. . . フィリップの自己紹介です。宣教師として国外に在って使っていた「フィリップ」を、ホーム・ページでの名前として使うことにしました。では、よろしく。

   以下は、牧師としての学び、訓練を受けるために、インマヌエル聖宣神学院に志願した折、提出した証しです。もう少し、背景的なことを書き足して補って見たいと思います。
   ルーツのところに書きましたように、父は19歳の頃から、キリストへの信仰を告白し、牛込の聖公会で洗礼を受けていました。母は、九州・福岡県の生まれ、禅宗の家に育ちました。祖父は、檀家の一人として和尚さんと大変仲がよく、碁仲間であったようで、母の娘時代、食事時間に碁に熱中している祖父を迎えによくお寺に行かされたようでした。母は、若くして上京し、東京でひとり暮らしをしているとき、父と知り合い、家庭をを持つに至りましたが、父のキリスト教信仰にはかなり批判的で、ずっと後まで、即ち、私がクリスチャンになるまで、キリスト教には関心を示しませんでした。
   私が、中学・高校、そして、大学時代と、親、特に父親、に対して批判的な態度を持つようになっていた時、父は、戦時中のキリスト教禁止という事態を受けて、また、母の反対に出遭ってでしょうか、信仰的には萎えていた時代だったと思います。よく「礼拝は月に一回出れば十分」といって、日曜日、一週間の勤務の疲れを癒すため、礼拝には行かないで、家で昼寝していました。その父が、ある春の日の夕方、勤務先からの帰宅の途中、電車の中で一人の外人と隣り合わせに座ったのです。その人がアメリカ人が宣教師とは知らずに、父は話しかけました。そして、別れ際、その福音ルーテルの宣教師の家で持たれていた English Bible Class (英語の聖書研究会) に招かれたのでした。
   父は、しかし、その英語での聖書の学び会に一回しか行きませんでした。「集っているのは、若者ばかりで、恥ずかしかった」というのが、行かなくなった理由です。父はその頃、50代になっていましたから、、、。夕食の折の会話から、父のバイブル・クラス出席を知った私は、生の英語に触れられるとのことに魅せられて、父に代わって、その English Bible Class に出席するようになりました。キリスト教や、聖書に関心があったからではありません。生の英語に触れたい、と言う思いだけが強かったのです。
   4月頃から8月まで、忠実に週一回のバイブル・クラスに通っていましたが、夏になって、English Bible Casmp(英語のキャンプ)へ の誘いを受けました。静岡県阿部川の上流、梅が島温泉郷の近くのキャンプ場で持たれるとのこと、英語と東京の喧騒さを離れた自然の環境に憧れて参加・出席することにした私を待っていたのは、朝昼晩とキャンプの期間中、持たれた聖書の学びのプログラム、ディスカッションの時などで、遊ぶつもりで参加した者には期待はずれでした。
   予定されたキャンプのスケデュールも終わり、いざ静岡市へと言う段になって、阿部川上流に大雨が降り、迎えのバスが来られなくなってしまいました。天候の具合で、キャンプは2、3日伸びたのです。そのようなことがなかたら、私は、もとのままで、信仰を持たないまま、再び東京に戻って行ったことでしょう。しかし、予定していなかったその2、3日の間に、今から思えば、主は、私の心に働き掛け、ある出来事を通して、私に罪が何であるかを分らせてくださいました。罪を自覚した時の、自己嫌悪、そのような自分から逃れたい、変わりたい、という思いは、私の不信仰・多くの疑問を打ち砕いて、私は、キリストにあって変わるために、その救いに依り頼むことを決意したのでした。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました」(Uコリント5:17)。そのキャンプで暗記した聖句のひとつです。
   1956年(昭和31年)8月16日、私の霊の誕生日です。私は、わからないことを多く心に持ったままで、教会には一度も出席したことのないままで、クリスチャン生涯のスタートを切りました。初めて悔い改めの祈りを口にしたのは、キャンプ場の「布団部屋」と呼ばれる小屋で、そこに集まった4、5人の友とともに、輪になって祈ったときでした。隣に座っていた食事の世話係りの大学生より少し年配のS婦人が「○○さん。良かったわね」と言われたことばが、今も耳についています。
   伊豆の友人を訪問してから、東京に帰り、迎えた最初の日曜日が、8月19日だったように記憶しています。朝、目覚めた途端、「私は、クリスチャンになった。クリスチャンは日曜日ごとに礼拝を守ると聞いているが、、、」との思いが心に湧きあがってきました。宣教師のバイブル・クラスには出席していても、教会には足を踏み込んだことのない私。父の信仰は、ごく個人的な信仰で、子どもたちは、育ったのが戦時中でったこともあって、教会学校に連れて行かれたことありませんでした。そもそも、過去に、父の教会に連れて行かれたことがあったとしても、父に反発を感じていましたから、父と同じ聖公会に行くことは先ずなかったでしょう。ふらっと家を出、見つけたのがインマヌエル板橋キリスト教会でした。犬も歩けば棒に当たる、ではなく、私も歩けば教会に打ち当たったのです。後になって考えれば、神の摂理の御手が働いて、聖霊が私の心と足を導いていたのでしょう。私にとって、キリスト者となって最初の礼拝でした。
   その約8ヶ月後、私は勧められるままに(といっても、それより前のクリスマスの時には、インマヌエル教会の所属する決心がつかないで、洗礼を受けることを後に延ばしました)、1957年のイースターに、その教会で洗礼を受けたのです。司式者は、当時インマヌエル京都伏見教会の牧師でいらした福田約翰師でしたが、14、5人いた受洗者のひとりびとりのために、聖句を引用して祈ってくださいました。私のためには「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなた方は力を受けます。そして、、、、地の果てまでもわたしの証人になります」だったことをはっきり覚えています。その時は、その聖句の意味について深く考えた訳ではありませんでしたが、後に、宣教師として国外に出たとき、「ああ、あの時の福田約翰師の祈りが、このような形で答えられたのだな」と意識した時、祈りの神秘さを体感したような思いが致しました。


わが家の夜明け

救 い の 証 し
                              昭和34年3月3日、BTC志願に際して提出

                                                      インマヌエル板橋教会 ○ ○ ○ ○

.   「世の人はいかなるものなればこれを聖念(みこころ)にとめたもうや、人の子はいか なるものなればこれを顧みたもうや。我はなんじが僕にほどこしたまいし恩 恵と真実を一ひとつも受くるにたらざるなり。」 .   かってのこの世の習慣に従い、 空中の権を執る宰(つかさ)にしたがって歩んでいた日々を回顧し、又、我が今のごと くなるはただ神の恩恵によることを想うとき、我が内なる聖きものはかく叫 ばざるを得ません。
.   「われ先にはけがすもの迫害する者、暴行の者なりしに、、、」とのパウ ロの告白を聞くたびに、私もそうであったことを追憶し「されど罪の増すところ には恩恵もいや増せり」とのみことばに心から頷く事が出来るのです。
.   「人間は滅ぶべき者である。そうかもしれない。しかし、抵抗しながら滅 びよう。そして、虚無が我々に約されているとしても、それが裁きであるよ うには振舞うまい。」
.   これが死地に曳かれゆき、滅亡によろめき行きつつあったとき心に持って いた私の金言ーフランスの実存主義者のことばーでした。多くの学友が単純な無心論を唱えたり、又は、「分から ない」と態度を保留していたのに比して、私は前のことばから分かるように 「反神・背神」だったといえるでしょう。友と語る時、私も「神なし」と断言して いましたが、それは友の考えるごとく神が存在しないと言う意味ではなく、 神は存在するにもかかわらず私がそれを抹殺すると言う意味での「なし」だ ったのです。正に心に高ぶりて「我は神なり、神の座に坐りて、、、」と言 うものでした。
.   しかるに今は我を責むる規(のり)の証書、すなわち、我に逆らう証書は最早我ら の心をみたもう神のみ前に羔羊(こひつじ)の血に塗り抹されて、あまつさえ屠(ほふ)られ たまいし羔羊の生命の書に名を記されるようになったのです。かっての金言 と今、私の魂に深々と刻み込まれているヨハネ3:16「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」と比較してみる時、 再び冒頭に掲げたことばが溢れてくるのです。
.   さて「もし他の人頼む所あり、我は、、、」というパウロのことばを聞く 時、程度の差こそあれ私も共鳴するものを見出す事が出来ます。神の先行的 恩寵(後でわかったことですが)の故に比較的教育や道徳生活に関して考慮をはらう家庭に育ち多くの同 年配の青年に比して、(絶対者なる神を否定する結果は結局私を他の人と比 べてどうであるかとしか考えられない者にしていましたから)正しい、きよい 生活を送る事が出来ましたし、より高い生涯に目を向けていたのです。しか し、「あゝわれは悩める人なるかな」との叫びは私の叫びでなくて一体誰の ものだったでしょう。しかるに、今は私も己れを「罪については死にたるもの、 神につきてはキリスト・イエスにありて活きたる者」なる事を思い、主は実に 甦り給えりと言い得るのです。「もしキリスト甦りたまわざりしならば我ら の信仰は空しく我ら尚罪におらん」とある故に。
.   最後に「汝らは恩恵により信仰によりて救われたり」とのパウロの宣言に ア−メンと心から合わせるものです。今から二年半前の昭和31年8月16 日、神は私にも生命をえさする悔い改めを与えてくださいましたので、かく 我は信仰によって義とせられ我らの主イエス・キリストにより神に対して平 和を得ているのです。己れによるにあらず、行為によるにあらずキリストに より信仰によりて、今立つところの恩恵に入る事を得、神の栄光を望みて喜 ぶものです。
.   「キリストは苦難を受けて、3日目に死人の中より甦り、かつ、そのなに よりて罪の赦しを得さする悔い改めはエルサレムより始まりて、もろもろの 国人に宣伝えらるべしと、汝らは此等のことの証人なり」とあるように私も 又此等のことの証しを為すものです。
.   ねがわくは御座にざしたもうものと羔羊とに賛美と尊崇と栄光と権力と世 々限りなくあらん事を。」


わが家の庭の花、シラー・ぺルビアナ

■ 80歳になる年の個人的な回顧

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          ■  80歳になる年の個人的な回顧・そのT
             ・「全一:名前の由来」
             ・「誕生の地:東京市新宿区」
             ・「河内家にとっての男の初孫」
             ・「つづく」
          ■  80歳になる年の個人的な回顧・そのU
             ・「一地域教会の牧師として」
             ・「教会を建て上げること」
             ・「教会建設:役員会の持ち方」
             ・「つづく」
          ■  80歳になる年の個人的な回顧・そのV
             ・「ウエスレアン・ワールド・フェローシップ(WWF)」
             ・「ウエスレアン・ホーリネス教団:設立総会」
             ・「WWF、インマヌエル教会への加盟の招き」
             ・「つづく」

          ■ (クリック)  ジャマイカ時代のアルバム:その1
          ■ (クリック)  三人の俳句
          ■ (クリック)  俳句の英語訳
          ■ (クリック)  昔に遡って
          ■ (クリック)  父・若き日の詩集
          ■ (クリック)  世界に翼を駆って

土佐国の紹介

■ 右の写真:「西祖谷の二重かずら橋」をクリックすると、「土佐国」紹介のページにリンクします。


今回の「聖書からの励まし」


「神である主の霊が、わたしの上にある。
主はわたしに油をそそぎ、
貧しい者に良い知らせを伝え、
心の傷ついた者をいやすために、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、
すべての悲しむ者を慰め、
シオンの悲しむ者に、
灰の代わりに喜びの油を、
憂いの心の代わりに賛美の外套を
着けさせるためである。

旧約聖書・イザヤ書61:1〜3(新改訳)
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