このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「彼は信じた。その信仰を義と。」 創世記15: 1〜21
■ 井戸を掘りましょう:
. 15:1、今朝の聖書朗読箇所の冒頭を見ますと、「これらの出来事の
後」とあります。先週私たちはこの「これらの出来事」と言われている事を
学びました。即ち、ケダラオメル王を中心とした北の連合軍と、南の連合軍
との戦い、その戦いに巻き込まれたロト一家が捕虜になったこと、そして、
アブラハムが手勢を率いて、ゲリラ作戦を展開し、彼らを無事救出したこと、
です。
. 14章の後半には、凱旋してかえってきた帰ってきたアブラハムとエルサ
レムの王、メルキゼデクとの出会いのことが記事になっていますが、私たち
はその部分を省略して先に進みました。しかし、これは非常に興味深い記事
で、メルキゼデク王がアブラハムを祝福したこと、それに対してアブラハム
が彼に戦利品の什一を捧げて礼をつくしたことが記されています。この二人
の出会い、会話を学んでみますと、アブラハムにとって最も大切なことは、
単に富む事ではなく、神の祝福を証しする事であったことが判ります。
さて、ロトの救出は一段落したと思ったら、実はそうではありませんでし
た。奇襲に成功しましたが、アブラハムは実は敵の大軍からの報復を恐れて
いたのです。そうでしょう。正面衝突したならアブラハムの手勢など、たち
まち壊滅してしまいます。
. そのような時、心に恐れがあった時、15:1、神の顕現と励ましが、
アブラハムに与えられました。神はいまでも私たちの心にある事をご存じな
のです。そしてその必要に応じて語りかけてくださいます。神は恐れのある
心には励ましを、迷っている心には導きを、悲しむ心には慰めを、痛む心に
は癒しを、苦しむ心には力づけを、悩む心には光を、お与えになるのです。
聖書はその実例で満ち満ています。そして、今も尚、神は同様に働いておら
れるのです。
. 「教会学校」誌に、溝口節子姉、佐賀の教会員のお証しが掲載されていま
した。ご主人様と長女の方が先に救われて教会にいらした姉妹です。ご主人
が教会に始めていらした切掛けは、ハンコ屋さんをしておられたその店先に
一枚のトラクトが置かれていたことでした。その同じ道筋で写真屋さんを営
む安住兄がクリスチャンで、何かの折り、溝口さんのお店に立ち寄った時、
何気なくトラクトを置いたのでした。溝口さんはやがて教会に来会されるよ
うになりましたが、信仰のなかった奥さんはそれが面白くありませんでした。
"そんな時間があるなら、もっと商売に精を出せば善いのに、、、"という
気持ちです。しかし、健康を一時損なわれ、教会の牧師がお見舞いをした時、
自分のつっけんどな態度とクリスチャンの愛の行動、行為とを比べてみて、
他人を批判していた自分が、自分の目の中の梁を忘れて、他人の目のほこり
を気にしていたことに目が開かれたのです。神の語り掛けがありました。そ
して熱心なクリスチャンになられました。
. 神がアブラハムに語り掛けられ、アブラハムの恐れは解消しました。しか
し、彼にはもうひとつの問題がありました。2、3節。即ち、家を嗣ぐ子ど
もがいないということでした。私たちも一家を営んでいますと、様々な心配
事が生じてきます。「教会学校」誌に、田中敬康先生の「病める家庭と家族
伝道」の問題が記事になっていますが、家庭とは社会という石垣を築き上げ
ている大切な石の一つ一つです。しかし、現代に於いてはその家庭が、火に
焼けてしまった石のようにもろくなって、ちょとしたプレッシャ−にも崩れ
てしまうのです。もろくて力強い社会へと築き上がってゆかないのです。
私たちは福音のもたらす希望を、キリストの救いの素晴らしさをもっと力
強く宣べ伝えなければなりません。現代の家庭が抱えている問題が何である
にしても、神にこそ解決があるのです。キリストの内に望みがあります。
. アブラハム問題を抱えていました。"子がない!"これが彼にとっての大
問題でした。他の人が子どもを連れて散歩しているのを目にして、ふと淋し
さに襲われる。子どもがないので老後が心配だ。子はかすがいと言うけれど、
離婚される危険がある。、、、こうした思いもアブラハムにあったかもしれ
ません。アブラハムの私たち同様、同じ情を持つ人でした。しかし、彼の最
大の課題は"神の約束がどうなるのか"という一点にあったのです。カルデ
ヤのウルを離れ、捨てた時、神は"あなたは祝福の基となる"と語られまし
た。"あなたの子孫によって多くの国民が祝福される"とも語られました。
もし、子が生まれなかったら、その神の約束は凡て反古になってしまいます。
神のおことばが意味を有しなくなってしまうのです。
. 現実的な淋しさ、孤独の問題、老後の心配の事などより、一層深刻な信仰
上の問題だったのです。アブラハムは解決を自分なりに考えました。アブラ
ハムは当時の習慣にしたがって、家の子のうちから養子縁組を組んで、子と
してもよかったのです。ダマスコのエリエゼルは忠実なしもべでした。この
人物に家督を譲れば、、、一応アブラハム家は存続します。
. 彼がそのような思いでいた時、4節、神がアブラハムに語られたのです。
「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出
て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」と。そして、五節にある
ように「さあ、天を見上げなさい」と。彼の子孫が空の星のようになると、
おっしゃったのです。
. 都会の夜空の明るい星が幾つか見える、といったどんよりとして空ではな
く、満天の星が降っておりて来るような夜空を指してです。ジャマイカに先
年、ハリケ−ンの被害を見舞った時、島全体が停電している、その真っ暗闇
の中で仰いだ星空は忘れることができません。普段の何十倍もの星が目に入
りました。
. 第6節、アブラハムは「主を信じた」のです。神は彼のその信仰を義と認
めてくださいました。神のご期待に適うもの、神の審査をパスするもの、神
の基準をクリア−するものとして受け入れてくださったのです。
. 今、日本では車海老の値段が跳ね上がっていると聞きます。台湾からの輸
入品が検査で、用いてはいけない薬物が微量でも検出されたというのです。
日本の税関、厚生省の審査基準をパスしなかったのです。
. 神はある基準をもって、人と接しなさいます。アブラハムはその基準に合
格したのです。
. ロ−マ書四章を見ますと、この時のアブラハムの信仰を「望み得ない時に
望みを抱いて信じた」信仰として記述しています(18節)。20節には、
状況が困難であればあるほど、彼の信仰は強くなった、とあります。まさし
く神に栄光を帰するような信仰でした。
. 14章の後半でも、アブラハムは神に栄光を帰すように行動しています。
アブラハムが大軍に奇襲をかけて、ロトなどを連れ戻して来た時、ソドムの
王はその人々を自分の許に還して貰いましたが、奪い返した富はことごとく
アブラハムへ、と差しだしたのです。しかし、14:23、アブラハムは
ソドムの王が"アブラハムを富ませたのは、この私だ"と言い出すことのな
いように、神のみが彼を祝福してくだったことが証しできるように、ソドム
王からは物品を受け取りませんでした。アブラハムは神にのみ、栄光を帰し
たかったのです。
. アブラハムは目に見える状況に左右されずに、凡てを神の手の中に投げ出
したのです。神の可能力、恵みの事実に依り頼んだのです。
. アブラハムにとって、この彼が依り頼んだ神はいかなる神であったのか、
を学んで、今朝のメッセ−ジを締め括りましょう。
T アブラハムにとって、神は"語り掛けたもう神"でした。
. 7節には3つの動詞が見出されますが、その第一が「仰せられた」です。
神は語り掛けたもうお方です。第一節に見たように、私たちの心にある思い
をご存じで語りかけてくださるお方です。恐れのある心には、励ましを語り、
迷っている心には、導きを与えてくださいます。悲しむ時には慰めを、痛む
心には癒しを、そして、苦しむ心には、力づけを与えなさるのです。この15
章には何回「仰せられた」ということばが見出されますでしょうか。1節、
4節、5節、7、9、13、18節と7回も、この語が見出されます。
. ヘブル書1:1、2節には「神は、むかし先祖たちに、予言者たちを通し
て、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わ
りの時には、御子によって、私たちに語られました」とあります。神は私た
ちに語り掛けたもう神、手を差し伸べ続けたもう神です。何が神の語り掛け
か、迷う必要はありません。そのためにこそ、私たちに聖書が与えられたの
です。聖書は神の語り掛けの記録であると同時に、神のみことばそのもので
す。テモテへの第二の手紙3章16節には、「聖書はすべて、神の霊感によ
るもので、、、」とあります。旧約聖書39巻、新約聖書27書、合計66
書、すべてが神のおことばです。聖書はすべて霊感されており、神的起源を
有しています。ペテロの第二の手紙1:20、21には更に、聖書に勝手な
解釈を施してはならない、とあります。
. 私たちがある事を言った時、それを曲げて解釈して、"○○がこう言った"
と言われて迷惑することがあります。しばしばこうしたことが生じ、誤解を
生み出します。ひとつの発言は、言った人が意味したとおりに、理解して貰
わないと困ることになります。
. 聖書についても同様で、勝手な解釈は困りものです。何故なら、21節に
あるように、聖書は人間の意志、知恵に起源があるのではなく、聖霊の霊感
によるものだからです。霊感を受けた人が神からのことばを書き綴ったもの、
伝えたもの、それが聖書です。聖書にはそれですから、私たちが救いについ
て知る必要のあること凡てが記されています。それ以上でも、それ以下でも
ありません。
. 神は聖書以外の他の方法を通してでも語り掛なさいます。ヘブル書には、
「昔、多くの方法で、多くの部分に分けて」語られた、とあります。夢、幻、
象徴的な行為、自然界、歴史などなど、数多くあります。しかし、そうした
神の語り掛けが、確かに神からのものだと判断する基準が、聖書なのです。
ある教会で、ひとりの婦人が"神が私にAさんと結婚するように語りなさ
った"と主張しました。ところが、そのAさんと言うのは、もう結婚してい
て家庭のある人だったのです。IGMの教会でのことではありません。法律
はそうした結婚を重婚罪として認めていませんし、聖書は、そうした関係を
不道徳、姦淫と言っています。神は、それですから、そんなことを語り掛け
なさる訳がないのです。どうして彼女が間違ってると判断しますか。聖書の
明瞭な記述に従ってです。聖書こそが判断の基準を提供する神のことばです。
. 夢、幻、その他、もろもろの手段を通して、神の声を聞くということを警
戒しなければなりません。あるかもしれませんが、聖書の明白な基準に反し
ていないか見ること必要とします。
. ある方は、聖書には誰と結婚せよとか、どんな会社に就職しなさいとか、
そんな細かいことは書いていない、と言われます。その通りです。ですから、
聖書をよく読む必要があります。聖書には様々な実例が記録されていて、聖
書はそこに明らかに示されている原則を通して、神のみこころを私たちに伝
えているのです。
. 裁判では、よく最高裁の判例ということが引き合いに出されます。個々の
状況は異なっていても、類似した状況の場合には、前例が判断基準を与えま
す。それを踏襲するのが裁判の常識となって来ています。
. アブラハムの神は語り掛たもう神です。神は私たちにも聖書を通して、語
り掛けなさるお方です。
U 創世記一五の七には「連れ出した」とのことばが見出されます。
. 神はアブラハムの人生を、そして私たちの人生を導いてくださる神です。
第一節、既に学んだ通り、アブラハムは恐れていました。神は「恐れるな」
と語り掛け、その恐れの中からアブラハムを引き出してくださいました。
その直前の出来事に関係のある問題から、神はアブラハムを導き出されたの
です。
. 第2節から6節を見ますと、そこにはアブラハムの跡取りの問題が記され
ています。彼が直面していた現在的な問題でした。アブラハムはその子孫を
通して全世界の民が祝福されるという約束を神から受けていたのでが、未だ、
子がありませんでした。彼はそれで、忠実なしもべエリエゼルを養子に迎え
て、と考えたのです。しかし、この度も神は介入して、エリエゼルではなく、
アブラハムから生まれる者が家を継ぐと語り掛なさいました。
. 更に、7節以下を見ますと「この地をあなたの所有として与える」とあり
ます。現実にはカナンの地はカナン人が占有しており、これは後で判る事で
すが、将来的なことです。神はアブラハムの将来に関しても語り、導きなさ
いました。しかも、アブラハムの子孫に関わる遠い将来の事です。13節を
見ますと、この約束の成就まで、400年という年月が間にはさまっていま
す。15節には、しかし、アブラハムの一生の締め括りについての言及があ
ります。アブラハムは信仰の生涯を辿って、凱旋的に生き、長寿を全うして、
平安のうちに天に召されるというのです。
. 神はアブラハムが今直面している恐れから、ずっと後の彼の生涯の締め括
りまで、彼の手を取って導きたもう神です。賛美歌に、
我には乏しきこといかであらん。
緑の牧場に静かに臥させ、
憩いのみぎわに伴いたまわん。
主の手に引かれて、
いづこへなりとも、<
みむねの間に間に、
日々従いゆかなん。
神に導かれて人生を歩むことは、何と幸いな事でしょうか。
V 最後に、七節にあるもう一つの動詞「与える」に目を留めて、終わりましょう。
. アブラムはこの時、行く処さえ知らずに出かけた人であって、カナンの地
には、未だ、彼の所有といえる土地は一坪さえなかったのです。しかし、神
は「与える」と約束なさいました。
. 聖書から、神がどれだけのものを私たちに与えておられるか学ぶことは幸
いです。残念な事に今朝は時間が来てしまいました。神は求める者に何でも
与えなさる方です。ルカ11:13には、聖霊が約束されています。ヤコブ
1:5には、知恵が、また、マタイ9:28には、働き人が、、、神は私た
ちがみこころに適って、みことばにしたがって、求める時、何でも与えなさ
います。
. アブラハムの神は、語り掛け、導き、また、与えたもう神です。この神に 依り頼んで、信仰生涯をアブラハムのように歩きましょう。(1989/ 3/ 5、礼拝)
■ キリスト、ペテロの足を洗う