「Our Roots」のページは、名称のとおり、ルーツを遡る写真などです

・ このページでは、主として、私たちの家族・親族を紹介する写真を記載したいと願っています。メニュートップを飾る家紋入りの風呂敷は、母が娘時代に自分で織り、また、染めた大風呂敷のものです。私のいとこの上京に際して持たせてやったものとのことで、最近そのいとこから私のところへ送られてきました。
	フィリップの父方の曽祖父母です

「フィリップの父方の曽祖父母」

・ 河内家は、清和源氏の血統を引き、本家は新潟県高田市にありました。天保4年「全庵」が分家、初代当主となり、江戸に上京、千代田区麹町一番町に居を構えました。「全庵」はある元子爵家より押されて、徳川15代将軍・慶喜公にも仕えました。2代目の曽祖父「全節」(右写真)は、漢方医の名家としてばかりでなく、宮内庁の侍を拝命し、明治天皇の幼くして亡くなった皇女、和宮(親子内親王、昭10/09/02逝去)、慈宮(子内親王、昭16/09/06逝去)、増宮(章子内親王、昭16/09/08逝去)のお三方に奉仕しました。それで帯刀を許されたとのことです。医学に関する著書も多く、その一つが初期の医学校の教科書とされた「日本医道沿革考(全)」でしたが、この教科書の序文は、山縣昌蔵氏によるもので、漢文で記されています。

・ 「河内全節」に関しては:

  ■ 朝日新聞記事(2007/10/14)
  ■ 壬生町の広報(2007/09月号)記事
  ■ 朝日日本歴史人物辞典

などを参照してください。


フィリップの父方の祖父と叔父・叔母たち 「フィリップの祖父と叔父・叔母たち」

・ 同じく小児科医であった祖父の「全中」と、フィリップの叔父・叔母たちです。昭和15年8月の写真で、後に特攻隊員として戦死した郁男叔父の離京に際して中庭で撮影したものです。祖父は、その日、防空基本訓練の救護部担当で、そのために団服と呼ばれるものに身を固めていました。「全中」は、日本小児科学会理事長、麹町区会議員としても活躍しました。
・ この祖父は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲の折、麹町の家を出たまま行方不明となり、戦災で死んだものと思われます。その日、東京はB29による焼夷弾の絨毯攻撃で至るところ焼け野原になったのを、私も子ども心に覚えています。

父と叔父・叔母の子ども時代 「父と叔父・叔母の子ども時代」
(・ 右の画像をクリックしてください。大きくなります。)

・ 父と伯母・叔父が、七五三の記念に撮影した珍しい写真が見つかりした。明治43年とありますから100年近く前のものです。父の旧姓は「河内」でした。母のところに養子にきたわけではありませんが、結核に罹っていた母との結婚を医師であった私の祖父に反対され、また、別の理由もあって、母の姓を名乗って新しく戸籍を作ったということのようです。
・ 明叔父は、軍医となって満州の出征しましたが、その最後は、騎馬で巡回中、狙撃されたとか、捕虜となってシベリヤへ抑留されたとか、聞いています。今となっていは、尋ねる方々が居なくなりました。
・ 今は他界した典彦叔父や、清季叔父たちは、戦後、復員し、フィリップの家族としばらく一緒に生活していた時期がありました。
・ この写真では見かけられない長男が、伯父の「全春」で矢張り医者でした。伯父夫婦には子どもがなく、私が男の初孫とのことで、代々の「全」の字を継ぎ、「全一」と命名されました。大学生の頃、子どものいなかった伯父に、河内家がどのような家筋なのかの説明もなく、ただ「医者になれ」と勧められたこともありましたが、牧師になることを決意していましたので、「たましいの医師になるから、、、」と断ったことがあったのを想い起こします。


父、年会上京の折

「年会に出席したおりに。杖を持たない方が父です。」

・ 父は、 牛込にある聖公会(聖バルナバ教会)のメンバーで、19歳の時、洗礼を受けたと聞いています。私が中学生の頃でしたでしょうか、お名前を覚えていませんが、英国人婦人宣教師が、私たちの貧しい住まいを訪れて来られたことがありまいた。畳の部屋では、、、ということで、狭い部屋に籐椅子を置いてお迎えしたことが記憶に残っています。

麹町小学校の同級生とともに 「麹町小学校 の同窓会、箱根行き」

・ 昭和54年5月11日とありますがら、父、76歳の時の同窓会です。小学校の同窓会が60年以上にわたって続いているとはうらやましい限りです。父が生まれ育った麹町にあった代々の家は、戦災で消失しました。

フィリップの父母 「フィリップの の父母です」

・ 河内姓であった父は、ある事情があって、母と結婚したとき、養子になった訳ではありませんが、母の姓を名乗ることとして、戸籍を設けました。

フィリップの母方の祖父母「素一・松」 「母方の祖父母:素一・松」

・ 母方の祖父は、○○家の第11代目の当主で、藩主黒田候が国替えがあって鳥取地方から九州地方へ移って時、藩主とともに九州に移ってきたとのことです。母は6人兄弟の末娘でした。私の従兄弟が、第12代目の当主として健在です。私の名は、母方の祖父「素一」から「一」、父方の祖父「全中」から「全」を貰い「全一」になりました。

フィリップの母と姉 「フィリップの母と姉」

・ フィリップの母は、1994年93歳のお誕生の3日前に召天するまで、父の亡き後のほぼ10年間、ひとりで暮らしていました。教会で礼拝を守るのが楽しみで、毎週巡り来る聖日を楽しみに生活のリズムを整えていました。姉は、高校生の頃、父と同じ牛込にある聖公会で受洗しました。


妻、フィーべの両親 「妻、フィーべの両親」

・ 妻フィーべの父は、睦子と再婚する前は「横田」姓を名乗っており、戦時中は「伊−26号」潜水艦の艦長として太平洋を縦横に航行していました。空母サラトガに魚雷を打ち込み、撃沈させたこともあったようです。また、伊−26号潜水艦は太平洋戦争中、カナダ西海岸のヴァンクーバーに砲撃を加えた唯一の日本海軍艦艇だそうです。
・ 父が米寿、母が喜寿を同なじ年に迎えての記念撮影です。父の胸には、授けられた勲3等瑞宝章が輝いていました。

長谷川家族4世代 「母を囲んでの4世代」

・ 春休みに上京した折に、母を訪問しました。母・子・孫・曾孫と四世代が揃いました。

妻フィーべの両親

・ 妻フィーべの両親です。父は「神は愛なり」という賛美歌を歌いながら、病院生活をしておりましたが、今は天の主イエスの御許に帰っておりますが、多くの人々に愛された幸せな晩年でした。

キングス・ガーデンに母を訪ねて 「キングス・ガーデンに母を訪ねて」

長谷川の母、元気です。 ・ 長谷川の母、元気です。今は93歳でしょうか、○○にあるお年寄りの施設で日々を過ごすようになりました。屋内でしたら、杖をついてですが自由に歩き回れます。


長谷川の母、元気です。 ・ フィーベの実の父です(写真右)。フィーベが3、4歳の折、赤紙で召集され、太平洋戦争中、パプアニューギニアに行き、そこで戦病死したと聞いています。戻って来た遺骨の箱には一枚の紙片が入っていただけだったとの由です。

・ フィーベの祖父です(写真下)。広島で医院を開業していました。長男は戦死。医院は、その双子の姉妹、長谷川正子、そして伝道者になった元子によって引き継がれました。昭和20年、広島での原爆被爆と言う経験を経、インマヌエル綜合伝道団の創設に際して、医院を千葉県船橋市に移して、インマヌエル医院として、インマヌエル教会の設立に全面的に協力しました。

船橋に移って:インマヌエル医院。 広島時代の長谷川医院。 長谷川廉平、忠子の祖父です。

    ■ 「Archives」から、孫の写真をこちらの「Roots」のページに移しました。
     それで、このページは「Roots & Branches」になります。
     一番上の孫は、長女エスターのところの「智之」君でしょうか。
     現在小3になります。
     写真は、少し古く、小学校入学の時のものです。
     写真右から6番目が、次男ベンジャミンのところの、「智之」君と同学年の「瑞希」ちゃんです。
     この写真はこれも小学校に入学した年のものです。
     今、私がこのページを残しておかなかったら、
     子どもたち、孫たちは、このようなルーツを持っていることを知らないままになりますでしょう。
     自分のルーツを知ることは大切なことと思って、このページを子、孫のために書きしるしておきます。

偕之、いよいよ小学生です。 偕之の弟、和也です。 綺麗に歯が磨けました。瑛子(ようこ)です!

大介です。大分はにかみやさんです。 光介です。

瑞希です。私も4月から学校にゆきます。 教恵ちゃんの登場です! 次男の第3女、佳音(かおん)ちゃんです。 次男の第4女、愛香(まなか)ちゃんです。

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