. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 19 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」.                          詩篇37:1〜11 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .ダビデにとって、サウルのような「悪を行う者に対して」どのように向き合うかは、大変な課題であったに相違ありません。いつの時代にもそのような者が存在し「善を行」う者たちを悩ませます。聖書には、ヨブ記、ハバクク書など幾つかの書に、「神義論」と言われて、こうした悪の問題が扱われています。「神が善であり、しかも、全能・全知の神であるなら、なぜ悪の存在を許しておかれるのか」、また「神が愛の神であるなら、なぜ正しい者が苦しまなければならないのか」といった問題が、こうした書のテーマです。詩篇37篇もその一つといえましょう。

. .悪を行う者と相対して、ダビデが苦しい経験を通して学んだことは「主に信頼すること」(3節)、「主を喜びとすること」(4節)、「主にゆだねること」(5節)、そして「主を待ち望むこと」(7、9節)でした。こうした問題を対人関係のレベルのみで解決しようとしても、解決に至りません。真の解決は、私たちが、人に対してではなく、神に対してどのような姿勢を取るかに掛かっているのです。

. .「主に信頼すること」 ― デカルトのことばに「我疑う(思う)ゆえに我あり」と言うことばがあるとされています。疑いの主体である「我」の存在は否定できません。創造主でる神がその世界に刻まれた根幹的な原則は「信じる」ことでした。「信じる」とは、単なる頭脳的な営みではなくて、こころで「信頼する」と言う営みです。全身をもって「依り頼む」ことです。

. .「主にゆだねること」 ― それゆえ「信じること」は、「委ねること」でもあるのです。「委ねる」という姿勢に進んでゆかない信仰は、頭だけの遊戯で、意味をなしません。「委ねる」とは、神の最善を信じて待つことです。自分の思い通りには、ことが展開してゆかないことはしばしばありますでしょう。しかし委ねた人は、神の最善を待ち望みます。

. .それには「主を喜びとすること」が大切でしょう。主が喜びでなかったなら、主にとっての最善が、自分にとっても最善だとは受け入れませんでしょう。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異な」(イザヤ55:8)ると預言者イザヤは言いましたが、そのような時、主の思いを受け入れることができるのは「主を喜ぶ」からに他なりません。

. .そして、このシリーズの最後は「主を待ち望むこと」です。神がなされることを最善として受け入れるのみか、神がなさる「時」をも最善の時として受け入れることです。神の「しばらくの間」(10節)は、私たちの理解とは大きく異なっていることでしょう。「待ち望む」とは、それでも主の「時」を受け入れることです。

高知県・越知町の大樽の滝


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