. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「アブラハムの生涯」 からの礼拝説教 : 第12講
■ 今日の「井戸掘り」

 「長年の期待に応えたもう神」           創世記21:1〜21 

  ■ 井戸を掘りましょう:

.   先週、新聞のニュ−スに目を通していましたら、ある頁に記載されている 広告に目がとまりました。住宅の広告でした。ヨ−ロッパ調とかで外壁が落 ちついた煉瓦色の邸宅です。値段は一つの方が6億何千万円とか、もう一つ の方が3億何千万。5DKとか、6DKの大邸宅です。何年か前に、外国の 人が日本の住宅事情を評して"うさぎ小屋"といった表現を用いたように記 憶していますが、この広告の住宅はうさぎ小屋どころの話ではありません。 真に見事な邸宅です。

.   しかし、その広告を目にしながら、今朝のテキストを心に思い浮かべつつ、 ある人の言ったことばを思い起していました。"どんなに広い家でも、二人 の女性が一緒に住めるほど広い家はない。

" .   私たちは先日来、アブラハムの生涯を学んでいます。アブラハムとサラの 夫婦は旧約時代の人物で、現代からキリストまで、約二〇〇〇年、キリスト から更にアブラハムまで約2000年、その両方を会わせますと約4000 年の年月の隔たりがあります。しかし、聖書は単なる歴史の本ではありませ ん。聖書は神のおことば、時代と共に古びてゆかないことばです。今なお、 私たちに語りかけてくるおことばです。

.   先週、組閣されたばかりの海部内閣の官房長官、山下氏の辞任のニュ−ス に驚かされましたが、辞任の理由は私が申し上げるまでもなく、宇野前総理 同様、女性問題がマスコミの取り上げるところとなったということです。

.   創世記の21章10節、11節を見ますと、ここには山下官房長官ならぬ、 アブラハムの悩みが書かれています。しかし、その前に1、2節に心を向け ましょう。即ち、アブラハムへの神の約束の成就です。

T アブラハムへの神の約束の成就−1〜7節

.   神が初めてアブラハムにその子、また、子孫について語られたのは、25 年前の事でした。アブラハムが75才、カルデヤのウルから西へ西へと向っ て出発した時のことです。創世記12章から学びましたように、神は「あな たを大いなる国民とする」とアブラハムに語られ、約束されたのです。アブ ラハムをはじめ、その時代の人々が私たちよりずっと長生きだったとしても、 25年という歳月は短い歳月ではありません。しかし、神が語られたことは、 その長い歳月を経て成就したのです。神のおことばは必ず成就します。

.   私たちは信仰生涯を送りながら、聖書を通して神の約束を捉えます。自分 の将来のこと、結婚のこと、家族の救いのこと、、、その他、様々な事に関 して神の約束を捉え、祈りはじめるのです。私たちが25年間、待たされた らどうでしょうか。"とてもそんなに長い間は待てない"と感じるのではな いでしょうか。しばしば、私たちは待つことを止め、信仰を放棄してしまい ます。

.   アブラハムにとっても、25年間は長い年月でした。しかし、とうとう、 18:10節に「来年の今ごろ」と神は語られたのです。私たちは"一年で も長過ぎる"と言うかも知れません。ボッケとしていて、何時間でも過ごし てしまう私たちですが、待つとなると、いっときでも長く感じます。しかし、 アブラハムは待ち望んでいる間に、何を学んだのでしょうか。その間に、彼 自身どのように変えられていったのでしょうか。

.   私たちは、待ち望んでいる間は、神の道以外の道があるように思えて、そ の道を見いだそうといろいろ努力し、画策するものです。罪の重荷からの釈 放、心の平安、人生における満足の発見といった問題に於いても、いろいろ 自分で解決、解答を求めて、試みてみはしませんでしたか。キリストに来る のは最後で、それまでは、アレコレやってみるのが私たち人間の常ではない でしょうか。

.   アブラハムもそうでした。彼は神の解答、神からの応答を待つ間、アレコ レ試みてみたのです。しかし、どれも空しいものでした。

.   数学に消去法というのがありますが、可能な限りの色々な方法を列記し、 そのひとつひとつを吟味し、消してゆく方法です。これも駄目、あれも駄目、 と全部試みて、結局残ったひとつが正解という訳です。

.   アブラハムにとって待ち望んでいた歳月は、神の道以外の可能な道を空し く探る時でした。そして、彼は最終的に神のみことばの真実さに気づき、神 に依り頼むことの幸いを見いだすに到ったのです。神は結局のところ、約束 を守られたのです。神のご性質のひとつは真実であって、真実とは依り頼む に値するという事です。神はご自分が語られ、約束された事を必ず成就され るのです。ですから、信ぜし者は幸いなのです。主の語りたまいしことは、 必ず、成就するからです。しかし、主のタイミングと私たちの時間とは異な ります。それを、私たちは信仰によって、信頼する事によって、学ぶのです。

.   第6節には、笑いが言及されています。18:15にも"笑い"が記録さ れていました。18:15、先の場合の"笑い"は、疑いの笑いでした。神 のことば、お約束に対して"そんな馬鹿なことが、、、"という笑いです。 この章の6節、今度の笑いは喜びの笑いです。"神が約束を守られた。神が 語られた通りになった"ことを知った時の喜びの笑いなのです。 U さて、第二に"アブラハムの悩み"について考えましょう。8〜13節。

.   8節を見ますと、生まれたイサクが「乳離れをした」とあります。1〜7 節に記録されていた彼の誕生から、最大限三年くらいの事だったのでしょう。 丁度、日本では七五三の3才のお祝いが男女共通であるように、三つという 歳は一つの区切りです。アブラハムは可愛いイサクのために「宴会を催しま した。」

.   その時、ハガルとイシマエルの存在が問題となってきたのです。今朝、説教 の冒頭に"ふたりの女性を入れておくことができる程、大きな家 はない"というある人のことばを引用しましたが、まさしく、それがアブラ ハムの家で現実の問題となってきたのです。9節にあるように、イシマエル がイサクを「からかっている」のを見たのです。この「からかっている」と いうことばは、欄外註にあるように「笑っている」のほうがよいでしょう。 先ほど、サラは以前、疑いの笑いを笑ったことに目を留めました。この章の 6節には喜びの笑いが記されていることも心に留めました。今度はこの9節 にあるのは、侮辱の笑い、嘲笑の笑いです。

.   当時の社会常識が、一人の夫にたいしてひとりの妻といった関係ではなく して、何人かの妻を持つ事を許していたのは事実です。しかし、まわりの社 会が許す、許さないとに拘らず、神の家庭にかかわるご計画は一夫一妻制な のです。そこから外れる時に、その人は必ず問題に、悩みに巻き込まれます。 アブラハムがそうでした。宇野前総理がそうでした。また、この度辞任した 山下官房長官がそうだったのです。

.   ここで、サラとハガル、イサクとイシマエルが指差している霊的、また、 象徴的な意味を指摘しておきましょう。その観点から10節の「追い出せ」 ということばを理解できるからです。

   ・ハガルとイシマエルは"律法主義とそれが生み出す隷属"、また、
   ・サラとイサクは"信仰とそれが生み出す自由"

をそれぞれ象徴しています。この律法主義と信仰の道、束縛と自由はそれぞ れ対立していて、相入れないものなのです。どちらかが「追放」されなけれ ばなりません。両方が共に留まることはできないのです。

.   さて、律法主義とはどのようなものでしょうか。それは自分の努力、功績 によって救いを求める道です。"これだけ努力したから救われるのは当然だ" といって、報酬としての救いを要求する道です。歩合制という給料体系があ ります。"あなたは今月コレコレだけの営業成績を上げたから、今月のあな たの給料はそれに比例してコレコレ"という制度です。彼らの給料は彼らの 働きにマッチします。律法主義が生み出すものはしばしば傲慢です。"私は これだけやった。私の営業成績はこの支部一番だ。大したもんだろう。"ま た、そこまでできない人に対しては"情けない奴だ"と見下します。

.   信仰とそれが生み出す自由とはどのようなものでしょうか。人生の様々な 分野での努力や、工夫の必要を認めないのではありません。勉学、仕事の成 果は汗と涙の結晶です。しかし、こと罪からの救いに関しては、人間の、私 たちの努力、汗、涙、、、こうしたものは一切、間に合わないことを認め、 只ひたすらキリストが十字架上で成し遂げられたあがないに依り頼むこと、 これことが信仰の道であり、真の自由を私たちにもたらすものです。

.   今、ボイジャ−という惑星探査機がニュ−スの話題となっています。12 年前に打ち上げられ、次々と太陽系の惑星に接近し、その映像を送ってきて いるとの事です。昨日は太陽系宇宙の一番外にある海王星に最も接近して、 その映像を送って来ました。しかし、その後は、広大な宇宙をさ迷って、や がて、宇宙の迷子になってしまうという事です。海王星を越えますともう現 代科学の技術ではこの探査機をコントロ−ルできないのです。

.   私たちの努力、業、一切の人間的なもの、これらは地上生涯の範囲では意 味があり、尊いものです。しかし、地上生涯が幕を閉じ、永遠の世界が広が り始める時、人間的なものは最早、及ぶところではないのです。人の永遠的 な救い、そのための罪からの救いは神の仁慈によるのです。神のあわれみが 必要です。それを捉えるのが信仰の手なのです。

.   さて、この人間的な努力に依り頼む律法主義と信仰とは相入れません。信 仰は神が備えてくださったものを感謝をもって受け止め、そこに生きる事で す。律法主義は善行主義とも言われ、自分の行為に依り頼む道です。この二 つは「一緒に」受け入れる訳にはゆきません。どちらか片方が「追い出され」 なければなりません。

V 最後に、アブラハムの慰めに目を留めましょう。12節以下。

.   ハガルの子イシマエルはイサクと共に世嗣になることはできません。彼は 追放されなければなりません。象徴的には、律法主義は信仰と相入れず、信 仰の道を選んだなら、救いのための自分の努力は一切放棄しなければなりま せん。罪の解決、罪への勝利の為には、恵みのみに依り頼む必要があります。

.   しかし、この記事には新約的、象徴的な意義と共に、歴史的、実際的な意 味もあります。それに目を留めて今朝のみことばの学びを締め括りましょう。 11節を見ましょう。アブラハムにとっては、女奴隷ハガルの子であっても、 イシマエルは自分の子です。サラの不平、抗議に直面してアブラハムはその この扱に悩みました。サラの子、イサクは可愛い、また、信仰の世嗣として 大切である。しかし、イシマエルのわが子!

.   12〜13節に、そのようなアブラハムの悩みを知って、神からの介入が ありました。神はイシマエルに関して、その子を祝して、偉大な者としてく ださると語られたのです。

.   14節を見ますと、アブラハムはパンと水の皮袋を渡し、ハガルとイシマ エルとを「送り出した」とありました。一〇節の「追い出してください」と 比べて、「送り出した」とあることの意味は決して小さくありません。この 2つのことばのニュアンスの相違は大変意義深いものです。ハガルとイシマ エルに対するアブラハム愛が表現されています。

.   ハガルとイシマエルはベエル・シェバの荒野に踏み込んで行き、たちまち、 水が尽きてしまいました。時々、テレビなどで砂漠の映像がでますが、砂漠 に行き倒れになった動物の骨が転がっている場面を見ます。16節、ハガル は"もう、これ以上、この砂漠で子ども連れで生き延びることはできない。 子どもの苦しみ、最後をみるに忍びない。"と泣いていたとあります。母親 として、このような事態に直面した時の気持ちがおわかりでしょうか。

.   17節、しかし、神はこの少年の声を聞かれたとあります。どのような声 だったのでしょうか。泣き声でしょうか。祈りの声だったのでしょうか。19 節、神はハガルの目を開いて、井戸を示しなさいました。沸き水の井戸で す。見捨てられた者、苦しみ、悩む者への神の顧み、救けがここに見られま す。

.   「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あな たはわたしをあがめよう。」と、詩篇50篇15節にあります。神は、私た ちの立場がどのようなものであっても、例え、それが奴隷の女、また、奴隷 の子といった立場であっても、私たちの涙、叫び声を決して見過ごしにはな さらない神です。

.   ダイヤモンドのあの不思議に美しい耀きが人の目を捉えるように、人の目 にある涙のきらめきは、神から見過ごされることはないのです。それは必ず、 神の眼に留まるのです。

.   黙示録を見ますと、ヨハネが幻のうちに封印された生命の書を見たことが 記されています。ヨハネが観察していると、誰ひとりその封印を切って、そ の書を開く者がおりません。ヨハネは悲しくて、涙を流して泣いていました。 神はそのヨハネの涙を見過ごしにはなさいませんでした。その生命の書を開 くことのできるお方、ユダの族からでたしし、即ち、主イエスを示して、彼 に「泣いてはいけない」と語られました、慰めなさいました。

.   神はこの地上での苦しみゆえに、涙する者の涙をご存じであり、その涙を 神は拭ってくださいます。まして、罪ゆえに苦しみ、罪の解決を求めて泣く 者、生命の書の開かれることを願って泣く者の涙を、決して見過ごしにはな さらないのです(1989/08/29、礼拝)。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

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