら狩猟民族に対抗は所詮無理があるのかもしれない。それ故に国益を守るという命題は国家戦略として常になくてはならぬが今なお国家的反省が全く無きに等しい。明治維新の元老にはあの鎖国の中にあってそれを保有していた。これは国家国益を死守するという白刃の上を渡る思いの所産であろう。

2..江戸時代から友好関係ある朝鮮と新たな国交を開こうとした。鎖国の朝鮮は1637年から清国への朝貢国であり、従来の慣習に異なるとして天皇の名の国書を拒否し続けた。天皇の皇は清国の皇帝のみ使うとした。現在でも日本国の象徴である天皇を日王と呼ぶなど非礼極まりない韓国である。これでは真の友好関係は無理であり頑迷固陋さは少しも変わらない。この封建的な朝鮮はロシアに狙われており世界の欧米覇権に対抗して生きようとする日本の弊害であった。放置すれば朝鮮はロシアの植民地化は必至であり日本の安全の為に絶対に避けねばならぬ事態であり、これは当時の国際的常識で判断しなくてはならぬ。これが朝鮮を日本が併合した原因である。政府は次第に強硬論となり明治6年板垣退助は軍隊派遣を主張、西郷隆盛は使者派遣を提議、全権大使として朝鮮に渡り先ず開国を要望して事態の打開を図ることを主張し閣議決定。処が欧米視察から帰国の岩倉具視は強く反対、内治優先を主張し閣議決定を覆した。西郷は辞職し、板垣退助、江藤新平、副島種臣の参議も下野し政府首脳は分裂した。

3.閣内の征韓論争後も政府は朝鮮との修好を計ったが進展しない。明治8年江華島沖で測量など示威行動をした軍艦に朝鮮の砲台から攻撃を受けた。翌年、朝鮮に使節を派遣し開国を要求し日朝修好条約を結ばせた。この第一条に、清国の宗主権を排除し朝鮮は独立国である事を掲げさせ朝鮮の独立を日本は支援した。清国はあくまで宗主権を誇示し朝鮮に干渉、為に半島南下を図るロシアに対しても日本は外交交渉をすることとなる。このように宗主国、―清は漢民族でなく本来は化外の民の筈だが----以上に儒教にどっぷり浸かる李朝、朝鮮には全く自主権がない状況であった

琉球台湾千島

清国とはほぼ対等の関係にあったが琉球問題で紛争が生じた。廃藩置県に際して琉球を鹿児島藩に編入したが翌年琉球藩とした。琉球国王尚泰を藩王として華族とした。明治4年琉球民が台湾で殺害された。この時清国は、台湾島民には二種類あり、清国に従わない島民は「自国の支配の及ばない化外の民」と称して責任を放棄した。よって政府は明治7年軍隊を台湾に派遣し占領した。大久保利通の北京での事件解決交渉も難航、英国の調停により妥協成立。清国は日本の台湾出兵を義挙と認定し賠償金支払いで解決した。これにより琉球問題は解決し明治12年琉球藩を沖縄県とした。明治8-1875年ロシアと「樺太千島交換条約」にて樺太全島をロシア、千島列島全島を日本領土と決定した。対米敗戦後、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破り、泥棒猫の如く満州に侵入し数十万の日本人を拉致したが千島列島も占領したままである。

西郷隆盛

今なお国民的に人気の高い人である。茫洋としたタイジンの風格は魅力がある。西郷は早くから西洋を学んでいて開国論者の橋本左内とも交友あり叉福沢諭吉の書物も読み絶賛している。然し本質的には東洋的思想による政治哲学の保有者である。西郷隆盛の「南洲翁遺訓」には次ぎの言葉がある。「文明とは、道徳があまねく実現されることであり、立派な宮殿が建設されたり、きらびやかな衣服をまとったり、外観が派手になったりすることではない」「真の文明国とは、未開の国に対して慈悲をもとに開明に導くべきで残酷な方法で利益を求める西洋のやり方は野蛮というべきだ」と記されている。―愚生の潮流寄稿―西南の役では賊とされたが、西郷挙兵の精神には非難すべき点はなく政府が西郷を死にやったと福沢諭吉は論じたし中江兆民や内村鑑三も西郷を支持した。西洋式の官軍が薩摩士族を破り西郷は自刃した。西南の役を最後に武士の反乱も終わり名実共に武士の時代は終焉した。然し、武士の精神を持ちつつ近代化を進めよという西郷の識見と気概は当時の人々の共感を呼んだ。現代もそれは極めて大切である。これを忘れているからこそ21世紀の今日の悲劇を招いたと言える。この500年間に渡る欧米諸国の世界植民地化は野蛮主義そのものである。これはいまなお不変の彼等の本質的要素であり21世紀の現在でも国際政治・金融・経済での野蛮なる手法は変わらない。この歴史的事実をしかと認識した上での対米同盟、日本の主権確立が絶対的に必要である。

教育と啓蒙思想

 

文部省は明治4年に新設。フランスの学区制を模倣、学問は国民が身を立て智を進め産を作る実学主義が説かれた。福沢諭吉、新島襄、大隈重信などの特色ある私学により人材も輩出した。明治7-1874年には500名以上がイギリス・アメリカ・フランスなど海外留学をした。福沢は英米流の功利主義・自由主義で人間の自由・平等・独立の精神と実学を尊重した。フランス、ドイツなど西洋の新しい思想が大いに紹介された。明治3年最初の日刊新聞、横浜毎日新聞であるが、相次いで新聞・雑誌が新思想の普及に大きい役割を果たした。怒涛のような欧米化の進展が見られるが、西郷隆盛、佐々木高行等の伝統精神が伴わず、これが日本の百年後に大きい禍根を残すこととなる。

 

文明開化の音がする

政府は率先して西洋風俗を採用し奨励した。明治4年散髪令により、ざんぎり頭が増えた。軍隊での洋服や靴が官吏や警察も着用、一般にも広く使用されるようになった。牛肉を食べるようになった。銀座の赤レンガの建物、石油ランプ、ガス灯、馬車、人力車も登場。明治5年には太陰暦から太陽暦にした。それは明治5-1872-123日を明治611日とした。一週間七日制とし日曜日を休日とするなど、国民生活が一挙に西洋式に変化してしまった。この明治初年の文明開化の風潮は対米敗戦後のアメリカ文化へ一挙に従属したのと同様で、余りにも日本文化を捨てすぎたと思われる。貴重な仏像、浮世絵など伝統的美術品をさも後進のように思い、したたかな外国人の手に渡ってしまった。対米敗戦後にこの傾向が一段と進み、敗戦後60年で、日本の日本らしいものが消失したばかりか、日本人と思えぬ青少年が育ってしまい、2000年の伝統ある国家の矜持を放棄させてしまった。その第一次が明治初年の文明開化であり軽薄の謗りは免れまい。新しいものへの好奇心は日本人の長所であり欠陥であるが、国家のアイデンティティ喪失にまで及ぶとは民族的大問題と思われる。

ベルツの見た日本人

明治初年の日本の風潮はどんなものであったか。明治は余りにも日本の伝統文化を捨てすぎた第一次と記載した。当時の教養と知性ある白人は日本をどう見ていたのか、実に興味深く示唆に富む読み物がある。明治91025日付ベルツの日記である。[我々中世の騎士時代の文化状態にあったのが、昨日から今日へと一足飛びに、我々欧州の文化発展に要した5百年たっぷりの期間を飛び越えて19世紀の全成果を即座に、しかも一時に我が物にしようとしている。・・このような大跳躍の場合・・これは寧ろ「死の跳躍」と言うべきで、その際、日本国民が首を折らねば何よりですが。・・何と不思議なことには、現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした。」と私に言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、我々の歴史は今からやっと始るのです」と断言しました。]この日記はドイツ医学者で日本で著名なベルツ博士である。唖然とする程に対米敗戦後、伝統文化を捨てて省みない現代日本人と変わらない。西洋は野蛮じゃ、と本質を喝破した西郷隆盛、日本は近代法律と技術以外は西洋に学ぶ必要なしと見識を示した佐々木高行が偲ばれる。

余談
白人優位

不平等条約の改正交渉を有利に進めようとして行った極端な欧化政策を象徴する言葉が鹿鳴館であろう。これは甚だ悲壮で滑稽である。国民は反発した。明治19年のイギリス船ノルマントン号事件―日本人20名を乗せて横浜から神戸へ行く途中、和歌山沖で沈没、船長以下乗組員全員脱出、日本人全員水死。神戸の領事裁判所は船長無罪、横浜領事裁判所では船長禁固3ケ月、賠償なし。国民は憤激、外国人が裁判権を握っている以上、正当な裁判は行われないと完全な法権力回復を求める声が沸きあがった。万国国際法という欧米に都合のいい法を力で押し付け後進国を人間扱いしない白人優位の人種差別である。これが日本国をして白人の人種差別撤廃へ向けて堅く志を持つ事となって行く。