このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「主の使いは彼女を見つけ、、、。」 創世記16: 1〜16
■ 井戸を掘りましょう:
. "10年ひと昔"と言う表現がありますが、10年という歳月は決して短い
期間ではありません。ここ10年間に私たちの生涯で何が起こったかを考え
てみれば分かります。ここ10年と言って、10年を差し引いてしまったら
いなくなってしまう人も、今朝ここにいます。
. 今朝の聖書の箇所を見ますと、3節に「カナンの地に住んでから10年後」
と言う表現があるのに気づきます。この16章に記されている出来事が起こ
ったのは、アブラハムたちがカナンに入国して以来、10年目の出来事だっ
たのです。そのことを考えますと、アブラムとサライが取った行動にたいし
て、多少同情的になれるでしょう。10年間同じ課題と取り組み続けると言
うのは、決して容易な事ではありません。アブラハム夫婦には10年間待って待って、子どもが生まれませんでした。
15章には、ある時には諦め、放棄して、しもべのひとり、エリエゼルを養
子として迎えて、事を運ぼうとしてことが書いてありました。しかし、神は再び、子孫についてアブラムに語られたのです(15章)。
アブラムは「主を信じた」とありましたが、それからどれくらい後の事だっ
たのでしょうか。15:10〜12は、アブラムの心の葛藤を描いている
ようです。彼は祭壇を築き、主への犠牲を捧げました。禿鷹でしょうか、猛
禽が襲って来て、犠牲の死体を奪ってゆこうとします。
. ジャマイカでしばしば見たことですが、車を運転していますと、遠くの空
に黒い鳥が舞っているのが目に入ります。"何かあるかな"と思いつつ、近
づいて行くと、必ず、牛や、犬など動物の死体が横たわって、その近くを禿
鷹の群が徘徊しているのです。
. 12節、アブラハムの戦いは、こうして襲って来る猛禽を追い払うことで
した。こころに又してもまたしても襲ってくる不信仰を、恰も象徴している
かのようです。このアブラハムが直面したこころの戦いを理解したうえで、私たちは以下
の事にこころを向けましょう。同情的な思いをもって、今日のレッスンを学
びましょう。
T 第一のレッスンは、人が如何にその生きている時代/環境に押し流さ
れやすいか、とのことです。警戒として。
. 2月24日には昭和天皇の大喪の礼が、92億という膨大な費用をかけて、
取り行われました。葬儀そのものに30億近く、八王子の武蔵野御陵に墓所
を作る費用が約30億、そして、警備に30億円との事です。心ある人たち
は、こうした動きを見て"国家神道の復活を肌で感じた"とのことです。戦
時中、多くの宗教が、神道を国体とする政府から規制と弾圧を受けました。
大本教、灯台社、そして、キリストの再臨を説いたホ−リネス教団。弾圧を
逃れた他の教団は、御真影、即ち、現人神であるとされた天皇陛下の写真を
礼拝堂の正面に掲げ、宮城遥拝といって、宮城の方向に向って最敬礼をし、
礼拝に先だって、日の丸を掲げたり、君が代を歌う事を強要されたのです。
戦時中多くの教会は、この国の圧力に屈服し、良心に痛みを覚えつつであっ
たかも知れませんが、国の宗教政策にしたがったのです。
. さて、アブラハムに戻って、12節から、人は如何にその時代時代に迎合
しやすいものかを、考えざるを得ません。サライに子どもが生まれなかった。
当時、そうした状況下では、女奴隷に子を生ませ、その子を自分のものとし
て養子にすることをしたのです。
. 新約聖書の光、即ち、一夫一妻の立場からすれば、アブラハムの行為は不
道徳です。しかし、アブラハムの時代には、当然の事として許されていまし
た。最近のニュ−スによりますと、アメリカではブッシュ大統領の国務長官
でしたかに、タワ−ズ上院議員が任命されました。しかし、議会はその任命
を拒否するという前代未聞の事態が起こりました。何故でしょうか。タワ−
ズ氏の女遊びが排斥の原因でした。アメリカでは復古調の風が吹いているよ
うです。日本では、昔に戻ると言えば、国家神道、天皇陛下の為に、お国の
為にといった生き方をすることと理解されます。アメリカでは、ピュウリタ
ンの伝統や、純潔な家庭生活を見直す動きがみられます。これがアメリカの
復古調なのです。日本では道徳問題は今まではあまり問題にされませんでし
た。正妻以外の女性を囲って養うと言うことは、数が多いだけ、男の権力の
証し、甲斐性のある証拠、と見られました。公然とではないにしても暗黙の
内に認めるというのが、社会通念だったのです。
. そこで、この16章のアブラムとサライの行動をみる時、信仰者と言って
も神のおことばに従うよりも、いかに社会通念に流されやすいかの好例を示
しています。この世が「よし」と言っても、それを安易に受け入れ、それに
従ってしまう風潮は危険であり、警戒しなければなりません。神の民には、
その時代が何と言おうと神の民としての生き方があります。クリスチャンに
はクリスチャンとしての生き方があるのです。私たちは、警戒し、霊的な弁
別力を鋭く研くことをしていませんと、その時代が許し、認めた事はクリス
チャンもしてよいのだ、という安易な基準を受け入れる事になります。
. 小さな瓦のひびから雨漏りが始まるように、この世の傾向がこうしたとこ
ろから教会の中に浸み込んできます。クリスチャンの兄弟姉妹方、聖書が何
と語っているか、神のみこころは何かを尋ね求めましょう。時代の声に耳を
傾け、時代の流れに押し流されてしまうことのありませんように。"日本人
だったら神社崇拝は当然だ"とこの時代は言うかもしれません。"神道の儀
式、地鎮祭、上棟式、お祭りなどは習俗であって、宗教ではない"と、この
時代が言うことがあっても、聖書は何と言っているかに耳を傾けて行動しま
しょう。結婚前の男女の交際について、この時代は非常に許容的であるかも
しれません。そして純潔を嘲笑するような傾向さえみられます。しかし、時
代がどう判断しようと聖書が何と言っているかが、私たちの基準なのです。
リクル−ト問題に象徴されるこの時代の金銭感覚があります。金銭的に麻痺
した時代です。世は"地獄の沙汰も金次第"と言うでしょう。戒名は、札束
の厚さで、長さや、使用される文字が異なると聞いています。他の宗教はど
うあっても、クリスチャンは金銭の奴隷になってはなりません。アメリカで
は今、いわゆるテレビ伝道者と言われる人々の道徳問題、金銭問題が大きく
取り上げられています。テレビを通して、まくしたてるような早口の説教を
し、多額の献金を集めては、それでもって豪邸に住み、それが神の祝福の証
しだというのです。主の祝福を証しする方法は他にも幾らでもあります。贅
沢はいいことだ、富むことは神の祝福に他ならない、この時代の感覚が教会
にも浸透して来ているのです。物質主義的な考えが時代を支配しています。
時代に流されてしまう事を、時代の考えを無批判に受け入れてしまう事を、
警戒しましょう。時代の流れに押し流されないようにしましょう。
. このアブラムとサライ夫婦の選択、決断が巻き起こした悲劇、問題を見る
時、例え時代が許し、OKしても、神のみことばに光に背いて行動する時、
私たちは自分の蒔いたものを刈り取ることになります。神は侮るべき方では
ないのです。天につばすれば、それは自分に帰って来ます。
. 人が如何にその時代の考え、生き方に迎合して生きやすいかを見ましたが、
U 第二に、人が如何に自己中心的に振舞いやすいかを、アブラムの例に
見て今朝の学びを締め括りましょう。
. アブラムとサライに子がありませんでした。彼らは、今迄学んだように、
当時の習慣にしたがって、女奴隷に子を生ませ、その子を自分の子として家
を継がせようと考えたのです。現代で言えば、試験管ベビ−、乃至、代理母
といったところでしょうか。受精卵を赤の他人の女性の胎内で育て、子をも
うけて、その子を自分のことすると言うのです。アブラムは女奴隷のハガル
のところに入って行きました。
. そして、問題が生じてきたのです。ハガルはみごもりました。それまで女
奴隷として忠実に主人のサライに仕えていたハガルでした。それだからこそ
彼女に白羽の矢が立ったのでした。ところが、アブラムの子をみごもった途
端、この女奴隷は傲慢になり、主人を見下すようにさえなったのです。
. サライはその時代の声に聞き従い、その結果を刈り取る事になりました。
ハガルの観点から見ると、人間が如何に傲慢になりやすく、自己中心的に振
舞うかと言うことです。しかし、その後の事の展開は、更に人が如何に自己中心的であるかを如実
に物語っています。アブラムとサライといった神の民でさえも、きよめが徹
底しませんとそうなります。第五節のサライのことばをみてください。サラ
イはハガルの"この横柄さはあなたのせいだ"といってアブラハムを責めて
いるのです。一体、ハガルを入れることは誰の提案だったでしょうか。第2
節を見てください。そもそもサライの提案なのです。それがサライは"あな
たのせい"だというのです。
. "あなたのせい"=このことばを警戒しましょう。夫のせい、妻のせい、
親のせい、子どものせい、社会のせい、○○のせい、、、と言う前に、よく
考えようではありませんか。私たちは自己中心的な考えから、自分の責任を
他人に転嫁してはいませんでしょうか。自分で反省することなしに、周囲の
者を責めてはおりませんか。私たちの言動が自己中心的になって、愛に反す
ることはありませんか。
. 第6節にも、もうひとつの自己中心的な振舞いを見ます。アブラムはサラ
イに"お前の女奴隷だ。お前が勝手にするがよい"と言っているのです。確
かにハガルの横柄さはたしなめられるべきでしょう。ハガルのサライに対す
る態度は間違っています。しかし、ハガルは身を捧げて主人に仕えてくれた
女奴隷ではないのですか。主人に一生懸命仕えようとしはしなかったでしょ
うか。もう少しアブラムの対処法としては、配慮があってしかるべきではな
いでしょうか。奴隷にたいしてとはいっても、アブラムは少し冷た過ぎはし
ないでしょうか。確かに、サライの助言でハガルを入れたのでした。しかし、
最終的には、その事に関するアブラム自身の判断、決断はなかったのでしょ
うか。そもそも、アブラムが神の約束に信仰をもって立ち続けていたなら、
ハガルを入れることもなかったでしょうに。事がスム−スにゆけばよし、ス
ム−スに行かないと投げ出す、これではあんまり、のようです。自己中心的
なやり方の典型ではありませんか。
. 私たちの周囲にも、計画がトントン拍子にゆけば"やろう、やろう"と掛
け声をかけるのに、ところが、一旦問題が発生し、荷が重たくなって来ると、
"後は勝手にしてくれ"と働きを投げ出すタイプの人が多いのです。こうし
た中で、クリスチャンはどのように振舞うべきでしょうか。馬鹿正直だけで
は、クリスチャンは損をするばかりです。知恵を用いなければなりません。
しかし、真実さを欠くような振舞いだけは避けたいものです。自己中心的に
振舞うことだけは止めたいものです。困難があるでしょう。ですから、神の
助けが必要なのです。そのような事態を乗り切る信仰から生まれてくる勇気
が必要なのです。恵みの力が必要なのです。
V 人が如何に時代の生き方に迎合し、そして、自己中心的に生きるか見
ました。しかし、この章の締め括りの部分は、人の行動に比して、神が
如何に仁慈深いかを物語っています。
. 女奴隷ハガルは、主人にいじめられて遂に逃げ出したのです。サライはそ
の時を待っていたに相違ありません。それを期待してチクリチクリと女奴隷
をいびったのです。奴隷のハガルには抵抗する術がありません。弱い者をい
じめるのは誠に卑怯です。これが神の民、証しをするために立ち上がった人
々の姿でした。これが現実だったのです。
. 9節、ここに神のお取り扱いがありますが、人の取り扱いとは異なってい
ました。ハガルは奴隷で当時の社会では何の権利もありませんでした。しか
し、神はその奴隷に対しても、ひとりの「人」として接してくださったので
す。私たちは神のみ前に出る時、例えば、この礼拝の場ですが、社長、工員、
父親、息子娘、夫、妻、そうした立場の相違を離れて、ひとりの「人」とし
て神のみ前に立つ事を学びましょう。
. 九9ルに示しなさいました。10節、その代わり、神の約束が伴って
います。更に11節。神はハガルを見捨て給いません。失意のうちに女主人
から逃れて来たハガルに、神はその子の将来について素晴らしい事を語って
くださったのです。ハガルは「自分に語り掛けられた主の名を『エル・ロイ
=ご覧になる方』と呼んだ」と聖書は記述しています。
. 私たちの神も同じ「エル・ロイ」、ご覧になる神です。ご覧になり、凡て
をご存じで、慰め励ます神です。見ていてくださる神なのです。
. さて、締め括りに16章の最後の節と、17章の最初の節の出来事の間に、
86才から99才と、13年間の歳月の経過がある事を目に留めましょう。
神はアブラムのこのハガルに対する取り扱いを決して「よし」とされません
でした。神はご自分の不興を交わりの断絶という形で表現なさいました。ア
ブラハムにとっては、長い長いたましいの荒野時代が始まったのです。
. カルデヤのウルを出立した時には、アブラムは神の為に証し人になるとい
う大きな目的に心を弾ませていました。しかし、彼の人間的な弱さの数々は
彼がその目的達成の為に妨げとなっていました。アブラムは尚、神の御手に
よって磨き上げられ、作られて行かねばなりませんでした。しかし、神は、
そのようなアブラムを見捨て給いません。13年という長い歳月を挟んでで
はありますが、神は再びアブラムに語り掛なさいます。この新しい神の語り
掛については、私たちは次週に学ぶ事といたし、今朝の聖書からのレッスン
を、
. ・聖書の基準を忘れ、行動や考えを時代の流れに合せてしまう危険、
. ・思い遣りを忘れて、自己中心的に事を判断し、振舞ってしまう危険、
と二つの危険に心を留めて、そこに落ち込まないよう神の恵みを仰ぎながら、
終わりましょう。神はそのような人の傾向性にも拘らず、依然として私たち
に恵み深く接してくださる神です。「見ていてくださる神」、そして、慰め
救けたもう神です(1989/03/12、礼拝)。
■ キリスト、ペテロの足を洗う