このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「サラがあなたに産むイサク、、、」 創世記17:15〜27
■ 井戸を掘りましょう:
. 昨日の新しく"緑の日"として制定された祝日をもって、今年の大型連休
が始まりました。日本列島各地の行楽地は人でいっぱいと、ニュ−スは報じ
ていました。教会では昨日の土曜日、久々に早天祈祷会が持たれ、学校やお
勤めがお休みとのことで多くの方々が集ってくださいました。最年少者が竿
代寛文兄で、"おかあさんに起こして頂いたの"と聞きましたところ、"目
覚ましをかけて自分で起きた"とのことでした。牧師家族、こちらは掛け声
が掛かってのことでしたが、全員が出席しました。四月にしては寒い朝でし
たが遠くの方々も来られ感謝でした。"さあ、お休みだ。何をしようかな。"
と考える前に、"さあ、お休みだ。時間が与えられた。祈りに行こう。"と
いうのは嬉しいことであり、神はこの姿勢を喜んでいてくださる、と存じま
す。この姿勢こそが教会としての力なのです。
. さて、今朝の聖書朗読箇所は先週の続きで、創世記17章からです。創世
記は聖書の最初の書で、50章あります。大まかに分解しますと、1章から
11章が全人類の歴史、12章から50章までが、イスラエル民族の歴史と
なっています。全体に光が当てられ、それからキリストの先祖であるイスラ
エル民族へと焦点が絞られていっています。前半には、4つの出来事、即ち、
創造、堕罪、洪水、混乱、後半には四人の人物のことが、記録されています。
アブラハム、イサク、ヤコブ、そして、ヨセフの4人の伝記です。創世記は整理して覚え
やすい書です。
. 私たちは2月以来、年会を前後して、このアブラハムの生涯に目を留めて
きました。12章に始まり、今17章へとさしかかって来ています。
. 元ホ−トン大学の教授であられたバ−ト・ホ−ル博士は、20年も前のこ
とですが、BTCを訪れられた時、アブラハムの生涯には3つの岐路がある
といってメッセ−ジを取り次いでくださいました。彼の人生における3つの
岐れ道(CROSS ROADS )です。
・12章:前進か、停滞かの岐れ道(A CROSS ROAD BETWEEN SEPARATION AND STAGNATION)。
・17章−完全な愛か、高慢かの岐れ道(A CROSS ROAD BETWEEN THE PERFECT LOVE AND THE PRIDE )。
・22章−犠牲か、自己中心かの岐れ道(A CROSS ROAD BETWEEN SACRIFICE AND SELFISHNESS )。
の3つです。17章は、そうしてみますと、アブラハムにとって第二の岐れ
道にあたります。完全な愛と高慢との岐れ道です。アブラハムにとってこの
大切な岐路に立たされたのは、彼が九九才の時でした。耳は遠くなり、目は
かすみ、肉体は衰えつつあったことでしょう。しかし、彼の霊性は、まだ、
衰えていませんでした。肉体が衰えることはあっても、人は霊的に冴えてい
ることが可能なのです。彼が99才の時、アブラムは神の顕現に接しました。
そして、アブラムはアブラハムに改名されたのです。自分のことに関心の中
心があった"高揚された父"から、他に祝福を与えることが関心事の"多く
の父"として変貌されたのです。そして、神とのその新しい関係のしるしと
して割礼を受けました。
. さて、同じ17章、今朝の聖書箇所ですが、15節に、サライがサラに改
名されているのを見ます。サライの語源は確かではありませんが、いがみっ
ぽい、争いに巻き込まれやすい存在を暗示している学者もあります。そのサ
ライから、"サラ=王女"、尊い、威厳ある存在に彼女は変貌したのです。
T 今朝第一番目に、このアブラムとサライという夫婦の関係に目を留めましょう。
. 17章の冒頭を見ますと、アブラムには13年の霊的空白期間があったこ
とが記されています。アブラムは、この霊的空白状態を神のイニシャテイヴ
によって抜け出しました。神との親しい交わりが回復されたのです。アブラ
ムという名は、これを折りにしてアブラハムに改名されましたが、この改名
が彼の霊的な変貌を暗示しています。彼は信仰によって全能の神を把握した
のです。
. 宗教改革者M・ルッタ−の妻はしばしば"あなたの神は小さすぎる"とい
って、その夫を励ました、ということを聞きました。確かに、しばしば、私
たちの神は小さすぎるのです。私たちの感情というほこらに神を入れていて、
自分の感情が揺すぶられると、もう神が分からなくなってしまう人がいます。
アブラハムの把握した神は大きな神でした。力強い神でした。全能の神だ
ったのです。彼はこの神を信仰によって自分のものとしました。そして、彼
は変貌したのです。高揚された父から、多くの人の父へと。アブラムからア
ブラハムへと変貌したのです。
. 第15節に、神は「あなたの妻、サライのことだが、、、」と語り掛けな
さいました。家長の方々、「あなたの妻のことだが、、、」といって神の語
り掛けを耳にしたことがありますか。逆に、婦人方、「あなたの夫のことだ
が、、、」という神の語り掛けを聞いたことがありませんか。
. 聖書を学ぶと、様々な夫婦に出会います。アダムとエバ、ロトとその妻、
イサクとリベカ、ヤコブとラケル、エリメレクとナオミ、ザカリヤとエリザ
ベツ、その他、多くの夫婦が聖書に登場しています。その幾つかの例では、
夫婦の足並みがそろっていない不幸な夫婦関係を見ます。勿論夫婦の息のあ
った素晴らしいカップルも数多く見られます。
. ヨブとその妻が足並みの揃わない例でした。ヨブは神が称賛するような信
仰生涯の持ち主でした。しかし、彼が試練に出会った時、かれの妻は何と言
ったでしょうか。そのご主人が苦しむ姿に接して「神を呪って死んでしまっ
た方がよい」と言ったのです。ヨブは「主は与え、主は取りたもう。主の御
名はほむべきかな」と言っていたのです。残念な事に、ヨブの妻の信仰、霊
性はそこにまで達していませんでした。それで、夫の信仰に水を差すような
発言をしたのです。
. もうひと組み、ダビデとミカルを見ましょう。ダビデは羊飼いの少年であ
ったところから、神がその純粋な信仰を愛でて、とんとん拍子に成功させて
くださり、イスラエルの司令官にまでなっていました。サウル王の次女、ミ
カルはこのダビデにいわば、ひと目ぼれしたのです。「ダビデを愛した」と
記されています。ところが、ある時、イスラエルにとって神の臨在のしるし
である契約の箱が、エルサレムに戻されて来た時、ダビデが、そのことで喜
びのあまり、その前で、人目も気にせず喜び踊ったのを見て、ミカルは冷や
やかに"王たる者が人前で、はしたない"と批判したのです。神の為に熱心
になっている夫に、ミカルはついて行けなかったのです。彼女はダビデを嘲
笑しました。夫を理解できなかったのです。
. 逆の場合もしばしばあります。妻の方が信仰的に冴えていて、信仰的に物
事を判断するのに、夫の方は世的で、いっこう妻の立場を理解しようとしな
いということも起こります。サムエル記にあるナバルがそうでした。頑固者
で、恩知らず。ダビデがナバルの羊飼いたちに示した親切を無視して、知ら
ん顔をしようとしました。妻のアビガイルは神が選んでおられるダビデの立
場を認識して、ダビデに出来る限りのことをしようとします。
. 新約聖書のプリスキラとアクラはどうでしょう。記事があまり詳しくあり
ませんので断定できませんが、二人の名が出る時には、いつでも妻プリスキ
ラの名が先に出ています。ある注解者が言うように、妻の出身、家柄の方が
夫のものより高かったから、かも知れません。しかし、それよりも、信仰的
なことと理解した方がよさそうです。妻の方が、夫より信仰的に先だってい
たからではないでしょうか。夫を妻が引っ張っていっていたのでしょうか。
. そうした中で、一番理想的なのが、アブラハムとサラの夫婦です。アブラ
ハムの信仰の飛躍と同時に、サライもサラに変貌を経験したのです。彼女の
信仰も同様に飛躍しました。
. 信仰は"神対私"という関係で、個人個人のものです。しかし、時折、神
は「あなたの妻サライのことだが、、、」、「あなたの夫のことだが、、、」
といって語り掛けなさいます。どうぞ一方が他方の足を引っ張り降ろすこと
のありませんように。夫婦の霊的状態、信仰の歩みというものはあまり掛け
離れているのは望ましくありません。差があり過ぎるのはよくありません。
夫婦は信仰的にも足並みをそろえて歩きたいものです。
. 信仰というと、ある人々は教養のたぐいと考えます。"衣食足りて礼節を
知る"という諺がありますが、ある人々は、信仰は衣食が整って後のマナ−
みたいなもの、と考えます。衣食の為に、ある時は"なり振りかまわず、と
にかく食べて行かなければ、、、"です。そして、少々余裕が出てくると、
"そろそろ心の問題に目を向けて、心が豊かになるよう考えようか"という
のです。そうであれば、信仰の違いはあまり問題になりませんでしょう。ア
クセサリ−にしか過ぎないのですから。
. しかし、信仰はそうしたレベルのもの、教養とか、人生のアクセサリ−程
度のものではなく、私たちの人生の基礎となるものです。信仰とは、その人
の人生の底に横たわっていて、人生全体に感化と影響を及ぼすものです。ひ
りの人の人生を支配するものです。お金の使い方、物事の選択、友人とのつ
き合い、、、、こうしたこと全ては、その人がどのような信仰を持っている
かによって左右されます。
. 信仰がそうようなものであるなら、信仰において、夫婦の間に大きな差が
あることは決して望ましい事ではありません。現実の問題において食違いが
生じるおおもとなのです。子どものしつけの仕方、家庭経済の運営、余暇の
使い方、その他もろもろのことで違いが生じます。
. 第15節、神はアブラハムにおっしゃいました、「あなたの妻サライの事
だが、、、」。夫婦で信仰的に足並みを揃えさせて頂きましょう。しかし、
二人揃って、低いところで足並みを揃えるのではなく、アブラムはアブラハ
ムに、サライはサラに変貌させられたように霊的に高いところでの一致があ
りますように。
U 次に、アブラハムの二人の子ども、イサクとイシマエルのことを考え ましょう
. 先週、旧約聖書は新約聖書に対して、つぼみであり、準備的、また、旧約
の出来事は、新約の経験に対して、模型的であることを学びました。旧約の
出来事が新約の教えに光をあて、例証しているのです
. さて、イサクをイシマエルの問題ですが、ガラテヤ書4:22、23を
ご覧ください。アブラハムにふたりの子があって、ひとりはイシマエル、女
奴隷の子、もうひとりはイサク、自由の女サラから生まれた子とあります。
そして、24節には「このことには比喩があります」と書いてあります。
先ず、イシマエルですが、彼は人間的な判断・方策から生まれた子、その
結果でした。即ち、律法の行いにより救いを求めようとする肉的な、人間的
な考え、行動を象徴しています。その結果は束縛です。自分が一生懸命生き
て、善い事を積み上げ、救いを得ようとする道の象徴です。
. 仏教には"八正道"というものがあると聞いています。正しい思念、正し
い行い、正しいことば、、、などなどです。一生懸命さは称賛されるべきで
しょうが、その結果として生まれてくるものは、イシマエル、奴隷の子、束
縛にしかすぎないのです。どのように一生懸命でも、これで大丈夫という点
に達することは至難な事です。努力はしていても、救いの確信に至ることは
先ずありません。せめて言えることは"こんなに一生懸命しているのだから、
神様は、仏様はいつかは報いてくださるに違いない"ということで、持てる
のは淡い期待のみです。しかし、多くの場合、不安があります。"これで大
丈夫だろうか。"ここに、いわゆる異端の人々が熱心な理由があります。決
して自分の一生懸命さだけでは、確信には至らないからです。もっと、もっ
と、と何かやる事に拍車が掛かるのです。信仰の安息は決してありません。
. これに対して、イサクは約束の子でした。人間的には絶望的な状態の中で、
信仰により、神によって生み出された子なのです。アブラムが100才、サラは
10才若く、90才のことでした。人間的にはもう子を期待できない年令だ
ったのです。しかし、神のみことば、約束を彼らは捉えました。そして生ま
れたのがイサクでした。彼は約束の子でした。約束に対する信仰は自由をも
たらします。
. 神が約束してくださった救い主に信仰を向ける時、そして、信頼を置く時、
不安と焦燥から解放されて、私たちは安んじることができるのです。救いの
確証に立つことが可能になるのです。勿論、反省したり、吟味したり、悔改
めたり、こうしたことも大切です。それを無視して、もう一方の極端に走っ
たグル−プがないわけではありません。アンテイノミアニズム、律法無用論
を警戒しなければなりません。しかし、神に信仰をおく時、私たちの心は確
信に到達し、そのとき始めて、安んずることが可能になります。
. ガラテヤ5:18、「律法」は人間的な努力・修業の代表です。5:19
にあるような肉の行いから私たちを釈放する力は、律法にはないのです。
それは束縛をもたらすのみです。しかし、救い主に関する約束をとらえる時、
そこに聖霊の実が結ぶようになります。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔
術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、めいてい、
遊興、、、、に代わって、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、
自制の実が結ぶのです。
. アブラハムはイシマエルを世継としてはならない、サラから生まれるイサ クを世継にするように命じられました。人間的な画策、知恵から生じる結果 を取り、束縛、奴隷状態になってはならないのです。イサク、約束の子を選 んでください。そこにこそ、自由、釈放、喜びがあります。善き実の結実が あるのです(1989/04/30、礼拝)。
■ キリスト、ペテロの足を洗う