神学小論文集 ■ 「聖化の転機と人間性」 − 小論文三部作 


■  神学小論文シリーズ:そのV

「蔦田二雄に聖化論を学んで」(続編)

― 全き潔めの転機後の漸進的潔めについて(更なる展開) ―
  四国教区会での学び(September 25th〜26th、2007)

初 め に

. インマヌエル綜合伝道団の神学委員会によって発行された論集「蔦田二雄の『聖』と『宣』」中、筆者によって執筆された「蔦田二雄に聖化論を学んで」と題する論文は、年会で取り上げられ質疑応答の時が持たれたり、また、教区での学びの材料として取り上げられたりしました。論集の他の執筆者たちが「蔦田二雄の聖化論」という題に沿って、恩師・蔦田二雄の聖化論を忠実に纏め紹介したのに対して、筆者の論文は、その題が示すように、蔦田二雄師の教えを踏まえて、更にそれを展開したものだったので、特に関心を招来したと言えますでしょう。筆者の論文で展開された、主として転機的な経験を越えた後の漸進的聖化に関する新しい理解は、論文を読んだ教師たちに、幾つかの研究課題を示唆し、また、疑問をも生じさせているように思います。それでここに再び筆を取って、前述の筆者の論文とはまた異なった視点から論旨を展開・説明しようと思います。そうすることによって、お互いが属する群れの嗣業である「聖書的な聖化」の教理に関する理解が更に深まり、教理的整理がまた一歩前進し、それが私たちのきよめの追求、歩みに良い影響・変化、熱意をもたらすことを願っています。

. 丸屋真也氏は「健全な信仰とは何か」 と題する書物の中で、牧会者と臨床心理学者の視点の相違に言及して、牧会者の見方が全体的であって、個々の問題に対しては限られており、クリスチャンが信仰者として振舞うので、牧師に必ずしもすべてを話すわけではなく、それで牧師の持つ情報は限定的であり、更に、牧師は、具体的な問題に対して援助するよりも、信仰面へのケアーを中心として奉仕し、みことばを語るけれどもその適用は個々のクリスチャンの責任であると言う理解に立っていて、生活の実際面での指導は最小限にする傾向性が強いとしています。それに対して、臨床心理学者は、クライアントの問題そのものに焦点を合わせるので、置かれている状況の複雑さ、問題の根の深さを実感している、と書いています。

. 私は臨床心理学者ではありませんが、「聖化」の経験を追及し、その問題に取り組む時に気づかされるのは、この聖化の「問題の複雑さと問題の根の深さ」です。聖書的な聖化の教理を整理し、展開しようとする時、私たちは、人間を単に霊的な存在としてのみ見ることはしません。人を単に霊的存在として理解するだけですと、聖化の確かな体験、そして、その後のきよめの成長へとその人を導くことはできないことに気づくのです。霊的なレベルにおいて、アダムの末裔として、人は生まれながら「肉」の性質に纏われています。ウエスレアン神学では、その解決・きよめは、聖なる神による全的聖化の瞬時的御業として説かれています。しかし、人の持つ「罪への傾き易さ」は、アダム以来の肉の性質・SIN、すなわち、霊的な領域から来るだけではありません。少なくとも、人祖以来の遺伝的な「罪への傾き易さ」に加えて、更に5つの要因が、私たちに「罪への傾き易さ」をもたらしています。この「罪への傾き易さ」を克服して、キリストの御姿に成長・変貌してゆくことが聖化の主題といえましょう。さて、「肉」の性質を含めて、私たちを罪に傾かせる6つの要因とはどのようなものでしょうか。

T 人格形成に影響し、罪への傾き易さをもたらす「6つの要因」

. 「私」という一人の人間を考える時、その「私」は、様々なものから切り離されて、孤立して存在しているわけではありません。「私」は、それまでの人生を歩んできた自分の過去(X-1)を有しています。キリストに属するようになって、確かに新しくされました。しかし、自分の過去と全面的に絶縁したわけではありません。誕生以来の今日までの「私」の歩みが「私」の現在の人格形成に深くかかわっています。「私」の過去を、更に昔に遡ると、「私」の親たち、また先祖が存在することを見出します。「私」の受け継いでいる家系、また、「私」の置かれた家庭環境(Y-1)として、それらは「私」の人となりに深くかかわっています。家族的・家庭的な要因(X-2)です。

. 更に過去へと遡ってゆきますと、「私」の属する民族・国家というヌエ的存在に突き当たります。そして、民族・国は、「私」に文化的環境を提供し、「私」の人格形成に関わってきており、また、その影響感化を通して、民族特有の「罪への傾き易さ」をもたらしているのです。武士道について書き表した新渡部稲造初め、明治時代の日本クリスチャンたちが如何に日本的であったかを思えば、この影響感化を無視するわけにはゆきませんでしょう。聖化の追及における社会的・文化的要因(Y-2)です。
.

. そこから更に過去に遡ると、アダムの堕罪の歴史的な出来事にゆきあたります。これは、勿論、全人類的な課題で、すべての人はアダムの背きの結果として、霊的なレベルで「罪へ傾く性質」を受け継いでいます。人はすべて「肉」なるもの、生まれつき神にそむく性質(X-3)を帯びて、この地上に生を受けます。現代のようなグローバルな時代では、それは、時代傾向・環境(Y-3)となって「私」に関わってきています。クリスチャンは、地の塩・世の光として、周囲の社会に大きな影響・感化をもたらしてはいますが、同時に、彼らが生きている時代からの影響・感化を受けざるを得ません。現代に生きる私は、「私」の人格形成に際して、このポスト・モダンと言われる時代の影響を決して軽く見るわけにはゆかないのです。

. 以上を改めて整理しますと、以下のようになります。

.           時間的                 空間的          

.     X-1     「私」の過去          Y-1    家庭(家族)環境
.     X-2      家系(遺伝的)        Y-2    文化的環境
.     X-3     アダムの堕罪(SIN)     Y-3     時代的環境

. 旧来の聖化論では、上記の「X-3」を問題として、そのきよめ・解決を、全的聖化の瞬時的経験として説きました。そして、その後の、漸進的な聖化のプロセスにおいては、神的愛(アガペー)における成長、キリストの御像への同化という積極面があることを教えました。筆者が疑問に思い、問題提起し、また、筆者なりの教理整理を示したのが、前回の論集中の「蔦田二雄に聖化論を学んで」でした。漸進的な聖化のプロセスにおいて、それが「聖化」の一面とされるからには、アガペーにおける成長といった積極面だけでなく、消極面、きよめられるべき「あるもの」、或いは、「あること」が、ある筈ではないだろうかという疑問であり、その疑問への筆者なりの解答だったのです。

. きよめを必要とする要因は、以上に見、整理したように、アダム以来の霊的ダイメンションに関わる問題だけではなく、「私」の人格形成に関わる家族的、民族・文化的、時代的要因、「私」の過去(過去的)、家系(遺伝的要因)と、正に、複雑に入り組んで、「私」の罪への傾き易さ、それ故、きよめの必要を生み出しています。それは一様ではありません。少なくとも、上記の整理によると6つの要因が絡んできて、罪への傾き易さを作り出しているのです。しかも、これらの要因は、個々が独立して働きかけているのではなく、複雑に織り成されて、人格形成を、また、その人の持つ罪への傾き易さを生み出しています。霊的なダイメンションンにおけるアダム以来の「肉」・罪の性質の課題が、全ききよめの瞬時的経験において解決しても、なお、残る要因から来る課題があります、それらが、漸進的きよめの必要性を教え、それがどのような内容なのかを理解する助けとなります。

U 漸進的聖化の内実は:「人格の(偏向・歪みから)きよめ」

. 「人格」とは、その人そのものであり、広辞林 によると「道徳的行為の主体としての個人」です。また、この辞書は「人格(Personality)」を、人の性格とほぼ同意義と説明し、「特に、個人の統一的、継続的な特性の総体」を表すとしています。ある人は、「人格」は、遺伝的な要素が強い「気質」と環境的な要素が強い「性格」から成り立っている、としています。

. 人格の、また、心の健全さをどのように定義するかは、難しい問題ですが、ある心理学の分野では、その機能から、認知、感情、対人関係、衝動のコントロールという4点で判断します。完全に健全な人格は、まことの人であるキリスト・イエスにおいてのみ見出されます。キリスト以外の人間、アダムの末裔は、罪の影響の下、或いは、その支配の下にあって、だれであっても人格の偏向、人格の障害、更に、現代人の多くが、心の病いを持っています。

. 「心の病い」 、すなわち、綜合失調症、躁病、うつ病、神経症、心身症、幼児期精神障害、思春期精神障害、老年期精神障害、摂取障害、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などは、病いとして医学的な対応・治療が必要と考えられます。しかし、人は、複雑なもので、キリストを信じる信仰を持つことによって、うつ病の治療薬や医者通いから解放された証しを持っているクリスチャンがあることを知っていますし、三森加寿子氏 によると、心の病いに陥ったとき、クリスチャンであるがゆえに、信仰のない人々より回復も遅く、手こずる傾向性にあるようです。それは、信仰を持っているために、自分や家族に問題があり、悩んでいる事実を受け入れられないことがあるからだそうです。いずれにしても、心に病いがあると診断された時には、医学的な対応・治療が必要で、そのような問題は、通常の信仰によるきよめの対象から外して考えられるべきでしょう。こうした「心の病い」には、心の発達不全が土台にあって、その上に、両親との関係、トラウマなどの生育史上の問題、コンプレックス、人間関係のストレス、過労、睡眠不足などが加わった時に、発病するものと考えられています。現代のようなストレス社会においては、特に「うつ病」は、心の風邪とまで言われ、誰でも「うつ病」に陥る可能性を持っていると理解したほうがよいようです。

. 漸進的聖化の対象として考えられるのは、人格の偏向の課題です。更にそれが一層明確な「人格障害(Personality Disorder)」として判断された時は、どのように考えるべきなのか、筆者は現在結論を有しておりません。人格障害が、精神疾患への移行状態なのか、それとも、最近考えられているように、正常からの逸脱なのか、どちらと考えるかによって、対応は当然異なってくるでしょう。病的なものであれば、治療が優先することでしょうし、正常からのチョトした逸脱なら、漸進的聖化の対象として取り上げることは十分考えられます。著者は「人格障害」までゆかない、すべての人に認められる心の偏向・願わしくない傾向性を、漸進的聖化の対象、乃至、内容として、ここで取り上げています。

. 人格の偏りについて考察する際し、それより一層明瞭にそれぞれのタイプが現れている「人格障害」を見てみましょう。「人格障害」は、アメリカの精神医学会の診断基準 によって、3つのクラスター(グループ)の下に10のタイプに、以下のように整理されています。

. 第一クラスター @ 妄想性人格障害 ― 心から人を信じられない人
.           A 分裂病質人格障害 ― 親密な関係を求めない人
.           B 分裂病型人格障害 ― 常に内なる世界に生きている人

. 第二クラスター  C 反社会性人格障害 ― 悪を生き甲斐にする人
   .          D 境界性人格障害 ― 愛を貪り、今その瞬間に生きる人
.            E 演技性人格障害 ― 天性の誘惑者で、嘘つきな人
.            F 自己愛性人格障害 ― 賞賛だけを求める人

. 第三クラスター G 回避性人格障害 ― 失敗、傷つきを恐れる消極的な人
.           H 依存性人格障害 ― 他人任せの優柔不断な人
.           I 強迫性人格障害 ― 責任感、義務感の強い完ぺき主義の人

. ここには、各タイプの後に一言でその特徴が描かれています。これではあまりにも簡単過ぎますでしょう。それぞれのタイプに「診断基準」があって、幾つかある診断基準のうち、決められた数の特徴に合致すれば、そのタイプと診断されます。例えば「自己愛性人格障害」の場合、DSM-W(アメリカ精神医学会のマニュアル第4版、1994年、Diagnos-tic & Statistical Manual of Mental Disorders)の診断基準は、以下のようになっています。

     ・ 自分は、特別重要な人間だと思っている。
     ・ 限りない成功、権力、才能、美しさにとらわれていて、何でも出来る気になっている。
      ・ 自分が特別であり、独特であり、一部の地位の高い人たちにしか理解できないものだと信じている。
     ・ 過剰な賞賛を求める。
     ・ 特権意識を持っている。自分は当然優遇されるものだと信じている。
     ・ 自分の目的を達成するために、相手を不当に利用する。
     ・ 他人の気持ちや欲求を理解しようとせず、気づこうとしない。
     ・ 他人に嫉妬する。逆に他人が自分を妬んでいると思い込んでいる。
     ・ 尊大で傲慢な態度、行動をとる。

. 以上のうち、5つ以上があてはまると「自己愛性人格障害」が疑われます。

. もう一つのタイプ「依存性人格障害」の判断基準を転記しますと、以下のようです。

     ・ 普段のことを決めるにも、他人からの執拗なまでのアドバイスがないと駄目である。
     ・ 自分の生活でほとんど領域で、他人に責任をとってもらわないといけない。
     ・ 嫌われたり避けられたりするのが怖いため、他人の意見に反対することができない。
     ・ 自分自身から何かを計画したり、やったりすることができない。
     ・ 他人からの愛情を得るために嫌なことでも自分から進んでやる。
     ・ 自分自身は何もできないと思っているため、ちょっとでも独りになると不安になる。
     ・ 親密な関係が途切れた時、自分をかくまってくれる相手を必死に捜す。
     ・ 自分が世話をされず、見捨てられるのではないかという恐怖におびえている。

  以上8つのうち、5つ以上あてはまると「依存性人格障害」が疑われます。

. 他の8つのタイプの「人格障害」の診察基準に関しては記述を省略しますが、各類型毎の診断基準に加えて、「全般的診断基準」があって、それを満たさないと、人格障害があるとは言えないとされています。この「全般的診断基準」は、以下の6項目です。

     ・ 認知、感情、対人関係、衝動のコントロールのうち、二つ以上の問題がある。
     ・ その人格には、柔軟性がなく、が広範囲に見られる。
     ・ 自分が悩むか、社会を悩ましている。
     ・ 小児期、青年期から長期間続いている。
     ・ 精神疾患(綜合失調症、感情障害など)の症状ではない。
     ・ 薬物や一般的身体的疾患(脳器質性障害)によるものではない。

. 既に書きしるしましたが、「人格障害」を、以前のように精神疾患への中間状態、移行状態と考えるのか、或いは、最近言われるようになったように正常からの逸脱とするか、どのように考えるかによって、きよめの教理との関係づけが少し異なってきますでしょう。それで、今回は「人格障害」と診断されなくても、その前段階の、誰にでも認められる人格の偏向(Bias)を、漸進的聖化の対象として考えてみようと言うものです。すなわち、漸進的聖化において、きよめの対象となるのは「人格(その偏向)」に他ならないとするものです。私たちは、罪が人格を蝕んでいる現実に直面します。それは自分の性格だから、、、または、生まれつきだからと言い逃れて、性格の偏向・歪みを放置したままにしておいて、きよめを真実に求めていると言えますでしょうか。

V 人格形成・心の発育のプロセス―どのようにして人格の偏り、また、人格障害が生じるのか。

. 心の偏向が、どのようにして形作られてゆくのかを学ぶためには、心の発達・発育のプロセスを目に留める必要があります。心の発達不全が、精神科疾患を招く土壌となっているように、心の発達不全は心の傾向性にも深く関わって、偏向が生じる土壌となっていると言ってよいでしょう。心が健全に発達を遂げれば、歪みが生じる率は低くなります。

. さて、交流分析 によると、心は、「子どもの心」(C)、「親のこころ」(P)、そして「おとなの心」(A)と3種類の心から成り立っているとされています。子どもは、こどもですから、当然「子どもの心」(C)しか持っていません。これは自由な、従順な心です。子ども成長してゆき、広い周囲の社会との関わりが生じるにつれ、この「子どもの心」だけではやってゆけなくなります。「おとなの心」(A)を育てる必要があります。理知的に、また、正確に物事を判断することのできる心、それが「おとなの心」(A)です。しかし、子ども時代には、この「おとなの心」は未発達で機能していません。まだ、これからの長い成育のプロセスを通して身につけてゆくべきものです。子どもが周囲の社会と関わりを持ち始め、様々な判断を迫られる時、彼らは「おとなの心」の未発達な状態を補うために「親のこころ」―それは、厳しく規律を課する心と優しく育て養う心の両面を持っているとされています―を借りて、それを恰も、自分のものであるかのようにして生きていくのです。この「親のこころ」は、親の判断、考えを善いにつけ悪いにつけただコピーしたものです。「おとなの心」が育ち、形成されるにつれて、お役御免とならなければならないのですが、親の支配が極度に強かったり、その他の様々な情況から「おとなの心」が育たないまま、「親の心」で代用する状態が大人になっても続くのが「発達不全」の状態で、そのようなこころの状態では、「未発達なおとなの心」をはさんで、「子どもの心」と「親のこころ」の間で葛藤が生じます。「親のこころ」は、より優れた達成度を求めます。「子どもの心」は、それに応えようと努力しますが、その過度の期待に応えられない自分を見出し、絶えず責められている、叱責されているように感じて、ストレスを強めます。そして、そのストレスの程度によって、人格は歪みを受け、または、人格障害、更には、他の要因も加わって、精神疾患にまで到るとされています。人格の形成における親子関係は、どのような人格が形作られるかを決める、大変、大きな要因となっています。誰しも完全な親を持つ人はいないわけですので、私たちは、その程度に応じて、人格の偏向、人格障害、更には、心の病いを抱えることになるのです。

. 今回は、その最初の徴候、人格の偏向を漸進的聖化の対象として考え、整理しようと試みているわけですが、霊的な大人とは、丸屋真也氏 によれば、霊的、心理的、関係的、そして、経済的に「自立」した人とされています。「霊的大人になることは、狭い意味での霊的領域にとどまりません。」すなわち、全人格的な成長が必要であり、クリスチャンを多面的、綜合的に捉えて考える必要があるとされています。そこにきよめの課題の複雑さが生じる理由があります。人は単なる霊的存在ではなく、精神的、肉体的、そして、社会的存在でもあるのです。きよめも、単に霊的な問題としてだけではなく、心理的、社会的な課題を包含する複雑な問題として取り組まなければならないでしょう。

. 順調に生育した心の状態、人格の成長した状態に関しては、他の様々な観点から見ることが可能です。藤本満師は「アカウンタビリティー(説明能力)」 と言う概念で、それを説明しています。

結 論

. 「キリストが現れたのは、罪(複数で『諸々の罪』)を取り除くためでした」、「神の子が現れたのは悪魔の仕業を打ちこわすためでした」、と第一ヨハネの3章に書かれていますが、キリストがこの地上に来られ、一人の人として神の愛のうちに生きられたこと、特に、十字架の上で、その汚れのないいのちを、全人類の贖いとしてお与えになったことを考えるとき、様々な要因によってもたらされる私たち人間の「罪への傾き易さ」―それが、アダム以来の生来のものであれ、家系的・遺伝的なものであれ、民族的、文化的、時代的なものであれ、個人の過去に由来するものであれ、そのすべてがキリストの恩寵と結び付けられて解決に導かれてゆく、と考えることは妥当なことであると判断しています。ただ、すべてが一時に、信仰に立った瞬間に解決すると考えることは、聖書的観点(第一ヨハネ1:7、継続的きよめへの言及)からも、実際的視点からも、正しいとは言えません。

. それでは、人はいつ「きよめられた」と証しすることができますでしょうか。この質問に対する答えは、キリストに留まっている者なら「いつでもできる」であり、また同時に「いつまでもできない」という矛盾する二面性を持っています。コリントの教会のクリスチャンのように、教会に、そして、そこに属する信仰者に問題・課題があっても、彼らは「きよめられた者」とされているように、キリストに依り頼んで、過去の咎から彼らの良心が解放されたと言う初時的聖化と言う意味では、彼らは「きよめられ」ていたのです。どの意味できよめられたのかを明瞭にすれば「『この問題から』きよめられた」という証し・告白は、意味を持ちますでしょうし、そのように証しすることは間違いではありません。

. しかし、すべての「罪への傾き易さ」取り去られたと言う意味で、「きよめられた」ということは地上にあっては、恐らく不可能でしょう。それですから「全ききよめ」と言う表現は、誤解を招きやすいように思います。それで、最近のある学者は 「全ききよめ (Entire Sanctification)」に変えて「実効的なきよめ(Effective Sanctification)」と言う表現を当てているようです。

. 創世記2章7節によると、地のちりに神のいのちの息が吹き込まれて、人は活ける者になりました。人とは、物質的な構成要素と、神の息によって成り立っているものであって、その有機的な繋がりが、いのちをもたらしているのですから、霊、精神、肉体を切り離して考えるわけにはゆきません。心の病いが心身症として肉体に支障を来たすように、肉体の病いは心を暗くし、うつ症状のような沈みきった気持ちへと人を追いやります 。肉体と心は一体で切り離しては考えられません。それですから、肉体のうちにあって、この地上でのいのちの営みに関わっている以上、その時代、置かれている社会などから受ける「罪への傾き易さ」を完全に排除することはでません。「きよめられなければならない」人格の分野が、いつも付き纏ってきます。その意味において、人はいつまでも「きよめられていない」のです。

. 線が点の繋がりであるように、漸進的なきよめは、瞬時的なきよめの連続によって可能となります。アダム以来の生来の罪の性質のきよめ、個人としての、特定の過去から来る罪への傾き易さの解決などなど、それらは個々においては瞬時的でしょう。しかし、それらが繋がって初めて「漸進的」と表現されるのです。個々の経験としては、その人の経験が真正なものであるならば、その特定の「罪への傾き易さ」から「きよめられた」のであり、漸進面から見るならば、地上生涯が続く限り、いつまでも続き、終わることのない「きよめ」のプロセスがある、といえます。「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」(エペソ4章13節)には、まだまだ長い道程が必要です。しかし、私たちは希望を失ってはなりません。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、― 事実、いま私たちは神の子どもです。― 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。、、、愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対してこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。、、、キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなた方は知っています。キリストには何の罪もありません。」(第一ヨハネ3章1〜5節)。

■  神学小論文シリーズ:そのT

■  神学小論文シリーズ:そのU


.                                           聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


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