時折寄せられた質問への回答を「Q&A」として、ここに書き記してみました。聖書や神学に関するものですので、一般の方々には興味ないかもしれません。
しかし、質問者以外にも同様な疑問を心に抱いている方々も、なかにはおられることと思いました。
2004年2月19日:「聖と認められなければ、救われませんか」
Question/0005:
今回は、以前「聖と認めなければ救われないのでしょうか」と、聞いた時の続きです。先生は「Tペテロ1章から、2章をよんでください」といってましたけどTペテロ1章15節の事なんでしょうか。命令形で書かれていました。また「キリスト教信仰の探求」(福音文書刊行会)W・T・パーカイザー著を読みました。そしたら、P.442 に「道徳的に見る時、救いは聖化である」と書かれていました。読んだんですけどわかりません。忙しい中、すいませんけど教えてください。これは、ギリシャ語のハギアスモスと、関係しているんでしょうか。

  Answer/0005:
「聖と認められなければ、救われないのでしょうか」という質問に対して「Tペテロ1章から、2章を読んでください」と言ったのは、この箇所に「救いの2つの面」が教えられているからです。
・まず、1章9節には、既に得ている「たましいの救い」について書いてあります。その結果、8節のような、クリスチャン生涯が可能となったのであって、これは信仰の結果であるとも言われています。
・それに対して、1章5節、2章2節に言及されている救いは「将来的」な救いです。これから現される救いであり、成長の末に頂く救いです。
 さて、ここで、1章9節の意味での「初時の救い」に関しては、聖と認められる以前に与えられる救いです。しかし、1章5節、また、2章2節に言及されている「究極的な救い」に関しては「聖と認められなければ救われない」といっても良いでしょう。そもそも、キリストにあって救われたということは、罪から釈放されて、聖と義のうちに生涯、生きることに他なりません。初めの救いは「聖」に向かっての救いでもあるのです。


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