. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「アブラハムの生涯」 からの礼拝説教 : 第13講
■ 今日の「井戸掘り」

 「その処で永遠の神、主の名によって祈った」           創世記21:19〜22 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   最近私たちの社会では"ボ−ト・ピ−プル"の問題が社会問題として取り 上げられ、話題になっています。ボ−ト・ピ−プルというのは、ベトナム難 民のことで、戦火に荒らされ、政治的に不安定な祖国ベトナムに見切りをつ けて、家も国も捨てて、何10d、何100dかの小舟で漂流して、日本に避難 場所を求めてきている人々の事です。今年八月のみで1000人を越える人 々が熊本、長崎の五島列島、沖縄にも流れ着きました。ところが問題は、こ うして流れ着いた人々が難民ではなく、中国人が難民を偽装して、日本に出 稼ぎに来ているというのです。彼らは立場を、身分を偽り、来日の動機、理 由を偽っているのです。彼らは実際は政治的な難民ではなく、経済的な密入 国者とされています。

   さて、今朝のテキストをみますと、ここには私たち人間が直面する「偽り」 の問題、「偽装」の問題が、先ず扱われています。

   22節に出てきているアビメレクというゲラル地方の王の名は聞いたこと がありませんか。アブラハムの偽りというと、20章の出来事を思い起され るでしょう。その時のアブラハムの失策、罪にもかかわらず、神はその状況 を御手に収めて、却ってご自身の栄光を表す機会としてくださいました。パ ウロは「私の力は弱さのうちに完全に現わされる」と語りました。旧約時代 のイスラエルの度重なる反逆失策は、神の仁慈が顕著にされる舞台を提供し ました。

   罪の力は強く、それがもたらす悲惨さは大きいのですが、神の恵みの事実 がそこにあって輝いています。

   東京などの都会には人工の光が余りに多く輝いていて、星空は美しくあり ません。都会の光が消え、周囲が闇になった時に、星空が美しく現れてきま す。闇の中でのみ多くの星が眼につくのです。同様に、神の恵みの輝きは、 人間の罪と邪悪さを背景として、その暗さの中で一層輝いているのです。

   22節の「何をしても」は"悪い事をしても"と理解してはならないでし ょう。"どのようなことを企てても"という意味です。それでアビメレクと ピコルはアブラハムと友好関係を結ぶのが得策だと判断しました。それで、 その申し出をしてきたわけですが、アブラハムはそれを受けることにしまし た。24節。

T 今朝第一に、神が祝福してくださる生涯の特徴 を学びましょう。

   神の祝福の中心は、神が共に居てくださるという事実にあります。神の同 行、臨在の事実です。ジョン・ウエスレ−は"神が共におられること、これ が私にとって最善の事である"と言いました。神の臨在は凡ての祝福の土台 です。
   さて、この神の臨在、神が共にあってくださることの具体的な表れが、第 一に、対人関係における祝福です。

   来年の就職のことが取り沙汰される時期になりましたが、今年の新入社員、 四月に仕事始めをし、最初の何週間は研修などでしょうか。5月か、6月に 正規の配属を受け、仕事を始めます。そこで3か月かそこいらを過ごし、仕 事をそろそろ呑み込みますと、その頃から一番難しく感じてくるのが、職場 における人間関係です。学生時代には、主として横だけの人間関係だったの が、社会人となり、縦横斜めの複雑な人間関係に直面します。それが神経を 磨り減らすもととなります。すぐ文句をつける上司、同僚を蹴落とそうとす る仲間、親切で細々と教えてくれる先輩、意地悪な先輩、"私も苦労したの だから、あなたも苦労して学びなさい。月謝を払わなければ駄目よ"という 人、誠に様々です。

   神の祝福は、こうした複雑な人間関係の中にあって、潤滑油として働くと いうことです。二四節、アブラハムとアビメレクは「誓い」あいました。さ て、そこでアブラハムは考えたに相違ありません。25節、アビメレクのし もべたちが井戸を奪い取ったという出来事があったのです。折角樹立された アビメレクとのよい関係を維持するために、この彼のしもべたちの不正に目 をつむっておくべきだろうか。黙って忍ぶべきだろうか。しかし、アブラハ ムは不正は不正、間違いは間違い、と主張すべきことを主張しました。アビ メレクに彼のしもべたちの不正を指摘し、抗議したのです。人間関係を維持 してゆくにあたって一番難しい場面です。下手をすれば、一瞬にして築き上 げられたよい関係が元のもくあみになってしまいます。

   しかし、アブラハムとアビメレクとの関係には、神の恵みの潤いを感じる のです。アビメレクは「知りませんでした」といって、詫びたです。そこで、 アブラハムは後顧の憂いを断つために、牛と羊を差し出して契約のしるしを 確かなものとしました。

   さて、神の臨在の具体的な表れの第二は、人間的な努力が実を結び、報い られることにあります。

   ハガイ書1章6、9節には、努力に比して結果が得られない状況が描かれ ています。努力や工夫のないところには結果が伴わないのは当然です。とこ ろが、努力し、工夫し、知恵を用いて、そのあげくの果て、結果が空しくな る、努力や工夫に見合わないことが幾らでもあります。人間的な努力や工夫 が、それに比例した結果を生み出せば、事業は大変やりやすくなるでしょう。 しかし、そうでないところに人生の不思議があります。それで、人々は運命 を信じたり、占いに頼ったりするわけです。

   アブラハムの時代、井戸を掘り当てるということは大変なことでした。南 の地は水の少ない地方で、井戸は大変貴重だったのです。今でもインドでは 井戸を掘り当てる場所を占う占い師がいます。乾期には、多くの井戸が枯れ てしましますが、そのような時期にもこんこんと水を沸き出す井戸を掘り当 てたら、それは大変な祝福です。そのような井戸の場所を、双股に分れた小 枝を両手に持って、その震え具合で、井戸を掘る場所を決める商売です。ア ブラハムはその井戸を掘り当てたのです。ペリシテ人が羨ましがって、奪う ほどの井戸だったのです。彼はその努力が豊かに報いられました。彼の努力 の結実に、確かな神の祝福のしるしを見ます。

   神の臨在と同行の第三のしるしは、感謝と平安な生涯です。33節。アブ ラハムの生涯を学んで、感じるその雰囲気は平安そのものです。神の臨在と 祝福は私たちの生涯に何をもたらしますでしょうか。もう一度繰り返します が、
   ・対人関係におけるスム−スさ、潤滑油をもたらします。難しい人間関係 が神の干渉と祝福の故に、うまい関係に展開するのです。
   ・人間的な努力が、その努力、工夫にふさわしく実を実らせます。私たち の汗と涙が、それ相応に報われるのです。空しく労することがなくなるので す。神の祝福がありませんと、ハガイが描写しているように、穴の開いた袋 に穀物を入れるようなもので、入れるそばから、皆こぼれていってしまって、 労が無になります。しかし、神の祝福が加わると、結実が残るのです。

   そして、神の祝福の最大のものは、永遠の神との間にある交際です。アダ ムとエバが未だ、罪に陥っていない時、この創造主である神との甘美な交わ りがエデンの園にはありました。「微風の吹くころ、園を歩ら廻られる主の 声を聞いたとあります。神はアダムとエバにとって、遠い存在、知ることの できない存在なのではなく、近くにあって交われるお方だったのです。彼ら の心と生涯を、力、満足、平安、愛、希望で満たしたもうお方でした。人は その罪ゆえに、その創造主である神の祝福を見失ってしまったのです。人の 心を真に満たすことのできるものは、創造主なる神の臨在以外にはないので す。詩篇四二篇には「しかが谷川の水を慕い喘ぐように、私のたましいは活 ける神を慕い求める」とあります。人の心に見られる大きな空洞を満たすの は、神の臨在のみです。神ご自身のみです。

   人生のあらゆる追求は、この心と生涯に感じられる空洞を満たそうという 努力にしかすぎません。この世の何物をもってしても埋めることのできない 空洞の存在にに気づきませんか。たとえ、全世界を儲けても、なお、満たさ れないものが、人の心には存在し続けます。

   神の臨在はこの問題に解決をもたらし、人の心を渇きから釈放して、満ち 足りた思いを満たすのです。平安が心を支配するようになります。たましい の安息場を見出します。

   アブラハムは今、長い旅路の果て、ベエル・シェバでそれを体験したので す。「アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の 神、主の名によって祈った」。33節。

U 神が祝福してくださった生涯からの教訓

   さて、ここで復習のようにして、今朝学んだレッスンを違った表現で纏め てみましょう。

   先ず第一に、私たちはアブラハムのように、井戸を掘り当てたことがある だろうか、とのことです。水溜まりではなく、井戸です。こんこんと湧き出 てくる泉を、です。

   主イエスのことばに「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲み なさい。わたしを信じる者は、、、その人の心の奥底から、生ける水の川が 流れ出るようになる」(ヨハネ七・三七、三八)とあります。  私たちはキリストに来て、飲んだことがあったでしょうか。こんこんと湧 き出る泉は、あなたのものになったでしょうか。それとも、伝道会でしばし ば耳にするように、あのサマリヤの女のように「あなたには夫が五人あった が、、、」と言われる人間でしょうか。心の渇きをいやすため、やもう得ず、 アレコレと試みている人間でしょうか。しかし、この水、この世が与える水 は決して、私たちの心を満たすことができません。その渇きをいやすことは できません。キリストが与えてくださる「水」のみが、心の渇きをいやすこ とができるのです。

   第二に、私たちは、私たちのたましいの安住の地を見いだしたでしょうか。

   34節に「アブラハムは長い間ペリシテの地に滞在した」とあります。ア ブラハムの生活は遊牧民の生活で、絶えず家畜のための牧草地を求めて移動 する生活でした。しかし、ペリシテの地にあって、寄留の地でありながら、 そこに「長い間、滞在」する憩いの場をアブラハムは見いだしたのです。  私たちにとっても、この世は寄留の地にしか過ぎません。しかし、この地 にあって、神に依り頼み、神の祝福のゆえに安息の地を見いだすことができ るのです。信仰による安息です。それは、たましいの深い安息です。キリス トにある安息です。

   私たちの生活は安定感がなく、絶えず揺り動いているようなものでしょう か。流砂の上にあるように、砂がサラサラ流れ、何も確かなものがない、と いった状態でしょうか。それとも、私たちの人生をのせる事のできる岩を見 いだしたでしょうか。

   第三に、33節に「主の名によって祈った」とあります。創世記17章1 節には、神は「エル・シャダイ」であるとあります。全能の神です。

   主イエスは、ペテロ、ヨハネなどに語りかけて「あなたがたを人間をとる 漁師にしてあげよう」とおっしゃいました。パウロ・リ−ス師はこの聖句か ら説教したことがありました。「わたしは、、、する」(I will make you ) この英語訳を直訳しますと、"わたしはあなたを創りなしてあげよう"とな ります。"わたしはあなたを聖徒にしてあげよう"、"わたしはあなたを用 いられる器にしてあげよう"、"わたしはあなたをキリストの立派な兵卒に してあげよう"、"わたしはあなたを証し人にしてあげよう。"

   神は私たちをご自分の好むままに創りなしてくださいます。神の御名は、 「エル・シャダイ」(全能の神)だからです。

   神の御名は「エル・ロイ」です。創世記16:13。「ご覧になる」神で す。神は凡てをご存じです。私たちの生い立ち、ハンデ・キャップ、私たち が置かれている状況、私たちの心の痛み、私たちの必要、願望、、、凡てを 神はご存じです。

   神はまた「エル・エリオン」と呼ばれています。勝利をもたらす神です。 何万の敵軍に向かって、318人の家の子、郎党を率いたアブラハムが勝利 を得たのは、この「エル・エリオン」=いと高き神によってでした。いと高 き神、私たちの高き磐、とりでとなってくださる神です。「ヤコブの神はわ れらのとりで」です。「われらの避け所、また、力。苦しむとき、そこにあ る助け」です(詩篇46・7、1)。

   そして神は「エホバ・エレ」です。新改訳聖書では「アドナイ・イルエ」 となっています。"主は備えたもう"のです。これは、この次に学びましょ う。

   聖書には、人との関係において、今学びました神の名を含めて7つの名が 啓示されている、と言われています。この点は来週学びましょう。

   アブラハムはこの地にあって、このような主の名を呼んで祈ったのです。

   21章の33節は"嵐の前の静けさ"を思わせます。神は、やがて来るべ き嵐の前に、または、名工の最後のひとのみがアブラハムに加えられる前に、 アブラハムに静かな年月を恵み深くもお与えになりました。「アブラハムは ベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によっ て祈った。アブラハムは長い間ペリシテの地に滞在した。」(創世記21・ 33、34)。この静けさの後に、アブラハムの生涯には何が起こりますで しょうか。それは22章に書かれている出来事ですが、来週学びましょう(1989/09/03、礼拝)。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

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