このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「わたしは全能の神である。」 創世記17: 1〜16
■ 井戸を掘りましょう:
. 今朝は"パ−ム・サンデイ "、即ち、シュロの日曜日と言われ、受難週の
始まりをマ−クする日です。この"パ−ム・サンデイ "と言う名称は、キリ
ストが予言に従って、ろばの子にまたがり、エルサレムに入京された時、そ
れを迎えた群衆が皆、"ホサナ、ホサナ"と叫んで、手に手にシュロの葉を
打ち振って迎えたという出来事からきています。シュロの日曜日は、キリス
トが十字架につけられることを知りつつ、エルサレムへと入って行かれた日
なのです。この受難週の一日一日を整理してみますと、
・日曜日が−シュロの日曜日、入京の日曜日、
・月曜日が−能力の月曜日、
・火曜日が−論争の火曜日、
・水曜日が−休息の水曜日、
・木曜日が−訣別の木曜日、
・金曜日が−受難の金曜日、
・土曜日が−沈黙の土曜日、
・そして日曜日が−復活の日曜日、
となります。シュロの日曜日から復活の日曜日と続く一週間です。
. 今朝、私たちはそのことに心を留めるに止めて、先日来学んで来ました旧
旧約聖書からのメッセ−ジに心を向けましょう。今朝の説教題は「わたしは
全能の神である」です。「エル・シャダイ」です。復活という出来事を考え
る時、神はエル・シャダイ、全能の神である事を頷かされます。人間的には
不可能に思われる事を、神は為しなさるのです。
. 先日も開きましたが、ロマ人への手紙4の17、24には、アフラハムの
信仰が"復活の信仰"だった事を述べています。しかし、先週私たちはその
ような素晴らしい信仰の持ち主であったアブラハムにも、信仰の谷間を歩む
低調な時代のあったという事を学びました。
. ニュ−スによりますと、日本の著名な登山家が、アラスカのマッキンリ−
登頂を目指して、遭難したとの事でした。5200メ−トルの地点を越えた
処で、強風に遇い、谷に転落したのだろうと考えられています。
. アブラムは信仰の尾根から、谷間に滑り落ちてしましました。そして、彼
はその結果、霊的に死んだ状態になり、13年もの間、神との親しい交わり
が途絶えてしまったのです。この13年間のことは何も記録に記されていま
せん。空白の13年間です。
. 私たちの信仰生活にも、アブラハムが経験したような空白の期間はありま
せんか。クリスチャンというのは只、名前だけで、神との交わりは途絶え、
聖書も読まない、勿論祈ることもしない、といった信仰生涯の空白がありは
しませんか。細々と教会にだけは来ている、といった期間がありませんか。
. 17:1、何故か分かりません。アブラムが99才になった時、神は突
然再びアブラムの生涯に介入されてきたのです。そして、神はアブラムに語
られました、「わたしは全能の神である」。
. あなた自身には失望しかないかもしれない、しかし、「わたしは全能の神
である」。あなたはもう諦め、放棄してしまっているかもしれない、しかし、
「わたしは全能の神である」。あなたは昔の素晴らしい日々はもう巡って来
ないと嘆いているかもしれない、しかし「わたしは全能の神である」。あな
たは自分の失策を悔い、取り返すことはもうできないと考えているかもしれ
ない、しかし「わたしは全能の神である」。
. この箇所の英語訳には「アイ・ウイル」という語、「わたしがする」とい
う語が7回あると言われています。恵みは、あなたの内にあるのではなく、
「わたし」の内にある。力はあなたにあるのではなく「わたし」にある。希
望もそうです。
. 「エル・シャダイ=全能の神」との表現は、旧約聖書に四八回も見いださ
れます。創世記だけでも6回あります。この17:1が第一回目です。そ
して、28:3、35:11、43:14、48:3、49:25、と続きます。
特に興味深いのが、17:1と35:11で、これらの2箇
所では、アブラムがアブラハムに、ヤコブがイスラエルに改名された事実が
述べられています。改名は、日本人的な見方ですと、名前が縁起がよくないから、字相がよく
ないからということで改名する場合が多いのですが、聖書では改名は内的な
変貌の証しとして、なされています。
T アブラムからアブラハムへ−アブラムの内的変貌
. この時のアブラムは、神を知らない訳ではありませんでした。しかし、自
分の計画を持ち、それを押し進めてゆく人物でした。子がない、それでは、
奴隷の頭である忠実なエリエゼルに家を継がせて、彼に権利を譲ろう。子が
ない、それでは、ハガルという女奴隷によって子をもうけて、、、といった
具合です。後者はサラの計画ですが、勿論アブラムの同意があっての事です。
彼は自分の考えを持って、事を押し進めて行っていたのです。その結果は失
策でした。家庭に争議を巻き起こしてしまいました。そして、更に悪い事に
は神が遠い存在になってしまったのです。
. アブラムに関する第一回目のメッセ−ジの中で、「アブラム」という名が
「高揚された父」という意味を持っていることを指摘しました。彼は「高く
崇められた父」だったのです。この17章の出来事以前のアブラムは、いわ
ゆるお偉い人物だったのです。日本ではありとあらゆる職業の人たちが「先
生」と呼ばれています。皆、人から奉られることを喜ぶのです。アブラムの
心にも、このたてまつってもらうことを喜ぶ心があったのでしょう。
しかし、5節を見ますと、この時を境にアブラムはアブラハムに改名され
ています。「高く崇められた父」から「多くの人の父」へと変貌したのです。
ジョ−ジ・ミュラ−という名を聞いたことがありませんか。二百年ほど前、
イギリスで信仰によって孤児院を経営し、沢山の孤児たちの父となった人物
です。食物がなく、食卓に空のお皿を並べて食前お祈りを捧げたこともあっ
た、その時、丁度パンが届けられて来た、といったことが伝記に記されてい
ます。多くの人の父であることは容易な事ではありません。
アブラムはアブラハム、多くの父に変貌したのです。犠牲を厭わない人物、
愛を注ぎ出すことのできる人物、自分を与えることのできる人に変わったの
です。
U 変貌のしるし−割礼
. 10、11節には、その変貌の印、また、神との契約の印として、割礼の
儀式を行ったことが記されています。この割礼とは、ユダヤ人であることの
証拠、しるしとなったものです。
. ヨシュアの許にヨルダン河を渡ってカナンに入ったイスラエル人は、ヨシ
ュアとカレブとを除いて、第2世代の人々でした。彼らはそれ故、無割礼で
あったのです。荒野を放浪した40年間に第一世代は死に絶えていました。
カナンを渡って、イスラエル人たちがした第一のことは、割礼を受けるとい
う事でした。敵前で体に傷をつけ、2、3日動けなくなる状態がどのように
危険なものか想像できますね。しかし、これからカナンを領有してゆくイス
ラエル人には、イスラエル人、神の民としての契約のしるしは不可欠でした。
それでカナン入国直後に、敵前にもかかわらず、彼らは割礼を受けました。
使徒パウロは自分の過去の経歴を述べて、「8日目に割礼を受けた」と言
っています。パウロの時代にはパレスチナ在住のユダヤ人と、離散のユダヤ
人とが居て、前者はギリシャ化したユダヤ人を見下す傾向があったのです。
パレスチナのユダヤ人はアラマイク語を話し、全世界に散ったユダヤ人は主
にギリシャ語を話すと言う言語上の相違もありました。日本にいる日本人と、
ブラジルのポルトガル語を話す日系人との関係と同様です。勿論私たちはブラジルの日系人を軽蔑している訳ではありません。
さて、パウロはパレスチナ生まれのユダヤ人ではありませんでしたが、8
日目に割礼を受けたと主張することによって、、パウロは自分が生粋のユダ
ヤ人である事を主張したのです。ユダヤ人にとっては割礼は彼らのアイデン
テイ テイ を示すものでした。
. このアイデンテイ テイ というのは、私たちにとってもとても大切で、野球
で言えば、ホ−ム・ベ−スにあたるものなのです。存在の要となるものです。
宣教師の子どもたちの教育の問題が論じられますが、このアイデンテイ テイ
の問題と深く関わっています。小さい時に外国に連れて行かれ、外国文化の
只中で、外国のことばを使って育ちますと、人種的には、また、国籍におい
ては日本人ですが、文化的には日本人ではないという状況が生じます。この
時、こうした子どもが直面するのが、アイデンテイ テイ の問題で、自分は何
者なのか、という課題です。日本人でありながら、日本の文化は知らず、日
本語も不自由、ということで、自分の人生の船に錨がないように感ずるので
す。それで、ある時期、大体、青年期に情緒不安定になったりします。
割礼はユダヤ人にとって、そのユダヤ人であるアイデンテイ テイ のしるし
だったのです。
. しかし、新約聖書をみますと、割礼はもっと素晴らしいことのしるしとし
て語られています。エゼキエルの予言(36:25〜28)によりますと、
「石の心を取り除き、、」とあります。この「取り除く」という行為こそ、
割礼が示すものです。コロサイ人への手紙2:11には「キリストの割礼」
が言及されています。ユダヤ人の割礼と異なって、人の手によってなされた
割礼ではなく、神の聖霊による心の割礼と言われています。ロ−マ人への手
紙2:19節にも、このことへの言及があります。
. 割礼は心からあるものを取り除くことの象徴なのです。エゼキエル書では
「石の心」、かたくなな心、神の恵みに感動しない、また、応じない心が、
新約聖書では「肉」の心が、指さされています。「肉」のこころ、それは、
神に反逆する心です。神に従おうとしない心です。聖霊はこのような心を私
たちの内から取り除いてくださるのです。これが心の割礼です。それが新約
の割礼です。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などの
御霊の実の結実を妨げるものを、取り除くのです。その中心、核に、傲慢=
プライドがあります。それを取り除くのが割礼です。
. アブラムは、その高慢、プライドを打ち砕かれました。アブラム、高く崇
められた父から、多くの人の父、アブラハムへと変貌したのです。生命と祝
福を与える父的な存在、祝福の源にと変貌されたのです。
. 第一節の「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」とは、過失を決し
て犯さない、誤った判断をくだすことはない、という意味における「完全」
ではなく、プライドが砕かれ、自己中心的な生き方が取り除かれ、神のため
にのみ生きる者とされたことを意味します。「全き者」とは、その動機にお
ける完全を持つ者です。神の為にのみ人生を生きる人、神の為に人々を愛す
る人のことです。「わたしは全能の神である」。そのような生涯が可能な秘訣は、私たちの
内にではなく、神の力にあるのです。
. アブラハムは旧約時代の人ですから、私たちはそのように理解して、アブ
ラハムの生涯を学ばなければなりませんが、15章を見ますと、その章には
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります(六節)。
そして、割礼のことが述べられているのは、この17章です。
私たちがキリストの処に信仰をもって近づく時、先ず経験するのが「義認」
という第一の恵みの体験です。これは過去の罪がキリストの十字架に免じて
赦され、あたかも罪を何一つ犯さなかったかのように、神に取り扱って頂く
ことです。過去の罪がすべて帳消しにされるのです。その後、第二の転機と
して、私たちは「きよめ」の経験を持つに至ります。この「きよめ」の内容
は、私たちの心から神に背こうとする心を取り除くことで、きよめとは旧約
に語られ、約束されている「心の割礼」にほかなりません。私たちの心から
あるもの、神から離れてゆこうとする罪への傾き、が取り除かれるのです。
キリストはその十字架において、私たちの「義認」、また、「きよめ」の根
拠を整えてくださいました。
. この第二の転機の経験は、一般に「きよめ」と言われますが、一層正確に
は「全ききよめ」と言うように「全き」という形容することばを付けなけれ
ばなりません。「きよめ」は私たちが、キリストを初めて信じて、罪を赦さ
れた時に始まっているのです。即ち、罪の赦しとは、私たちの良心が、救い
以前の罪の呵責から開放されること、罪の咎めからきよめられることなので
す。その意味で、救いの経験は、「きよめ」の始まりです。
しかし、私たちの心には尚、肉の心、神のみこころに従おうとしない心が
残っています。それが私たちの信仰生涯における成長を妨げているのです。
アブハムの場合のように、神のみこころに反した行動に走り、神の不興を買
うことをさせるのです。この「肉」の心、生まれつき持ったいた神に背く性
質、の解決がありませんと、神との交わりが途絶えてしまうという状況が、
度々生じかねません。心の割礼がどうしても必要なのです。「きよめ」=全
ききよめが必要なのです。
. この17章は、アブラムにとっての「全ききよめ」の転機の記録です。彼
はみごとな変貌を経験して、アブラハムに変わりました。それは痛みを伴っ
た経験であったかもしれませんが、幸いな経験でした。
. 私たちもアブラムのように、神の前にあって、人前ではない、神の御前に、 動機において「完全」と言われるような信仰生涯を辿らせて頂きましょう。 判断や行動に於いては「不完全」さが残るでしょう。しかし、神の求めたも うことは、「絶対的」な完全ではなく、「福音的」な完全、即ち、動機にお ける完全です。心の「きよき」です(1989/03/19、礼拝)。
■ キリスト、ペテロの足を洗う