このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「御霊による心の割礼」 創世記17: 1〜14、ローマ書2:28、29
■ 井戸を掘りましょう:
. 昨朝、早天にいらした尾崎姉が聖書の学びについて語っておられ、ひとこ
と「旧約聖書と新約聖書との関係がわからない」とおっしゃいました。旧約
と新約との関係は、建物で言えば、旧約が基礎で、新約が地上の建物です。
. 神学院では年会前後から新しい建物の建築を始めましたが、今は基礎工事
をしている段階です。何メ−トルかの赤土、関東ロ−ム層を掘り下げ、鉄筋
を組んでは、コンクリ−トを流し込んでいます。建物は地上に建てるのです
が、最初は掘り下げて基礎を作ることが必要です。
. 同様に聖書の場合も、新約聖書が、神が私たちに与えたく願っておられた
充全な真理ですが、それを与える前に、ある意味で、建て上げる代わりに掘
り下げるよな旧約の真理を与える必要があったのです。
. 旧約聖書と新約聖書との関係は、植物で言えば、旧約がつぼみ、新約が花、
開花した美しい花です。花が咲く為には、つぼみとしての準備の期間が必要
です。しばしば、花が咲いている期間より、つぼみが徐々にふくらんでゆく
期間の方が長いように、聖書も長い旧約の準備時代を経て、新約の真理の花
が咲いたのです。
. さて、イ−スタ−の後、ルカ、ヨハネと福音書の記事を開いて、復活後に
弟子たちがどのように変貌していったのか、キリストがその期間に弟子たち
に何を語られたのか、とのことを学んでいました。キリストは弟子たちに様
々なことを語られましたが、最後の時が来て、二つのことを殊に強調されま
した。即ち、聖書の確かさと聖霊の力の必要です。ルカによる福音書の締め
括りの部分を読んでみてください。そのことに気づかれるでしょう。
. 私たちは全世界の教会と共にイ−スタ−からペンテコステに向って歩みを
進めています。この期間、残る二つの福音書、マタイとマルコに心を向けて
、、、とも考えましたが、主は違った方向に私の心を導かれ、再び、イ−ス
タ−の前のように創世記の記事に心を向けるようになさいました。年会前、
また、イ−スタ−前に学んでいた創世記17章、アブラハムの生涯における
ある出来事に目を向けましょう。
. 少し間があきましたので、復習しますと、アブラムの女奴隷ハガルの取り
扱いのことで、彼は神のみこころを痛めました。彼は神の悲しみ給う事を行
って、神との交わりが13年もの間、途絶えてしまったのでした。神は私た
ちの行動、振る舞いに関心を抱いておられるのです。
. さて、彼が九九才の時、神はまた近づき、彼に語りかけてくださいました。
神がイニシャテイヴを取ってくださったのです。私たちにとっても、私たちが霊的に落ち込んでいる時、近づいてくださる
のは神の方からです。イニシャテイヴをとってくださるのは神です。霊的に、
信仰的に沈みきって、祈らなければ、、、と気掛かりではあるのですが、祈
ることができない、聖書を読まなければと思うのですが、聖書を開いても、
砂を噛むような味気の無さ、、、何の感動も伝わってこない、、、といった
状態、こんな状態を経験したことはありませんか。どうやって抜け出します
か。
. 初代の弟子たちは、キリストが十字架の上で処刑された後、ユダヤ人たち
を恐れて戸を閉じ、部屋に閉じ篭もっていました。そのような弟子たちに、
主イエスはご自分の方から近づいて、語りかけてくださったのです。「平安
があなたがたにあるように」と言いながら。
. ペテロはどうでしたでしょうか。主イエスを裏切り、もう駄目。情けなく、
自分自身を赦せない気持ちでいた時、いたたまれない焦燥感が彼の心を支配
していた時、その時も、主イエスの方から近づいてくださいました。「子よ。
獲物がありましたか」と語り掛け、食事を整え、「わたしを愛するか」と問
い尋ねてくださったのです。
. アブラムに対しても、初代の弟子たちに対しても、また、私たちに対して
も、信仰が萎え、霊的に落ち込み、沈みきっている時、主は語り掛け、強め
励ましてくださる方です。今朝、それが必要な方はありませんか。主はソレ
を今朝してくださいます。主の語り掛けに耳を傾けましょう。主に対して、
私たちの心を開きましょう。
. さて、創世記17:9以下のところですが、「割礼」が命じられていま
す。イ−スタ−前の創世記からのメッセ−ジと重複しますが、間が少し開き
ましたから、復習するつもりで、今朝のみことばに耳を傾けましょう。
T 簡単に、割礼とは何か、を先ず心に留めます。
. 一言で言いますと、それはアブラハム、また、ユダヤ人に与えた神の契約
のしるしです。神はアブラハムとイスラエル民族を選び、特別な使命をお与
えになりました。即ち、ご自分の為の証し人としての使命を与え、また、そ
の働きを委託されたのです。そして、そのことの故の祝福をアブラムに約束
されました。この祝福のしるしとして、割礼の儀式をアブラハムとその子孫
に、神は命じなさいました。
. 割礼は、イスラエル人である証しのしるしでした。しかし、他人に見せび
らかす為のしるしではなく、人々からは見えない、からだの一部に、イスラ
エル人たちは割礼を受けました。それは"自分たちは人々と異なる"という
自覚を持つためのものでした。それは信仰の証しのしるし、神への服従のし
るし、神への所属のしるしでした。
U さて、今朝読んだロ−マ人への手紙は、この割礼が新約的な意味を持 っていることを明らかにしています。
. 割礼という儀式の特長は、自分の体の一部を取り去るという行為にありま
した。
・この「生れつきのままのもの」と
・「取り除く」
という二つのことを心に留めましょう。
. 割礼には痛みが伴いました。イスラエル人にとって、割礼が契約のしるし、
証し人としての選びのしるしであることを心に留めましたが、後にモ−セの
時代にエジプトを出たイスラエルの民は神に従うことをせず、シナイの荒野
を、40年間にわたってさ迷ったことがありました。その期間、彼らは自分
たちの子らに割礼を施すことをしませんでした。やがて、この不服従、不信
仰な世代が荒野に倒れ去り、第2の世代がヨシュアの指導の許に約束の地、
カナンの地に入りました。その時、彼らが最初したことのひとつは、割礼を
受けることでした。ヨシュア記5:2〜9をお読みください。戦地に
乗り込んだ直後の、敵の襲来がいつあるか分からないような危険な状態の中
で、からだに傷つけ、2、3日動けないような状況を、自ら作りだしたので
す。「傷が治るまで」宿営に留まったと、八節にあります。痛みの故に前進
することができなかったのです。
. 割礼は痛みを伴います。決して、生れつきのままの心が喜ぶものではあり
ません。できる限り避けよう、避けようとするものです。
. 次の割礼の特長は、外的には割礼を受けているか、いないかはわからない
ということです。さて、旧約のイスラエルの民はからだに割礼を受けました
が、新約のクリスチャンは心に割礼を受けます。それですから、彼らの割礼
は「心の割礼」と呼ばれています。それは内的なものです。心の割礼を受け
るか否かは、外から見る時、容易に判断できるとは限りません。その人に生
き方を見ているうちに、この人はどこか異なる、といったことがやがて明ら
かにはなってきますでしょうが、、、。
. さて、旧約聖書と新約聖書とを繋ぐ糸が、3本あります。旧約と新約には
3重の関係があるのです。即ち、先ず、
・神の約束とその遂行です。ワ−プロで「きゅうやく」、あるいは「しん
やく」と打ち込みますと、しばしば「旧訳」「新訳」と出てきますが、旧約
新約における「やく」は、約束の「約」で、翻訳の「訳」ではありません。
ご存知のことでしょう。旧約は旧い時代にかかわる約束、新約は新しい時代
に関わる約束です。旧い時代の約束はキリストの出来事において成就し、神
は新約の時代にはそれにふさわしい新しい約束をお与えになったのです。
・第二の関係は、予言とその成就です。アマゾン河流域の環境破壊が現代
の問題とされています。流域の原始林を木材取得の為に次から次へと伐採す
ることによって、緑が失われ、地球に酸素を供給しているこのアマゾンの原
始林が危機に直面していると言うのです。アマゾン河には多くの支流があっ
て、その流域は日本を飲み込むような広さです。さて、本題に戻って、アマ
ゾンに多くの支流があるように、予言にも幾つかの流れがあります。そのひ
とつ、キリストの誕生、生涯、また、死に関わる予言が、如何に正確に成就
したかは、皆様もよくご存知です。予言と成就という関係があります。
・旧約と新約との繋がりの第三のものは、今朝のメッセ−ジと関係のある
ことですが、タイプ・雛型とその実体との関係です。コンピュタ−の時代に
なりましたが、昔だったら模型実験をするところ、今ではコンピュタ−の画
面の中のシュミレ−ションで、実験結果を得てしまいます。それでもリニア
モ−タ−カ−の例に見るように(新しい実験線を何処に作るかが話題になっ
ていますが)模型を作成して実験することも、やはり大切です。さて、雛型
とは模型のようなものと言えますでしょう。本物を指差し、示すものです。
旧約の割礼の儀式は雛型・タイプで、新約の真理がその実体なのです。
. では、その新約の実体とは何でしょうか。割礼は、人が生れつき持ってい
るものを取り除く儀式でした。内的なもので他人に見せびらかす性質のもの
ではありません。自分で覚え、記念すべきものなのです。新約の「心の割礼」
は心から何を取り除くのでしょうか。生れつき持っていたもの、人間性質に
深く根ざしたものをです。すなわち、罪の性質を取り除く神の恵みの御業で
す。割礼はその象徴なのです。
. 人々は、"妬むのは、人間だもの"と言います。"怒りは、人間にとって
当然ではないか"、"汚れた思いは、人間にとって生れつきでしょう"と言
うかも知れません。"敵意や、争いは人間が人間である所以だから、、、"
と言って是認します。"こうしたものは自衛本能だ"と言うのです。しかし、
聖書は人間にとって生れつき、本能的と思えるこうした感情などを、罪の性
質ゆえであるとしています。人間としての本質的な性質を損なうことなしに
取り除くことのできる種類のものであると言っています。それを取り除くの
が心の割礼で、旧約時代の割礼はナイフで行われましたが、新約の割礼は、
聖霊のみ業によるものです。
. 私たちの社会にはリクル−ト問題の嵐が吹き荒れています。昨日のニュ−
スでは、竹下総理の秘書が5千万円を江副氏から借入れ、もう返済した、と
のことでした。ところが、その後、それもはっきりしない、ようです。庶民
にとって5千万円と言えば、莫大なお金です。それをいつ借りて、いつ返し
たかわからない、また、返済したことを証拠だてる書類も無い、、、これで
は政治家の金銭感覚、否、道徳感覚が疑われて当然でしょう。まさに日本の
政治界は末期症状を示しています。しかし、何故、造船疑獄事件があり、先
のロッキ−ド事件、そしてまた、今度のリクル−ト事件と、事件が後をたた
ないのでしょうか。それは、汚職という人間性質に深く根ざした問題に関わ
っているからです。金権政治を生み出した政治家の責任は大きいと思います。
しかし、それを生み出す土壌は国民側にあります。そこに形を替え、人を替
え問題が繰り返される原因があるのです。いくつかの小さな町議会レベルで
議員からのお祝い金、ご香典などは受け取らないという議決が為されました。
しかし、昔から"地獄の沙汰も金次第"という諺があるように、ここに問題
の根があります。
. 心の割礼は、人間が生れつきもっているこうした性質、罪に傾く性質にメ
スを入れ、それを取り除く神の御業、聖霊のみ業です。これこそが真の意味
での神の民のしるしです。神との契約のしるしです。旧約時代の身体上の割
礼は雛型であって、新約の恵みの象徴、予表にしかすぎません。新約のペン
テコステの恵みこそが、その実体であって、神が予表によって指差しておら
れるものなのです。
. 日本ではリクル−ト問題が労働省、文部省を巻き込んで大きくその影響を
広げつつありますが、以前アメリカの厚生教育省管轄下のシカゴ、ノ−ス・
ウエスタン大学に都市問題センタ−というのがありました。そこのアンドリ
ュウ・バパス助教授のことですが、1978年11月と言いますから、かれ
これ10年前のことです。年俸を1272弗昇給するという政府通達を受け
ました。今の換算率で約25万円です。これに対して、バパス助教授は"給
料は既に十分貰っているから、緊縮財政の折柄、昇給の必要はありません。"
と断ったのです。政府はその態度が気に入らない、として、フィラデルフィ
アの下級職へ左遷しました。この助教授は、その政府に対して、それではと
退職して応じました。その時、バパス助教授の得ていた年俸は4万3千弗、
日本円にして、約860万円でした。10年前のことです。彼は、金で何で
も動かせるといった政府内の考え、また、時代の風潮に抗議したのです。こ
の人物は金によって動く人物ではなく、自分が正しいと思ったことにしたが
って、また、良心に従って行動する人物でした。
. 聖霊が臨み、心に割礼を受けると、生れつき持っていた罪の性質、罪に染
まった欲望が取り除かれ、神の基準、要求にしたがって、生きる者とされる
のです。この心の割礼こそ、真のクリスチャンのしるし、内的なしるしです。
このようなしるしを持っている人が、真のアブラハムの子孫であって、身体
に受けた割礼のしるしは、必ずしもその人がアブラハムの子孫であることを
証明するものではありません。
. 私たちはアブラハムの子孫、アブラハムを信仰の父と仰ぐ輩でしょうか。 心の割礼を受けて、こころから神に従わない、否、従おうとしない性質を取 り除かれて、しっかりと神の真の民であるしるしを身に帯びていますでしょ うか(1989/04/23、礼拝)。
■ キリスト、ペテロの足を洗う