. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「アブラハムの生涯」 からの礼拝説教 : 第11講
■ 今日の「井戸掘り」

 「アブラハムは、そこからネゲブへ」           創世記20:1〜18 

  ■ 井戸を掘りましょう:

.   先週紹介させて頂きましたように、私の母が姉に連れられて東大和の私た ちの礼拝に出席しておりました。母は今87才ですが、主イエスの救いに与 ったのはそんなに若い時ではありませんでした。多分50才を過ぎてからの 事だったように記憶しています。母の家は禅宗の家で、宗教、また、信仰と は人間的な修業といった理解が強かったからでしょうか。無代価で提供され る恵みの世界をなかなか捉えられなかったものと思われます。

.   しかし、それ以上に今朝私たちが学ぼうとしていることが、母のつまずき の原因でした。

.   第九節、アビメレクとアブラハムの二人が登場します。アビメレクは信仰 者ではありません。真の神を知らない人物でした。一方、アブラハムは信仰 者でした。ところが、九節の終わりの方を見ますと、諌め、正しているのは アビメレクの方で、アブラハムの誤ちをアビメレクの方が指摘しているので す。全面的にではないにしても、少なくとも、この出来事に関しては、人格、 また、行動においても、アビメレクの方が信仰者のアブラハムより上なのです。アブラハムの方が人間的にできていません。

.   母はクリスチャンではありませんでしたが、道徳的に非常に厳格で、子ど も対するしつけにおいても、また、自分自身に対してもそうで、律義と言え ましょう。姉の名が"律子"なのも、それと関係があるのかもしれません。 母は律義であればあるほど、キリストに対する信仰は持ちにくかったようで す。自分の義を主張します。いろいろ誘われて、教会に行くようになって、 牧師にいろいろ、主人、即ち、私の父、に関する不平不満を打ち明けたこと があったようです。その時の牧師さんは黙って、その不平不満を聞いて後、 ひとこと"ご主人のことはさておいて、あなたは如何なのですか、奥さん" と語ったのです。聖霊が働いてくださって、母はそのひとことで、心を開く ようになりました。

.   さて、聖書に戻って、先週私たちは一九章をまなび、ソドム、ゴモラなど ヨルダンの低地の町々が滅ぼされた時の事を心に留めました。聖書には地震 のことは言及してありませんが、なにかの地殻変動が起こって、ガスが吹き 出したものと思われます。この地方にある死海は、塩分の濃度が非常に高い ことで知られています。周辺の地域には、硫黄、タ−ルが豊富に見出されま す。

.   ロトとその二人の娘は、アブラハムの必死の執成によって、また、それ以 上に神の彼らに対するあわれみの故に、ソドムから救出されました。19章 27、28節には神が、ソドムを滅ぼすと、アブラハムに語られた場所、そ れで、アブラハムがロトの為に祈った場所に、再びアブラハムは赴いたとあ ります。28節、「見下ろすと、、、」とあります。

.   戦災にあった東京の町まちさながら、かって家々が建ち、狭い道路から家 々の間の空を眺めるような具合だったのが、家が焼け落ち、今迄になく、広 々と開けた視野が目の前にある、、、。

.   アブラハムがかって祈った場所から、家々は焼け落ちているのを「見下ろ」 した時、ふと"恐ろしい"との思いが心を襲ったのかもしれません。20: 1をみますと、遠くへ逃げたほうが良い、と彼が判断したからでしょうか、 20:1を見て頂きますと、恐怖の念が走ったかのように見えます。"こ れは遠くへ行った方が良い。"アブラハムはネゲブの地方に移って行きまし た。ずっと南の荒涼とした荒ら野の地帯です。そこで20章に記録されてい る問題に直面したのです。<br>

T アブラハムの問題

.   アブラハムは後に新約聖書では「信仰の父」と呼ばれ、それで尊敬されて います。しかし、この時、彼は信仰を一時的にせよ見失った状態だったよう です。あまりの恐怖の故だったのでしょうか。

.   階段で転びますと、しばしば一段転げ落ちるだけでは済みません。幾段か ガタガタと滑り落ちてしまいます。

.   同様に、信仰を見失ったアブラハムには次の問題が待ち受けていました。 彼には妻サラが一緒にいました。アブラハムはネゲブの異国の人々の事を思 った時、彼らが美しい妻サラを奪うために、夫である自分を殺すかもしれな い、と思ったのです。新しい恐怖が彼の心に沸き上がってきました。恐怖に 捉えられ、信仰を見失うと底無し沼に落ち込んだも同様です。

.   今朝の礼拝の為の交読文は、詩篇七八篇でした。そこには神の民、イスラ エルに対する神の導き、み守りの事実がうたわれています。一四節に「神は、 昼は雲をもって、彼らを導き、夜は、夜通し炎の光で彼らを導いた。」と。 神はその民を導き、守る神です。

.   出エジプトの出来事の時も、エジプトの奴隷の苦しみの地から逃れたイス ラエル人をパロの軍勢が逃すまじと追ってきたことが記されています。その 時、神はイスラエル人と追っ手のエジプトの軍勢との間に割って入りり、イ スラエルを守られました。荒ら野の旅行中、ずっと伴い続けたあの雲の柱、 火の柱によってです。神は敵の手から、追っ手から神の民を隠し守られたの です。

.   アブラハムはソドム滅亡の危機に直面して、また、異教徒の真っ只中にあ って、この神のみ守りの約束を忘れたのか、見失っていたのです。そして、 自分の知恵と努力でなんとかしようとしますと、私たちはしばしば誤った手 段へと走って行くのです。アブラハムがそうでした。

.   第二節をご覧ください。妻のサラを「妹」として人々に語っています。決 して真っ赤な嘘ではありませんでした。私たち現代人には余り考えられない ことですが、アブラハムとサラは母親を異にする兄弟姉妹だったのです。ア ブラハムの発言には、ある真実があります。

.   しかし、ある人が言うように、一部の真実を語っていても、その動機が誤 魔化そうというものであれば、それは偽りになる、のです。ことば上では、 何の偽りもなく、真実のみの場合でも、気持ち、動機が偽り、誤魔化すこと にあれば、それは立派な偽りです。

.   アブラハムはこの偽りの態度を初めて取ったのでしたでしょうか。いいえ、 そうではありません。12章をみますと、カルデヤのウルからカナンに下っ てきて直後のこと、カナンに飢饉があって、彼らがエジプトに下って行った 時にも、エジプトのパロに対して、彼は同じ手を用いました。自分の命を危 険から守る為に、彼はサラを妹と偽ったのです。

.   サタンはどのようにして、私たちを攻撃し、陥し入れたらよいかをよく弁 えた存在です。今、高校野球がたけなわですが、野球でも、このチ−ムはレ フトが下手で、エラ−が多いと判れば"レフトを狙え"という事になって、 弱いところに集中打を浴びせようとします。サタンも、私たちの弱点をしる と、そこに集中攻撃を掛けてくるのです。私たちの道徳的弱点を徹底的に攻 めてきます。

.   アブラハムは身の安全を守ろうとして、偽りを方便として用いました。妻 のサラを"これは私の妹です"と偽って紹介したのです。サタンは再び同じ 点を突いてきました。異教徒の真っ只中にあって、真の神の証し人として立 つべき人物が、逆につまずきを与えたのです。アビメレクは"妹"と聞いて、 美しいサラを安心して宮廷に迎え入れました。

.   3節。夫ある婦人を宮廷に入れた、ということでアビメレクは神からのけ ん責に会いました。死の宣告がなされました。これに対して、アビメレクは 4、5節にプロテストしています。「正しい心」は動機を、「汚れない手」 は方法を示しています。アビメレクは動機に於いても、方法に於いても、責 められる点はないと主張しました。神はアビメレクの抗議を受け入れて、解 決への道を示されました。

.   このアビメレクにもう少し目を注いで見ましょう。アビメレクをいう名は "王の父"と言う意味です。さて、先ず8節には彼の指導者としての勝れた 素質、危険、誤ちを感知した時、ただちにそれに対応しているのを見ます。 「翌朝早く」とあります。また、「彼のしもべを全部呼び寄せ」たのです。 時間的にも、範囲的にも、彼の行動は彼のこころの潔白を証しするものでし た。

.   そして、9節。彼はアブラハムを呼び寄せて語ります。「あなたは何とい うことをしてくれたのか。」 異教徒が信仰者をその道徳的な行為に関して 諌めているのです。立場が逆転しています。信仰者は、主イエスのことばに よれば「世の光」です。火をともして、あかあかと周囲を照らすべき存在な のです。アビメレクは、アブラハムにいわば"あなたはともしびではないか。 火をあかあかとともしておくべきなのに、あなたの火は消えていませんか" と言ったのです。アブラハムは"異教徒には神を恐れることがないから、、" と理由を述べていますが、なんと説得力のない説明でしょうか。信仰を見失 い、信仰的に後退している人物が、何を語っても虚しいものです。信仰を失 うことは、こころの平安を失うのみか、証しを失うことです。証し人をして の存在価値を失うことです。

.   それに比して、アビメレク、この異教徒の人格者の寛容さを目に留めまし ょう。「アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。」14、15節。

U この出来事を通して、アブラハムからどのような教訓を私たちは得るでしょう。

 A.先ず、第一には、信仰を見失うことは、凡てを失う事にもなる、とのレ  ッスンです。アブラハムがこの出来事を通して失ったのものを数え上げて みましょう。

.   神に従っていれば何が起こっても大丈夫という安堵感、安心感が失われま した。彼はソドム、ゴモラが滅亡した時、何故そそくさとネゲブの地方に逃 れるようにして下っていったのでしょうか。ロトに対して、神は「山に逃れ なさい」と命じなさいました。信仰は危機の中にあって、逃れるべき道を教 えます。信仰を失いますと、神のみことばの保証さえも不十分に思えてくる のです。イザヤ書26:3に有名なおことばがあります。「志の堅固な者を あなたは全き平安のうちに守られます。その心があなたに信頼しているから です。」

.   信仰こそが平安の土台なのです。信仰を見失うことは、平安を失 うことです。

.   11節、アブラハムは正しい判断力を失いました。確かに"人を見たら泥 棒と思え"という諺がないわけではありません。連続幼女殺人事件を見てい ますと、まさに子どもに"人を見たら殺人鬼と思え"と教えなければならな いような淋しい現代です。しかし、一方では"渡る世間に鬼はなし"という 諺があります。諺は両面を語っています。アビメレクは人格者でした。真の 神の信仰者ではありませんでしたが、人間的にできた人でした。5節、正し い動機と正しい方法、八節、速やかな対応、14、15節、寛大さ、その他、 多くの佳きものをもっている人でした。こういう人を捉えて、神の民に加え ることができれば、何と素晴らしい事でしょう。しかし、信仰を失ったアブ ラハムの目には、凡てが黒に映るのです。彼は判断を見失った人物。被害妄 想に捉われたともいえます。周囲の人が皆彼に危害を及ぼすように思えたの です。

.   第三に、既に学びましたが、真実さを失いました。アブラハム、危険の中 でも神に依り頼み、神の守り得たもう力を証しすべき人物が、こともあろう に真実さを失って、偽りを述べようとは。偽りという衣は、紙の衣みたいで、 あまり役に立ちません。一雨あれば、もう駄目になります。

.   アブラハムの失ったもの、第四に、証しの機会です。彼に人生はこのため のものだったのではなかったでしょうか。この目的で、アブラハムはカルデ ヤを出たのではなかったのですか。しかし、信仰を失うことは、その証しさ え失う事だったのです。彼の人生の目的、意義さえも失っていました。  真の神への信仰を失うことは、凡てを失うことです。

B.第二のレッスンは、真の神を知らない異教徒の中にも、人格者がいると .   いう事です。何故でしょうか。神学的には、神の先行的恩寵の故と説明さ れます。救いに先立つ恵みです。神を知らない人々が凡て、ソドム、ゴモラ の人々のようなのではありません。中にはアビメレクのような人格の持ち主 がいるのです。神のこの恵みは神の民の占有物ではなく、一般の人々にも与 えられている恵みです。神は太陽の光り、暖かさを、善き者の上にもあしき者の上にも、そそいでいてくださるのです。

・   ただ、そこに危険が伴っています。人は神の先行的恩寵の故に、ある程度のきよい、正しい生活を送ることができます。そうしますと、人は"もう神の救いは必要がない"と誤解するのです。恩寵が注がれている事実に気づかないで、自分の力だけでやっていけると、大変な思い違いをします。人は道徳をいう大海で、救命具をつけて浮いている状態です。少し泳げるからと言って、太平洋の真っ只中で救命具をはずすことはもとより、救助に来た船に向って"僕は泳げますから"とその助けを拒否することは愚かではないでしょうか。

・   どんな人も、神の恩寵なしには清い、正しい生涯は送れません。どんな人も、神の救いなしには天国の港に迎え入れてはもらえません。

・   C.第三のレッスンは、神はアブラハムの失策にもかかわらず、彼を見捨て給わなかった、ということです。この点を展開する時間が無くなりました。しかし、展開しなくても、それを指摘させて頂き、心に留めるだけで十分でしょう。神が私たちの失敗を寛容をもって扱い、立ち直る機会を与えてくださらなかったら、私たちには望みはありません。しかし、神は仁慈深く、怒るのに遅いかたです。ここに、失敗しやすい私たちの希望があります(1989/08/20、礼拝)。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

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