神学小論文集 ■ 「聖化の転機と人間性」 − 小論文三部作 


■  神学小論文シリーズ:そのU

「蔦田二雄に聖化論を学んで」

― 全き潔めの転機後の漸進的潔めについて ―

初 め に

. 与えられた題は「蔦田二雄に学ぶ聖化論」でした。同じ題が数人の教師にも課せられたことを知ったので、神学委員会の了解を得て、この小論は、敢えて「蔦田二雄に聖化論を学んで」としました。それは、単に「蔦田二雄の聖化論」紹介することに(それは他の教師がしてくださっているので)に止まらないで、その基礎の上に、更に聖化という主題を展開してみようと言う意図からです。さて、他の教師が纏めて紹介しているように、創設者・蔦田二雄の聖化論はバランスの取れたものでした 。そもそも、インマヌエル綜合伝道団の創設に当たって、蔦田二雄の心にあったことは、自らも属する戦前のホーリネス教会において見られたような「ホーリネスの転機」のみを重視のする教え、すなわち、偏ったきよめの宣証に対する反省、また、批判でした。蔦田二雄は、そのようなホーリネスを「踏襲的なホーリネス」と名付け、また、彼が捉え、宣証しようとしているホーリネスを「メソジスト的ホーリネス」と称して、「踏襲的ホーリネス」と言われるホーリネスの宣証とは一線を画しました。

. 「踏襲的」と言われるホーリネスの宣証の特徴は、ジョン・ウエスレーらの文献に触れることなしに、ただ踏襲的に、聖会などで恵みの座を開き、転機的なホーリネスの体験を迫るのみで、その後の日常的なホーリネスの歩みにおける留意点、メソジストとしての生き方に関し、あまり指導がなされていないことにある、と蔦田二雄は判断しました。このようなホーリネスの宣証の仕方に対して、他方「メソジスト的ホーリネス」の教えは、転機的経験を重視するとともに、その経験を維持するためにどのような心構え、また、日常の歩みをしたら良いのかと言う点に焦点を合わせて、ウエスレーに倣って、そこに指導の重点を置いたホーリネス宣証の姿勢を特徴としています。

. ここにおいて蔦田二雄は、ウエスレーに習って、転機的なホーリネスの体験を「『全的』ホーリネスの経験」、その後の日常的なホーリネスの歩みを「ホーリネスの歩み」として、前者に「全的」(Entire)との語を付すことによって両者を区別しました。そして、両者をバランスよく教えることにおいて、均衡の取れた全体像において描かれたホーリネスを、インマヌエルのホーリネス宣証の中心として、私たち次世代の者たちに遺しました。転機としての「全的ホーリネス」の強調は、メソジスト運動の特徴とするところでしたが、蔦田二雄は、その強調点のみに自らの教えを埋没させることを避けて、メソジスト運動のメソジスト運動たるゆえんを、原点に帰って強調したのです。

.  メソジスト運動とは、聖書に定められた「メソッズ(Methods)」に従って、その「メソッズ」を重んじて、きよめの生涯的な歩みを、熱心さと真面目さの中に追求してゆくことによって生み出された運動でした。ここに聖書に規定された「メソッズ」とは、一般に「恩寵の手段」と呼ばれる、クリスチャン生涯に成長するために、私たち信仰者が踏みゆくべき手段(ミーンズ・means)の総称であると理解されています。それは、集会出席、みことばへの真摯な取り組み、個人的・公的な祈りを重んじる生活など、ウエスレーによって「Institutional Means」(聖書に明記された手段))と呼ばれたものと共に、自らの霊的成長のために、それぞれが定めた手段、すなわち、ウエスレーの表現では「Prudential Means」(個人個人が定めた手段)を含むものです 。

.  さて筆者は、この「蔦田二雄に聖化論を学んで」と題する小論において、蔦田二雄が次世代の者たちに教え損なった事柄があるのではないかと言う視点から、蔦田二雄の聖化論にアプローチしてみたいと考えています。「教え損なった」と言う時、それは或いは、「教え損なった」ではなく、聞いた者が「捉ええ損なった」ものであるかもしれません。捉えられなかった故に「聞かなかった、教えられなかった」となるのかもしれないのです。

. 創設者・蔦田二雄から継承したIGMにおけるホーリネスの教えの特徴は、
 ・  先ず、ウエスレアン神学の特徴とする転機的な「全的ホーリネスの経験・体験」を重視することですが、
 ・  しかし、そこに終始しないで、その転機的な経験の前後の、殊に転機後の「ホーリネスの歩み・生涯」において、メソジズムの実践に生きるよう強調することにあることは、前述の通りです。

. この小論において筆者が提示したい論点は、この「生涯的なホーリネスの歩みが、蔦田二雄の聖化論において、聖化の一プロセスと位置づけられながら、そのプロセスにおいて、信仰者が何からきよめられ続けるのか、と言う点が明瞭に教えられなかったのではないかと言う点にあります。私たちが教えられたことは、転機的な全的ホーリネスの体験の後にあるものは「恩寵における成長」、特に「神的愛における成長」であり、「キリストの御像への変貌」であるとのことでした。そこにあるのは「成長」、「変貌」と言った積極面であると教えられてきました。
筆者が抱いた疑問は、正にこの点であって、この小論において展開しようとしている内容もこの点に関わっています。そもそも「きよめ」と言う用語は、基本的に、あることからの「きよめ」なのであって、何かが増し加わってゆく経験と言うよりは、何かが取り除かれてゆく経験を指しています。それでは、生涯的な「きよめ・ホーリネスの歩み」、すなわち、愛が増し加わり、キリストの御像に変容されてゆくプロセスにおいて、なにが「きよめ」られ、取り除かれてゆくのでしょうか。そのような面が、「生涯的なきよめの歩み」に伴っているのでしょうか、または、いないのでしょうか。それをこの小論において検証し、論じてゆきたいと思います。そうするにあたって、理解を深めるために、アダムの堕罪において何がおこったのか、また、私たちが罪を犯した時、何がそこに関わってくるのか、を考究することから始めます。

T アダムが罪を犯したことの私たちへの影響
   ― 「アダムの罪行の結果」 ― の考察

.   「全的ホーリネス」の問題は、正しくアダムの堕罪が人類にもたらした課題、すなわち、聖書の言う「肉」、「肉性」、「堕落した人間性」、「神から離反した人間存在」、など様々に言われていることと深く関わっています。アダムにおいて、その堕罪の際に何が生じたかを正確に捉えることが、「全的きよめ」の経験、また、「生涯的なホーリネ」の歩みの理解において不可欠なのです。

A  人が罪を犯すとその責任を問われます(罪行への意識と罪科)

. 「人は道徳的存在である」ということの意味は「自分の行為に対して責任ある存在である」ということです。そして、人の持つこの倫理性こそが、人(アダム)が神の似像に創造されたということの基本的な一面だと理解できます。人が自由な意志を持った崇高な存在であるということは、人はその自由な選択の結果に対して、責任ある存在であることが意味されています。

. 神が人を「ご自身のかたちに創造された」ということは、ウエスレーなどの神学者によって、以下三つの内容を有しているものと理解されています。すなわち、人が似せて創造された神ご自身の像とは、

・ 第一に、神に似た「人格的像」であり、
・ 第二に、神に似た「道徳的像」、
・ そして、第三に、神に似た「政治的像」とされているのです。

. その詳細な説明は、他のところに委ねるとして、「神の似像」の内容のひとつに、先に記した人の「自由と責任」、「道徳性・倫理性」が含まれていることは確かでしょう。

. アダムとエバが神の戒めにそむいた後、「そよ風の吹くころ」、彼らが「神である主の声を聞いた」時、「人とその妻は、神である主の御顔を」「恐れて」、神を「避けて園の木の間に身を隠し」たのです(創世記3:8―10)。アダムとエバは罪の咎め、罪責を意識したので、そうしたのです。しかし、神である主は、アダムとエバをエデンの園から追放するにあたって「皮の衣を作り、彼らに着せてくださ」ったとあります(創世記3:21)。ここに神の「赦し」のシンボル的な行為が見られます。「罪責」、「咎め」の解決は、「赦し」、「赦免」にあります。「責任を問われないで済む」という解放感が「赦された。」という意識の根底にあるのです。

. 聖書で単に「罪」と言われている個所で、赦しが宣言されている個所では、そこで言及されている「罪」とは、この「罪責」、「罪の咎め」のことで、赦されるのは罪の行為の結果としての「罪責」、「罪の咎め」です。罪の行為そのものではなく、犯されたその過ち・悪に対して、そこに生じた「その罪への責任意識」に関わることなのです。

. ここまではアダムの彼自身の罪に対する責任に関することです。しかし、アダムの場合、アダムが人類の祖先として保っていた立場のゆえに、私たち個人が罪を犯した時とは異なった事態が生じました。すなわち、アダムの罪の咎はアダムのみの罪責に止まらないで、彼のすべての子孫は、アダムに在ってアダムと共に、神へのそむきの罪を犯したとされたのです。聖書は「一つの違反によって『すべての人が罪に定められた』、、、」と言っています(ローマ 5:18)。国家元首による宣戦布告は、戦争に国民全体を巻き込みます。そして、敗戦は国家元首のみのものではなく、その責任が国民ひとりびとりに負わされるものとなるように、人類の祖としてのアダムのそむきの罪は、人類全体にその責任が問われました。すべての人はアダムの違反によって罪に定められたのです 。ここに「原罪」が生じました。この背後には人類の一体性(Solidarity)という概念があります。このアダムの違反行為の結果としての、私たちアダムの子孫に負わされた罪の咎めへの解決が、どのようになされたかは後で見ることにして、先に進むこととします。

B さて、人が罪を犯した時、そこに生じてくるのは「罪責・咎め」だけではありません。

. アダムの子孫には、「罪の性質」、「道徳的腐敗性」、「肉」、「生まれつきの罪への傾き(易さ)」など様々に表現されている「罪(Sin)―単数」が、神の似像の一部である聖と義といった「道徳的似像」に代わって、人間の存在そのものに付随するようになりました。そして、この罪の性質はアダムの堕罪以降、アダムの子孫にとってあたかも「人間性」の一部のようになったのです。ここに、この道徳的腐敗性は、創造の時点での当初の「人間性」には見られなかったものであることを認識しておくことが大切でしょう。

. ある註解者は、創世記5章3節の「アダムは、、、、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。」という叙述に、人類にとって、聖と義という神のかたちに代わって、罪の性質、罪への傾き易さがアダムから受け継ぐところとなったことへの暗示があるとしています。ダビデの有名な詩篇51篇には「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(5節)という告白が見出されます。これはまさしく、生まれつきの罪性に関わる言及とされています。それより以前には、ノアの時代に人類がどのような様子だったかを描いた「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」という聖句(創世記六・5)があり、これが人の心に始まった「道徳的腐敗性」への証しであるとされています。

. 人は、第二の意味でも「生まれながらの罪人」となりました。人は、罪を犯さざるを得ない存在としてこの世に生を受けているのです。これは「道徳的腐敗性」と呼ばれていますが、この腐敗性は、人類の久しい罪の歴史によって、益々邪悪なものとなっています。まさに「腐敗性」なのです。時の経過とともに益々悪化して行きます。これが人格のあらゆる面―知情意―に働きかけて、人の知性を暗くし、情緒を倒錯させ、その意志を奴隷としているのです。堕罪以降の人に関して、聖書は明らかに性善説を否定し、「性悪説」の立場を取っていると言えましょう。堕罪以前の人類に関しては「性善説」が正しいでしょう。

C 更に、アダムが被造物の首(かしら)であった事実から、造られた世界のすべては、アダムの罪の結果として、創造の本来の姿から逸脱し、歪みを生じて来ています。

. パウロが、ローマ人への手紙8章に「被造物が虚無に服した」、「被造物自体も、滅びの束縛」の下にあって「被造物全体が今に至るまで、ともにうめ」いている、と書いている通りです (20―22節)。

. アダムとエバが罪に陥った時、神は、彼らに対する裁きとして、アダムには労苦して日常の糧を得ること、エバには出産に際しても痛み・苦しみを宣告されました。これは正にそむきの罪に対する審判であるとともに、アダムとエバの心霊のレベルで起こったそむきの罪の必然的な結果であるとも言えます。被造物のかしらであるアダムの堕罪は、当然、被造物の世界に大きな変化をもたらしました。パウロの表現を用いれば、「被造物は虚無に服した」ので。創造された物質世界は「滅びの束縛」の下に置かれてしまったのです。

. そのような訳で、私たちの肉体そのものは「悪」ではありませんが、「虚無に服した」被造物の一部として、アダムの堕罪からくる損傷を著しく受けています。すなわち、心霊的な道徳的腐敗性に加えて、いわゆる肉体的・環境的「一般的腐敗性」の下にあります。それは人の心理的な面を含めた肉体に纏わる「弱さ」となって、諸々の現われ方をしていると考えられます。記憶力の悪さ、判断力の弱さ、道徳的な罪を他にした諸々の人間的と言われる症状・現象がそれです。それは多岐に亘っていて数も種類も多く、ここにそのリストを記載するわけにはゆきません。

D アダムが行った罪の行為の結果、その罪行ゆえの私たちへの影響は、以上のように、三点に纏められるでしょう。すなわち、

1 「罪行への責任(咎め)」、
2 「道徳的腐敗性」(肉の性質、罪への傾き易さ)、
3 そして「一般的腐敗性」(堕罪後の人間の心理的・肉体的「弱さ」)

です。

U  私たち個々の罪の結果

. さて、私たち、すべてのアダムの子孫が罪の行為に陥る時、アダムにおいて起こったと(完全に同じでないにしても)同様な結果が生じると考えられます。そこで、それらを考察してみましょう。

A ただ、その考察の前に、ひとつ考えるべきことがあります。アダムと私たち・その子孫との相違です。

. アダムの場合、彼は自由な道徳的存在でした。神である主が、アダムをその似像に創造された時、アダムには罪の性質はなく、彼は自由な道徳的存在として創造された。彼は、罪を犯す可能性は持っていても、罪を犯す必要性はありませんでした。アダムは、サタンの誘惑に打ち勝ち得たのです。
しかし、私たちの場合、私たちは生まれながら罪の支配の下にある者で、罪を犯す必要性はないかもしれませんが、生まれつきの罪への傾き易さを持っています。アダム同様、道徳的存在ではあっても、私たちは「自由な」道徳的存在ではなく、生まれながらの罪の奴隷であって「肉」なる者です。生まれつきのままでは、罪の誘惑に打ち勝つことは不可能なのです。生まれつき「罪を犯す者」、常に「罪に傾いてゆく存在」なのです。また、エデンの園という環境と、腐敗した「曲がった時代」、「邪悪な世」という私たちの住んでいる環境とでは、罪との戦いにおいて、大きな違いがあるでしょう。取り巻く環境も、罪の行為への傾きを大にしています。

. いづれにしても私たちが罪を犯すとき、どのような結果が生じるのでしょうか。第一(T アダムが罪を犯したことの私たちへの影響)の区分で説明されたことに従って、それに倣って考えてみましょう。

B 先ず、犯した罪の行為に対する私たち自身の責任―「罪責・罪の咎め」が考えられます。

. 幼児は、ある年齢に達するまでは、善悪の判断ができません。ですから、その「責任を取ることのできる年齢」(The Age of Accountability)に達するまでは、倫理的な存在としては「完成された人」とはみなされません。彼らは「幼児」なのです。何歳で「責任を取ることのできる年齢」に達するのかは、個人差があって、正確にそれを判断できるのは神のみでしょう。私たちウエスレアン神学の立場に立つ者は、幼子がその年齢に達する前に、死をみるようなことがあった場合、その幼子は直ちに天国に迎えられると考えています。自分の行為に責任を取ることができないからです。また、知的・精神的障害を持った人の場合、「責任を取ることのできる年齢」に達していても(更に、成人の年齢に達していても)彼らに責任を問うことはできないと判断しています。更に、この高齢化社会を迎えて、ある年齢を越えてからは、老人性痴呆などの場合のように自分の行為に責任を取ることができない年齢というのを考えるべきと思います。以前は聖徒と言われた人々が、老齢のゆえに、人々が疑問とし、躓きを感じるような言行に走ることが考え得るのではないでしょうか。なお、この点は更なる検討を必要としているでしょう。

. こうした例外的な幾つかのケースを除いた場合、一般的には、すべての人がその罪の行為の責任を問われ、その意識が「罪の咎め」、「罪責」として認識されます。このように、罪を犯した時、その間違った行為・悪の行為に対して責任があることを意識することが、「罪責がある」、「咎めがある」を認めることなのです。責任意識、すなわち「咎め」があることを知っているゆえに、その罪に対する刑罰を恐れるのです。

. 良心の働き、さらには、聖霊の働きがここに関わっていると考えられます。

C 第二に、罪の行為は、罪の咎めとして結果するだけでなく、アダムの罪(行)が、罪の性質をその子孫に残したように、私たちの罪(行)も、私たちにその痕跡を自らの性格・自らの生涯の上に残します。

. 罪が一回限りに犯されたのであるなら、その罪の咎に対して、神の赦しが宣告されれば(それでも罪の結果として、悪しきことどもは、なお影響を及ぼしつづけるとしても)、その罪の問題は、責任という観点からは解決します。赦しの宣告の後には、責任を最早問われません。
しかし、問題は特定の罪(行)が重ねて犯され続けると、罪の行為は罪の習慣となり、やがて、罪の習慣はその人特有の「罪の性向」となってゆくことです。この繰り返された個人的な罪の行為の結果としての特定の罪への傾き易さを、アダムの堕罪以来の「道徳的腐敗性」、「生まれつきの罪への傾き易さ」と区別して、その上に加わったものとしての「習得された罪への傾き易さ」と、神学的には呼ぶのです。この「習得された罪への傾き易さ」は、個人的に取得したものですから、当然、個人個人でその傾向性が異なります。ある人は金銭問題で躓き、ある人は性欲の奴隷となって失敗します。ある人は名誉欲・権力欲に勝つことができないで、それがその人の道徳的弱さとなって現れます。誠に個々様々なのです。

D  第三、そして、最後に、アダムの堕罪の結果として、被造物全体が影響を受け、被造物のすべてがその「滅びの束縛」の下に置かれていますことと関連して:

. 人は被造物の一部として、肉体に(心理面を含めて)その「一般的腐敗性」の影響を受けているように、私たちが犯した罪の行為の結果は、私が自覚する罪の咎め、また、個々人に特有な特定の罪への傾き易さ(「習得された腐敗性」)として残るのみか、多くの場合、周囲の人々の生涯にその「罪の傷」を与えます。そして、それは、私の側からみれば、周囲の人々の罪ゆえに、私の心に傷を受けていることがあります。そしてこの傷は、しばしば、恨み、憤り、憎しみなどの罪への傾き易さとなって、癒されないまま私の心に留まっています。幼児として虐待された経験を持つ人々の悩むトラウマ、社会的な環境に深く関わって形成される人種、性、その他の要因ゆえの様々なその他の偏見などを、この範疇と考えることができるでしょう。

E  このようにして考えると、アダムの堕罪の結果、私たちに及んだ罪の課題が三つ、そして、私たち個人個人が犯した罪の行為の結果として、私たちに生じた罪の課題が、更に三つ。

. 大まかに区分しただけでも、ここに、少なくとも六つの罪の行為がもたらす結果が生じてきています。

V こうした罪の結果すべてへの解決策・治癒策=聖霊によるきよめ・ホーリネス

A アダムの罪行の結果としての罪責・咎めの解決は、キリストの十字架において、すべての人のためになされたものと考えられます。

. アダムが、主である神の戒めに背いた時、すべての人は、アダム(の腰)に在って、彼らも罪を犯したとされているのです。それ故、すべての人が、アダムの反逆、そして、そのそむきの罪の責任を問われることは既に見ました。生まれた時から、すべての人は、この意味で、咎ある存在・罪人なのです。

. このアダムの罪ゆえの「罪責」は、キリストの十字架によって、すべての人から取り除かれたと考えても良いでしょう。ローマ・カトリック教会などでは、(幼児)洗礼とこの赦し・解決を結び付けています。しかし、救われる以前から、また、その証しとして洗礼を受ける前から、すべての人は既に神の恩寵の下にあると考えるのが妥当でしょう。これがウエスレアン神学における「先行的恩寵」の概念なのです。

B 私の罪行の結果としての私個人の罪責・咎めの解決は、同じく十字架によります。
. ただ、前者との違いは、前者が無自覚的に、キリストの十字架においてなされたのに対して、この個人的な罪の咎めへの解決は、個人的な悔い改めとキリストに対する信仰に応じての罪の赦し、すなわち、義認にあります。十字架の贖いに基づいて、主である神が個人的に「赦し」の宣告をあたえることによって、その解決がもたらされるのです。

. ここに、赦されるのは「罪責」、「罪の咎め」であって、その責任意識から解放されることが「赦しの自覚」です。罪の行為そのものは、赦されても消えようがないのです。赦しの経験の後にも、その罪の行為の悪影響が続いてゆくことがあるのはそのためです。主である神は、私たちの過去の罪を忘れ去ってくださいますが(イザヤ四三・25、エレミヤ三一・34、ミカ書七・19)、「罪の行為」そのものは赦されることはありません。「犯した罪の行為」そのものが赦されるのではなく、それは神に忘れて頂くのです。

. しかし、私たち人間はしばしば過去の罪行を記憶していて、赦されたにも拘わらず、その記憶に心を痛めることがあり得ます。パウロは自分が以前、迫害する者であったことを決して忘れませんでした。しかも、その迫害の程度は、パウロのことばをそのまま用いれば「国外の町々にまで」(使徒 二六・11)、そして「男も女も縛って牢に投じ、死にまで至らせた」(使徒 二二・4)ほどでした。

. ただ、この罪の記憶ゆえの心の痛みと良心の呵責とは区別されるべきもので、前者は、記憶として残っていても、それが赦されたという自覚とともにあります。そして、申し訳なかったという意識はあっても、それゆえに断罪に値するという意識は伴いません。罪の咎に関しては、キリストが十字架で代わりに負ってくださったことを信仰によって頷いているからです。記憶が蘇ってくるとともに生じうるサタンの攻撃に対しては、ただ十字架を見上げて、その度ごとに信仰によって戦う必要があります。

C 私たちの罪行によって形成された罪の習慣の解決は、新生・初時的聖化の経験にあります。

. すなわち、この問題の解決は「新生」において与えられた御霊のいのちにあるのです。この上からのいのち、神のいのちが、私たちを支え、過去の罪の習慣から私たちを解き放ち、勝利を与えてくれるのです。これは初時的聖化と関係しています。

. クリスチャン生涯は、信仰に立ちつづける限り、凱旋的であり得ます。神の子は、それゆえ「罪を犯しません。」(第一ヨハネ 三・6)。その力あるお方に依り頼んで罪の誘惑と戦うからです。また「罪を犯すこと」は、能力的にはできても、道徳的には「罪を犯すことはできません。」(第一ヨハネ三・9)。罪を憎まれる聖い神を愛するからです。

. 第一の転機後のクリスチャンとしての歩みの中で、回心の後に聖霊によって示された罪、すなわち、新生の経験以前には、気付かなかった罪の行為・罪の習慣を意識することがあり得ます。それに対しては、同じキリストに依り頼む信仰、信仰者としての悔改め、そして、光に歩むことによって、とされています。

D 第二の転機としての全的聖化の経験は、アダムの罪行によって人の心に巣食うようになった罪の性質の解決をもたらします。

. 恩寵の第一の経験は、罪の性質・「肉なるもの」の解決をもたらしません。ここに

. 恩寵の第二の御業としての「全き聖潔」の必要性があります。これは、信仰と全き献身によって私たちの経験となるのです。これが信仰によって瞬時的になされるみ業であることは、この全的潔めの対象が、個々の罪の表れではなく「罪の性質・罪への傾き易さ」として単一なものであるという事実から、当然のことと考えられるでしょう。

. また、ここに「全的、全き」といった形容詞が使用されていますが、「クリスチャンの完全」という用語における「完全」同様に、ことばの矛盾かもしれませんが、限定的な「完全」、「全的、全き」であることに注意しなければなりません。全的聖化の経験は、潔めの課程の中で、最終的な到達点では未だないからです。それが「全的、全き」とされるのは、アダム以来の「罪の咎め」、そして、「罪の性質」の両方が、ここにおいて解決された、という意味での「全的、全き」であって、その後にも、私たち個人個人の過去との関わり合いにおける罪の課題、そして、それへの取り組み・解決の必要がなお残っています。

E 周囲の人々の罪によって私が受けた罪の傷跡の解決 は、第二の転機後の、歩みの中で、信仰と光に歩むことによってなされてゆきます。

. 筆者の視点から見れば、この周囲の人々による罪(行)の、私側では受動的ともいえるもろもろの結果、すなわち、「罪の傷跡」と表現される課題も、きよめの対象として考えることが必要ではないかと考えています。何故なら、私たちの人格形成は、能動的な面と受動的な面の双方があって、受動的なものも決して、その影響が小さくないからです。幼児期に蒙った痛手によって生じたトラウマ、社会的に形成された種々の偏見など、私たちの取り組むべき潔めの課題は、なお多いでしょう。この小論は、正しく、この課題へのひとつのアプローチを示すものです。

. この面での潔めは、生涯的な漸進的聖化によって扱われる分野と目されます。Tヨハネ一・7に記されているように「光の中を歩む」ことが、潔めの信仰を裏打ちする条件です。こうした問題も、単に心理療法による解決のみではなく(そうした医学的・心理学的療法の必要なり効果を否定する必要はないが)、キリストにある恵みの故に信仰によって取り組み、そして、克服することができる課題と考えます。すなわち、キリストへの信仰が、そして、信仰に基づいて与えられる十分な恵みが、具体的な問題との関係において、どのように機能するかが問われているのです。

. この問題の解決を、漸進的(継続的)聖化に結び付けましたが、それは、新生や全的聖化の転機的経験によっては、解決できなかった問題に関して、ということであって、この「罪の傷跡」の解決は、その人の信仰がどのように具体的な問題との関わり合いで、機能するかに掛かっていると言えましょう。こうした問題の解決は、全的聖化の転機的経験後にまで、引き伸ばす必要は毛頭ないと考えています。ただ、現実の問題として、こうした堕落ゆえの歪んだ人間的な側面は、罪(責)の赦しによっても、罪の性質(「肉」)の全き聖潔によっても、場合によっては解決しないという状況を踏まえて、その未解決の課題との取り組みが、漸進的聖化の過程でなされるものとしているのです。それはいわば人生という神による訓練の長い、時として、苦しみを伴った過程を通して取り組まれるべき問題・課題と理解されるでしょう。それゆえ、その解決は「漸進的聖化」の過程にあるとされます(へブル一二・1―13)。

. 「きよめられました」と言って、証しする場合、広義の「きよめ」は生涯的であって、信仰生涯の全期間にわたって継続的になされてゆくものなので、何から「きよめられた」かを明確にして、証しする必要があります。あることから「きよめられても」、他の課題が、なお依然として残っていて、信仰者に挑戦してくることがあるからです。

   F アダム、そして、私たちの罪の影響・結果のすべての最終的な解決の時がやがて訪れます。

. しかし、それは私たちの地上生涯の間にではないでしょう。「一般的腐敗性(弱さ)」の完全な解決は地上では望めません。なぜなら、それは肉体と関わっていて、肉体のある限り、その課題はなくならないからです。勿論、その一部は、人格的に成長し、自らを律することができるようになる時、幾分かは克服できるようになるでしょう。しかし、その全面的な解決は、個人的としては、からだの復活、また、栄化によってであると判断されます。それまではキリストに留まり続けることによって、私たちはその恵みのみ業に与ることができるのです。

. 被造物全体としては、神の国(新天・新地)の完全な到来によって、すべての罪の課題が完全な解決を見ます。すなわち、キリストによる贖いの完成がここにあります。このように、キリストの十字架による贖いは、主である神の定めた条件が正しく満たされるとき、神ご自身が定めた方法、また、順序に従って、アダムの、そして、私たちの、罪がもたらしたすべての課題、その影響のすべてに、完全にして十分な解決を与えるものなのです。

締 括 り

. きよめ、また、ホーリネスの生涯的な歩み・プロセスの中で経験することの出来るきよめの分野は、単なる神的愛における成長、キリストの御像への変貌といった積極面のみではなく、「きよめ」と言われるからには、消極的な面も伴っていることでしょう。その消極的な面とは、個々人の罪の行為から生じた取得的な罪への傾き(「取得的罪性」)、特に、その傾きが、受身的に、トラウマなどとして形成された場合の、恨みや怒りなどの、ある特定の罪への傾向性に関わることと考えられませんでしょうか。生涯的なきよめのプロセスにおいて、聖霊の干渉とみ助けによって、また、私たち・人間側からするならば、信仰によって、個々のそうした傾向性を乗り越え、克服してゆく課程が「漸進的なきよめ」の内容と考えられるでしょう。

. また、この罪の世にあって生きるに際して、避けることのできない罪の世の影響・感化を、どれだけ排除しながら、神の子、神の国の市民としての、輝いた生活を送れるかに掛かっています。この邪な、そして、曲がったと言われるこの世の影響・感化を排除・拒否してゆくプロセスが「漸進的きよめ」の内容でもあると考えます。

■  神学小論文シリーズ:そのT

■  神学小論文シリーズ:そのV


.                                           聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


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