神学小論文集 ■ 「聖化の転機と人間性」 − 小論文三部作 


■  神学小論文シリーズ:そのT

「潔めと瞬時性」

― 全き潔めの転機について ―

.        序 論:

.           A 人間の一生における転機と過程
.           B ウエスレーの生涯における転機と過程
.           C 潔めの経験における転機と過程
.           D 「第二の」転機としての全き潔め

        T、全き潔めの経験は「転機的」であること

.           A  生来の道徳的腐敗性・罪への傾きとその解決の必要
.           B 恩寵の第一の御業:回心(義認、新生、子とされること、初時的聖化)経験
.           C ギリシャ語文法におけるアオリスト時制の意義:
.            特に、現在時制からの切り替えの意味するところ
.           D 論理的必然性
.              1 全き潔めの対象―罪への傾向性、神への反逆そのもの
.              2 全き潔めの主導者―聖霊なる神ご自身
.              3 全き潔めの手段―全き献身を伴った信仰
.              4 全き潔めの基礎―キリストの血潮
.           E ウエスレーの実践的観察―「今、今!」

        U、全き潔めの経験は「第二」の転機的経験であること

.           A なぜ「第三、第四の転機」を語らないのか:「御父の約束」他
.           B  聖霊が「与えられる」という表現の意味
.           C  ペンテコステにおける聖霊の傾注:ユニークな、それでありながら、繰り返され得る出来事として
.           D  コリントの信仰者たち:立場と経験、神学と生活、理想と現実
.           E  エペソ人への手紙5章18節の命令
.           F  二種類の罪
.           G  潔めの転機を「肉体死」と結びつける立場の誤謬

        V、全き潔めの転機に関する問題点―転機後の罪への傾向性との取り組み

.           A  全き潔めの転機後に自覚する「罪への傾き」
.           B  罪の腐敗性・罪への傾きの分析
.              1 生来の道徳的腐敗性:アダムの堕罪以来の神への反逆
.              2 一般的(非倫理的)腐敗性:人間性にまつわる諸々の弱さ
.              3 習得された罪への傾き・腐敗性:肉体的、複合的
.           C  習得された罪への傾きの解決は、初時的聖化の時点では、部分的で、その後は、段階的に
.           D  いくつかの聖句から:特に「清める・ハグニゾー(Gr.)」の用法
.           E  カルビン神学
.              1 その誤謬―混同、分析の欠如
.              2 そのレッスンー恵みによる勝利の可能性

        W、全き潔めに関する聖書箇所の釈義

.           A  聖書全体の教え
.           B  エペソ人への手紙5章25-27節、テトスへの手紙3章 5,6節
.           C  ローマ人への手紙六−八章の釈義の必要

        結 論:

.           A  全的聖化とは、キリストの贖いの血潮の功績に基づいて、聖霊なる神が、すべてを捧げ、信じた者の心中に成就してくださるみ業で
             あって、恩寵の第一のみ業に次ぐ、第二の恩寵のみ業、また、瞬時的なみ業である。それによって、捧げ信じた者は、
             人間的弱さを残したままで、その心中から「生来の罪への傾向性」・神への反逆が除き去られ、神と人とを全心全霊をもって
             愛するようになる。この聖霊の実として与えられた愛は、クリスチャンの服従の度合いによって、益々成長し拡大してゆく。
             全き潔めの瞬時的経験は、その後のキリストのみかたちに達するまでの愛における成長の可能性を排除しないのみか、
             それをむしろ促進するものである。
.           B 現代におけるキリスト教批判の鉾先

「潔めと瞬時性」
―全き潔めの転機について―
1999/08/07

序 論:

. 地上における人の一生は、誕生と死という二つの転機を結ぶ過程の中でのドラマである。そして、人生には誕生と死という大きな転機の他に、大小さまざまな転機が存在していて、それらの転機を結んで、これまた長短様々な期間があり、そこでの成長のプロセス、時に、後退・退化と言えるプロセスが存在している。様々な経験、殊に人との出逢い、また、読書を通してのある思想との出合いなどは転機的な出来事である。そして、それらの転機的と言える出合いを通して、人は、ある期間に亘っての変容の過程を通過してゆく。

. 聖書的な全き潔めの教えをキリスト教会に新しく甦らせ、それをメソジスト運動の中心的なメッセージ、実践における教会のいのちとして位置づけた18世紀のジョン・ウエスレー(WORKS―[・299)の生涯にも、そのような転機と、その間の変化のプロセスを見て取ることができる。ウエスレーは、書物・思想とのそのような転機的な出合いを、その著書「キリスト者の完全」の中に証ししている。すなわち、あのオックスフォード時代のジェレミー・テイラー、トーマス・ア・ケンピス、そして、ウイリアム・ロウの書物との転機的な出合いを通して(ウエスレー&フレッチャー・3、4)、彼の生涯は、意図の純潔、内なる宗教、全的献身など全き潔めの中核をなす経験の生涯的追求へと導かれていった。ある思想との決定的な出合が、後年の様々に展開してゆく過程の出発点となっている。ウエスレーにとって、また、私たちひとりびとりにとって、人生とは、ある決定的な変革をもたらす転機とその前後に存在する、時に急激、時に緩慢な様々な変化の過程が織りなすものである。この転機と過程の関係は、ミクロの世界における素粒子相互の関係とそれによって構成されている物質の外見とも類似している。

. こうして、私たちの人生、また、経験のパターンを考察するとき、ウエスレーが聖書に従って、潔めを転機と過程の組み合わせ(ウエスレー&フレッチャー・34)と理解したのも十分頷けることである。ウエスレーによると、潔めは、義認・新生の瞬間に初時的聖化として、私たちの心中に始まり、全き聖化の転機までの過程を辿る。そして、全き潔めの転機的経験を経て、更にその後の全き愛の生涯における成長の過程が続き、やがて聖なる父の御前に立つに相応しく備えられて、肉体死の瞬間を迎えるまで「キリストの満ち満ちた身たけ」に向けての成長・成熟の過程が続く。

. 問題は「潔めの瞬時性」(与えられた題は「潔めと瞬時性」となっていたが、より厳密には「全き潔めの経験の瞬時性」を論じるものである。神学的に「潔め」と「全き潔め」との表現には明らかな区別がある。)を宣証することの妥当性ではなく、それが何故、ウエスレアン・サークルでは「第二の転機」としてのみ宣証され、それに次ぐ第三、第四の転機が主張されないのかとの点に多く存する。一方に全的聖化の第二の転機を否定する神学的立場があれば、他方には、第二の転機のみか、第三、第四、、、と更なる体験を求めてゆくグループがある。その後者としてカリスマ派の人々に関して以下のように言われている(マッカサーJr.・241)。「多くのカリスマ派は、一度聖霊のバプテスマを受ければ霊性は自分のものだと言う。不幸なことに、そうはいかない。一つの体験の輝きが失せると、次々に別のものを見つけようとする。二度目の栄光の業が十分でないと分かると、第三、第四、第五等などが必要となる。もっと何かを探す努力をして、カリスマ派は意識せず、しばしば聖書と真の霊性への道を捨て、体験の道を誤ったまま際限なく落ちてゆくことになる。」

T  全き潔めの経験は「転機的」であること:

. 提起された問題に戻って、先ず、全き聖化の経験の転機性・瞬時性を検討してゆこう。ここに全的聖化の経験とは、新生した神の子らのうちになお残存している生来の罪への傾向性が取り除かれること、即ち、神への反逆が砕かれ、彼らが全身全霊をもって創造主であり、贖い主である神を愛するようにされるクリスチャンにとっての第二の瞬時的経験を意味する。新生した神の子らのうちに、なおこの生来の罪への傾向性・道徳的腐敗性が存在していることに関しては、多くの教会の間に深い一致があって論争点とはならない。

. この全的聖化の経験を正しく理解するために、その前提として恩寵の第一のみ業について簡単に論述する必要があろう。それは包括的な表現では「回心」と呼ばれる。それは罪人の心と生涯になされる神による変革のみ業で、それには「義認」、「新生」、「子とされること」、そして、「初時的聖化」などの面が含まれる。これらはことごとく転機的な経験である。このうち「新生」と「初時的聖書化」とが全き潔めの瞬時的経験と密接に関わっているので、説明が必要であろう。「義認」、「子とされること」に関しては説明を省略する。

. 「新生」は「義認」と同時的であるが、罪に死んだ人の実質的な変化で、御子を信じることによって「永遠のいのち・御霊のいのちが、信じる者のの心中にもたらされること」を意味する。御子を信じ受け入れた人々は、御子にあって「新しく生まれた」のである。「ビオス(Gr.)」のいのちとともに、「ゾーエー(Gr.)」のいのちを持ったのである。永遠のいのちは死後のいのちではなく、肉体のいのちとは質、または、次元の異なったいのちなのである。信じる者は肉体のいのちと共にこの類の霊的ないのちを持つ。それがクリスチャンであることの証しである。

. 「初時的聖化」は、罪の咎めを道徳的な汚れとして見、罪の赦しの経験、罪の咎めからの釈放を「聖化」という観点から描くものである。また、新生の瞬間に「罪を犯すことからの釈放、罪の力を打ち破ること、潔め、または、完全の開始がある。この最後のものを正しく初時的として区分できよう。」(コックス・119)  それが全うされるために、後のある一瞬を期するということにおいて、この初時的聖化は、部分的な御業である。この点は、後に再度取り上げて論じる。

. こうした面を有した恩寵の第一の御業・「回心」の転機的経験の後にも、信仰者の心には依然として生来の罪への傾向性、道徳的腐敗性が残存している。それで、この問題の解決と取り組むのが「全的聖化」の中心課題である。

. 全き潔めの経験の瞬時性に関しては、しばしば、きよめ派と呼ばれる陣営から、ギリシャ語のアオリスト時制の意義が指摘されてきた(Steel・44以下)。現在時制が継続・習慣・反復を表す時制なら、不定過去時制は転機・瞬時を表す時制である。さて、アオリストの転機表現には三つの用法があるとされる(Grider・395)。すなわち、開始の時点を言い表すアオリスト(The Ingressive or Inceptive Aorist)、完成の時点を言い表すアオリスト(The Effective Aor.)、そして、ある出来事、行動を一括して言い表すアオリスト(The Constantive Aor.)の用法である。「食べる」という行動を描写するとき、食べ始めの瞬間があり、食べ終える瞬間がある。それと共に、第三のアオリストの用法は、食べ始めから食べ終わりまでの行動を一括して「食べた」としてアオリストで表現する用法である。アオリストでありながら、そこには時間の経過が含まれている。しかし、これも終焉、完了の瞬間があってこそ、時間の経緯を含む一つの行動をアオリストで表現するのであってみれば、アオリストの意義が示す全き潔めの転機の瞬時性への証言の力は薄れることはない。殊にテサロニケ人への第一の手紙五章のような文脈において、それまで継続的・常住的な行為を表すため、現在形の動詞が使用されていたのに(五・16-22)、潔めを表す動詞「ハギアゾー(Gr.)」が用いられる時に(五・23)、現在形からアオリスト時制への切り替えがなされている用法は確かに注目に値する。

. しかし、アオリスト時制が示す以上に、全き潔めの瞬時性への主張の基礎は、その論理的必然性にある。全き潔めにおける潔めの対象は、生来の内住の罪、すなわち、罪への傾向性そのものであって、そのひとつびとつの表れ、すなわち、妬み、争い、分派、好色、偶像礼拝、貪欲などの「肉の行い」と呼ばれているものではない。罪への傾向性が除かれるときには、正に、ある瞬時に「その傾向性」そのものに変化が生じ、罪への傾向性は、神への全き傾倒・愛に取って代わられるのである。ただし、ウエスレーにおいては、罪の分類が内的な罪、外的な罪とされていて、その後のウエスレアン神学におけるような生来の道徳的腐敗性と、思念や言語、行動におけるその表れとの区別と言ったシャープさはなかったように思える(ウエスレー&フレッチャー・26,27)。

. トーマス・クックは、その「新約の潔め」(クック・55)という著作の中で、ローマ・カトリックの教説「煉獄説」に言及している。しかし、煉獄における浄化は、その対象が洗礼によってキリストに結ばれた人々の受洗後の罪行・罪責にかかわることなので、潔めの対象として生来の罪の性質を意図しておらず、物事の混同が見られる。ローマ・カトリックの立場では(ワイレーV・166-Marg.)、原罪の解決は幼児洗礼の時とされている。洗礼の儀典に潔めの力を求めたことにおいて、ローマ・カトリックの教説には誤謬と言える要素が付随しているのもの、洗礼の時に、原罪との断絶を見たことにおいて、私たちの瞬時説を指示する。ただそれが、水のバプテスマが指さす聖霊のバプテスマによるキリストとの合一の事実に結びつけられなかったことは残念である。

. 全き潔めにおける潔めの主導者は、聖霊なる神であって人ではない。人は信仰によって、聖霊の促しに献身、信仰の応答をするのみである。それでウエスレーの言うように、全き潔めの手段が私たちの行為や功績にあるのではなく、全的献身を伴った信仰にあるのであれば、信仰の手がそれを捉えたその一瞬に、全き潔めを経験することが可能である。更に、全的献身はその性質上、ある瞬時になされることである。それ故、その献身に応えて与えられる恵みは、当然、瞬時的なものとなる。全的献身の後は、実際の様々な事態に直面したときに全的献身の確認の必要が生じてくる。しかし、献身を繰り返す必要はない、かっての全的献身を、その時その時に、確認すれば良いのである。

. 全き潔めの基礎はキリストの血潮にある。それは毎瞬毎瞬、私たちに恵みを提供している。キリストの血潮は常に語り掛けている。ウエスレーが強調したように恵みを捉えるのは「今、今、今!」なのである。実践家の彼は、恵みの享受の瞬時性を強調して説教すれば説教するほど、人々は信仰によって瞬時的に恵みに立つことを見てきたことを語っている。論理的必然性とともに、ここに彼の実践的観察がある(ウエスレーーXV・70)。加えてウエスレーは、全き潔めの経験を証する人々の証しに耳を傾けた時、誰一人、漸進的な潔めの体験を証しした者はなく、全員が全き潔めの瞬時的な体験を証ししたとのことを指摘している。

U  全き潔めの経験は「第二の」転機的経験であること:

. さて次に、全き潔めの転機が第二の転機であって、その後に何故、第三、第四の転機はないのかとの第二の疑問に取り組もう。この点に関しては、ジェソップの「聖化論」に大変適切な解答を見出す(ジェソップ・32、日本語・52)。ジェソップは神の約束という観点からこの問題を論じ、聖書に多くの神の約束を見出すが、聖霊の賦与に関する約束は「御父の約束」と言われ、他の諸々の約束とは区別された特別の約束であることを指摘する。その聖霊の賦与によって、信仰者の心中にもたらされる全的聖化の経験は、それ故、特別な経験であって、第三、第四とも言える御霊のみ業、すなわち、奉仕のため折々になされる聖霊による満たしとは当然区別されるべきものとしている。

. すべての信仰者は「キリストの御霊を持」っている。何故なら「御霊を持たない人は、キリストのものでは」ないからである(ローマ八・9)。既に御霊を「持っている」信仰者に聖霊が改めて「与えられる」との表現を奇異に感じることもあろう。しかし、それは霊的に深いことを人間の不十分なことばで表現するときの制約なのである。旧約の時代にもこの世に御霊は居られないわけではなかった。御霊は世の最初から、創造のみ業、聖書の霊感のみ業を初めとして多くの御業に、父、御子とともに携わってこられたのである。それにも拘わらず、最初のペンテコステの時、聖霊は最初の弟子たちに「与えられ」、「注がれ」、「降られた」のである。旧約時代の活動とは異なった新約時代における新しい、聖霊の時代に相応しい十全な活動に就くべく、聖霊は新たに来られたのである。このことは個人のレベルにおいても同様であって、既に信仰者が「持っている」聖霊が、なお「与えられ」、「注がれ」、そして「満ちる」とは、聖霊とその人との新しい関係を言い表している。

. 多くの人の関心事は「ペンテコステにおける御霊の傾注は、繰り返し得ない出来事か、繰り返され得るのか」との点である。ルーテル系、また、カルビン系の神学に立つ人々は、ペンテコステが特別な出来事であって繰り返し得ないことを極めて強調する。この見解は正しいと言えるのであろうか。最初のペンテコステの折りになされた説教の締め括りに、メッセージを聞き、心を刺された人々の「兄弟たち。私たちはどうしたらよでしょうか」という質問に答えて、ペテロは「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦されたので、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と語った(使徒の働き二・38私訳、エイス《Gr.》の原因的用法、Arndt & Gingrich・229、マタイ一二・41参照)。キリストの御名によるバプテスマは、真のクリスチャンのバプテスマである聖霊のバプテスマを指差すものである。聖書の一貫した教えは、既述の使徒の働き二章38節の私訳にも示されているように、罪の赦しの体験が先ずあって、その証しとしてのキリストの御名による水の洗礼がある。その洗礼は聖霊のバプテスマを象徴し約束する。彼ら信仰者は「御霊によって生まれた」者たちであり「キリストの御霊を持っている」。しかし、水のバプテスマが象徴する聖霊のバプテスマはまだ受けていない。
そこに使徒の働き二章39節の約束が生きてくる。「なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです」。ここにおいて「すべての遠くにいる人々」は、距離的な遠さではなく、エペソ人への手紙2:12、13にあるように、約束の契約に遠く、また、キリストから離れている人々、すなわち、すべての異邦人を指している。

. 最初のペンテコステは既に起こった。しかし「賜物として聖霊を受ける」ことに関する約束は、なお私たちのものである。個人の生涯におけるペンテコステがある。正確には、個人が最初のペンテコステによって可能となったの恵みへと入ってゆくのである。「キリストの十字架、そして、私のための十字架」という表現をするとき、キリストは、私のために新たに十字架にかかられるのではない。私が、キリストのただ一回の十字架のみ業の恩沢に与るのである。同様に「最初のペンテコステ、そして、私のためのペンテコステ」と言うとき、聖霊が新たに注がれることを意味するのではない。最初のペンテコステがもたらした祝福に、私が個人的な体験を通して入ってゆくのである。

. コリント人への手紙第一、一二章12節の「私たちはみな、、、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」は、当然あるべき姿を教えている。コリントの手紙を初め、パウロ書簡を読むとき、理想的な姿と、現実の状況とをしっかり踏まえて読む必要がある。クリスチャンは神学的・立場的には「一つからだと」された人々である。しかし、コリント教会においては分裂、分派があり、経験的・現実的には、彼らは「ひとつからだと」して生きていなかった。同様に、彼らは、立場的には「一つ御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つ御霊を飲むようにされた」。しかし、体験的には、彼らはそれを未だ自分たちのものとしていなかったのである。立場と体験、神学と生活、理想と現実との間にはずれがある。ここに第二の転機としての全き潔め、全的聖化の課題がある。ローマ人への手紙六章の「キリスト・イエスにつくバプテスマ」に関するパウロの論述も、立場と体験、神学と生活、理想と現実のギャップを弁えずに読んだのでは理解できないであろう。

. 聖霊の満たしについて、エペソ人への手紙五章18節の「御霊に満たされなさい」は、現在受動形が使用されていることから「満たされ続けること」が命令されている。そして、これこそがクリスチャンの標準である。しかし、入信したばかりの信仰者は「キリストの霊を持って」いても、聖霊に「満たされ」ていないことは確かである。それであれば、クリスチャン生涯のどこかで「初めて」聖霊に満たされる転機的経験があるに相違ない。そしてその後、聖霊による盈満の条件を果たし続ける限り、その人は「満たされ続ける」のである。ここに「御霊に満たされる」とは、御霊の完全な支配のもとにクリスチャン生涯が営まれることを意味する。そして、聖霊の盈満・御霊の全的支配の結果、信じる者の心は神の愛で満たされる。神の愛で満たされた心から、聖霊は神の愛に反するものを放逐する。このようにして聖霊による内住のキリストの事実、その事実がもたらす神の愛の全的支配によって、生来の罪の傾向性・神への反逆は、信じる者の心中から放逐されるのである。従来のウエスレアン神学では、全き潔めの転機的経験において起こったことを、罪性の「根絶」として表現するが、「根絶」(Eradication)より「置換」(Replacement)、乃至「放逐」(Expulsion)のほうが相応しい表現であろう。

. 全き潔めの経験において、既述のように何が潔めの対象となるのかを考えるならば、それが第二の転機におけるただ一度の経験であって、繰り返し得ない経験であることは明瞭である。聖書においては、罪が、罪の性質( Sin-単数)と罪の行為(sins-複数)との二重の概念で教えられているので、これら二種類の罪を解決するための恩寵のみ業には、二つの転機、そして、二つの転機「のみ」があることは、当然のこととして理解されねばならない。それで、第二の転機としての潔めには「全き」との形容詞が付せられている。

. 全き潔めの転機が、人生のある時点での転機であることを否定し、その転機を肉体死の瞬間に結びつける神学的立場は、ギリシャ哲学を経てキリスト教会に入り込んだペルシャ的二元論の影響下にあって、異教との混淆が認められる。肉体死は、たましいと肉体の分離の時であるが、肉体、すなわち、物質そのものを悪と断じない限り、肉体とたましいの分離の時に、全き潔めの転機を求める論理的根拠は失われる。肉体は確かに、罪の行為の道具、また、チャンネルになるが、生来の罪への傾向性の座ではない。罪の性質・神への反逆は人のたましい、人の心の深奥における問題であって、たましいと肉体の分離という第一の死の出来事もたましいに変化を及ぼすことできない。肉体死とは無関係に、キリストの霊のみが心に真の変革をもたらすのである。肉体死がもたらすものは、栄化、または、復活に備えての人間性の弱さからの解放であり、肉体のもたらす制約からの釈放のみである。肉体死には、信仰者を生来の罪の傾向性、神への反逆から解放する効力はない。死の前にキリストの恩寵に与っていることが、永遠において祝福を享受するための必須条件である。ウエスレーによれば、この恩寵に与るのが信仰によってであるので、恩寵の第二のみ業を自らのものとするという経験は、私たちの生涯のどの瞬間 ―「今!」―にでも味わい得ることなのである。

V  全き潔めの転機に関する問題点―転機後に見られる「罪への傾向性 」 への取り組み:

. 全き潔めの信仰に立って、すなわち、全き潔めの転機を経験したとして、そのことを証しする人々がなお経験する罪への傾向性との現実的な戦いを、どのように理解すべきなのかを考察してゆこう。ある人々には、この表現そのものが理解できないことのように響くことであろう。そして「全き潔めの転機後に何故、なお『罪への傾向性』との戦いがあるのか。」と質問をぶつけてくることであろう。

. このことを理解するために、罪の腐敗性についてもう少し詳しく、分析的に考究してみる必要がある。「腐敗性」との表現は、これらが治癒なくして放置されれば、益々悪化してゆく類のものだからである。それは「罪への傾き(Propensity)」である。さて、罪の腐敗性(Depravity)と言うとき、以下の三つの範疇を含んでいることを多くの人々は理解していない。それゆえに混乱を招いている。以下の三つの範疇とは、@罪の生来的な道徳的腐敗性(Moral Depravity)、A罪の一般的腐敗性(General Depravity)、そして、B習得された道徳的腐敗性(Acquired Depravity)・ある罪への傾きである。

. ここに第一の「生来の道徳的腐敗性」とは、生来の罪の腐敗性で、アダムからすべての人が受けたとされる道徳的な罪への傾き、罪性(罪の性質)、原罪、内住の罪、「SIN」として単数で表現される罪など、ほぼ同一の内容を持つ。瞬時的な神の御業である全き潔めの対象となるのは、この生来の道徳的腐敗性・罪への傾き・神への反逆なのである。全き潔めの転機を論じるにあたっては、この点を明瞭に把握しておく必要がある。

. 第二の罪の「一般的腐敗性」は、神学的には、必ずしも道徳的・倫理的ではない人間的な弱さ(infirmities)の別称で、肉体、また、その機能に及んだ罪の影響、結果である。罪そのものではない。このようなものには、理解の遅さ、判断の過ち、記憶の不確かさなどなど、人間的といわれる非常に多岐にわたることどもが含まれる。全き潔めの転機的経験の後に通過するこうした堕罪の傷跡のもたらす諸課題を取り上げて、転機的経験を否定しようとする神学的立場には、生来の道徳的腐敗性(Moral Depravity)と非倫理的な一般的腐敗性(General Depravity)との混同がある。前者は、全き潔めの瞬時に潔められるべき、罪への堕落がもたらした人間の罪性の課題であり、後者は、栄化、ないし、肉体の復活の瞬時に解決されるべき、罪の堕落の影響によって人間に課せられた、人間性に関わる課題なのである。聖書は明らかに罪の性質と、それが人間性に及ぼした人格全般の弱さ、すなわち、知情意のすべてに亘る弱さを区別している(ローマ八・26、ヘブル四・15)。全く潔められた人々にも、記憶の不確かさ、判断の過ち、未知のものへの恐れなど、諸々の人間性に纏わる問題、弱さが依然として残っていて(ウエスレー&フレッチャー・21)、地上生涯でできることは、訓練と経験によって、その幾分かを克服し、その幾分かをコントロールすることであって、完全にこれらの課題を解決することはできない。これらは罪(sins)ではないものの、罪(sins)同様の重大な結果を招来する。過誤があるとき、そのことの故に、人々を傷つけ、神の栄光を汚すことが通例である。それゆえ過誤を犯したときには、ウエスレー、そして、我々も主張するように、その為のキリストの贖いの血潮を必要とする。また、過誤は、正しい対応・態度が取られなかった場合には、無自覚に犯された過誤であっても、それに気づいた時点で罪(sins)となる。

. ウエスレーの罪の定義によれば、これらは意図的でないので、もし「罪」と呼ばれるならば、それは不適切にそう呼ばれているのである。このウエスレーの罪の定義は浅薄であると批判されている。しかし、あのエデンの園において初めて罪が人類に入り込んできたときの状況を考えるなら、ウエスレアンの罪の定義が妥当であることは明らかである。また、ウエスレーの定義には、罪と弱さとを区別することによって、私たち人間の責任のもとに取り組むべき罪の課題と人間性からくる弱さの課題とを峻別し、私たちが無責任になったり、不必要に失望に陥ることから守る意図があった。

. さて、第三の罪の「習得された腐敗性・罪への傾き」は、道徳的なものであるが、「生来の道徳的腐敗性」と異なって、生まれたときにはないものである。ある個人が罪の行為に陥るとき、その罪の行為の結果として咎め(罪責)が生じる。ただ一回の罪の行為であれば、それによって生じた咎めに対して、悔い改めと信仰に基づいてキリストの血潮による赦しが宣言されれば、それで解決がもたらされる。しかし、その罪の行為・罪深い態度が度重なるとき、単にその結果としての咎めが発生するだけではなく、度重なる罪の行為・罪深い態度は、罪の習慣を生みだし、罪の習慣はやがてその人の性向(Disposition )として、その人特有の罪への傾きを生み出す。このようなその人特有の罪への傾きを「習得された道徳的腐敗性・取得された罪への傾き」と呼ぶ。それはアダムの堕落によってアダムの子孫すべてによって受け継がれてきている「生来の道徳的腐敗性・神への反逆」と区別され、それに付加された、個人個人のある罪の行為・罪深い態度の結果として、それぞれの家庭や社会環境の中で個人個人が習得した「ある罪への傾向性」なのである。

. 生来の道徳的腐敗性は、アダムの子孫すべてに見られる「心霊の」傾向性、罪への傾き・神への反逆である。信仰と献身に応じて聖霊が主イエスの血潮をそのたましいに当てはめるとき、瞬時的な全的潔めの聖業がその心の中になされる。聖霊による主イエスの内住、そして、その事実がもたらす神の愛の盈満が始まり、それにつれて神への反逆はその心中から追放される。それに対して、習得された腐敗性・罪への傾きは、罪がからだとその肢体をその道具として行われた故に、「からだに、そして、からだの肢々(心理的な面を含めて)」に染み着いている。例えばアルコール依存症の場合、その人の問題は単に心の問題ではない。その人のからだの組織の中に作り出されたアルコールを求める体質と深く関わっている。悔い改めに伴う心の変革、新生の経験のみでは問題は解決しない。薬物依存に陥った者は、霊的経験と共に医学的な治療を必要としている。幼児期に親による虐待などを経験し、そのために親に対する憎しみと憤りを覚えている場合など、憎しみ・憤りという反応が受身的に形成されたのであるが、それは心理的な分野を含めたからだの組成の中に刻み込まれていて、からだを有する限り信仰が弱った瞬間にその人を過去の辛い経験、また、憎しみ・憤りの感情へと引き戻す。性的な悪癖を初めとして「悪癖」と呼ばれるもののあるものは肉体の問題と密接に関わっている。からだに、その組成の中に心理的傾向としてある傾きが刻み込まれているので、信仰の弱った瞬間にその人をある罪の行為へと引きずり込むのである。ここに堕罪の影響を受けている朽つべき肉体がかもし出す困難な課題が存する。コックスは「地的、死すべき、朽つる」と言われる肉体のもたらす問題を「人間の身体は純粋な愛のいかなる完全な表現にも道をふさぐ障害の一つだったのである。」と書いている(コックス・214)。

. この習得された道徳的腐敗性の問題の解決は、従来のウエスレアン神学では、初時的聖化の時とされてきた。「初時的聖化とは、我々の罪の行為に結果する習得した(遺伝的でない)腐敗性のすべての、十全、かつ、完全なきよめである。」とグライダーが書いている(Glider・364)。しかし、習得された罪への傾きの一部は新生の時点で解決するであろうが、その根本的な解決は必ずしも瞬時的ではない。習得された罪への傾きのもたらす課題は、身体(心理面を含めて)と深く関わっていて、肉体にあって生きる限りその脅威を感じさせるからであり、また、生来の道徳的腐敗性が神への反逆として「単一なもの」であるのに比して、習得された道徳的腐敗性は、その人の過去に通過した多様な経験の様々な時点・場面と関わっているゆえに、「複合的なもの」であるからである。その解決は「あなた(がた)の信仰のとおりになれ」(マタイ九・29)であって、信仰がその特定の課題とキリストの十字架による贖いとを結び付け、そこに解決を見出し信仰を働かせた時に訪れてくる。理解が欠如している時、それ故、信仰が十分に働かない時には問題として残る。その意味で、新生の時点では、多くの人は彼が有するこうした「習得された道徳的腐敗性」の課題のすべてにキリストの血潮が有効であるという信仰に立ち得ない。その時には理解がそこまで及ばないことのほうが通常である。しかし、後に理解が広がり、信仰が働く程度に応じて、その複合的な分野の信仰の働いたその特定の分野に解決がもたらされる。すなわち、その解決、「習得された道徳的腐敗性・特定の罪への傾き」の潔めは、段階的となる。

. 確かに、直接的にアダム以来受け継いだ心霊における「生来の道徳的腐敗性」とは別の「習得された特定の罪への傾き」がある。これらは、同性愛などのように「心身的に」、薬物依存などのように「個人的に」、幼児体験からくる親への憎しみ・憤りのように「家庭的に」、また、さまざまな形態の偏見のように「社会的に」、習得されたものである。こうした特定な心身的要因を持ち、特定の社会的・家庭的環境に置かれ、罪人としての過去を持った一個人に特有な、その人の過去ゆえに形成され、習得されたある罪への傾きは、それ自体、非倫理的な一般的腐敗性「人間的な弱さ」と異なり、明らかに道徳性を帯びているので、「習得された罪への傾き」のカテゴリーに属するものとして見るべきである。また、習得された腐敗性・「ある罪への傾き」の複合的な特徴に伴って、それらの克服の複雑、かつ、困難な課題が生じる。一人の人の叫びに耳を傾けてみよう。以下は、教会に来ていた心因性精神障害を持つと自称する一人の人物からのある牧師への手紙である。

.     「元大酒乱の父○○は昨年一二月、ついにくたばりました(亨年八四歳)。、、、、▽▽先生。あなたは、わたしが父を赦すことが
.    できずに苦しんでいたとき、『赦すことができないのは、あなたの罪がゆるされていないからだ!』とひどく私を断罪しましたね。
.    そんな数学の方程式のとおりにいくとでも思ってんですか?。これだから世間知らずのハコ入り牧師はヤなんだョな〜!。
.    もしもあなたが、幼少の頃から、父の酒乱ぶりに日々ふるえおののきながら、ずーと暮らしてきたと仮定してください。
.    それでも自分は父をゆるせる!と胸をはって断言できますかね?!。もしも『私ならできる!』と言い張っても、
.    実際その場になったら、ペテロのような態度をとってしまうんではないですかな。当事者でなければ、とうてい
.    わからないことがあるのです! あなたも××牧師と同類。『泣く者と一緒に泣く』ことのできない人間ですね。職業病ですナ。」

. グライダーは、同性愛、薬物依存、偏見などは、回心(初時的聖化)の時はおろか、全き潔めの瞬時にも解決され得ないと考えたので、これらを「習得された罪への傾き」としては分類していない。グライダー の習得された罪への傾きの定義:すなわち「我々が犯した罪の行為ゆえに、我々のうちに築き上げられた罪の行為への傾き易さ(Propensity)」(Glider・363)は、個人的行為の結果としての罪の行為への傾きのみを考え、幼児体験に基づく親への憤り・憎しみなど、他人の行為に対する反応として、また、偏見のように社会的な影響を通して、形作られ、取得された罪への傾向性を含めていないので不充分である。ある人の性向は、その人の能動的な行為の結果のみではなく、家庭や社会などの影響を受動的に受けることによっても形成される。ただ受動的とはいっても、人種的偏見のように、同じ環境にある人がその同じ罪への傾きを身につける訳ではないので、主として受動的に形成されたものであり、その状況は十分同情を呼び、理解を必要とするものであっても、厳密には個人的に習得された罪への傾きであって、これらも、他の比較的単純な、新生時に解決される種類の罪への傾向性のケースに加えて「習得された罪への傾き」として分類されるべきものである。

. これらは心霊のアダム的な「生来の道徳的腐敗性」と呼ばれるものではなく、また、同性愛、酩酊などの薬物依存、そして、憤り・憎しみなどは、例えそれが幼児体験に基づく親への憤り・憎しみであっても、明らかに聖書に「罪、また、肉の行為」と分類され(ローマ一・26,27、エペソ六・4、ガラテヤ五・20、21、第一コリント六・10)道徳性を帯びているので、倫理性のない「一般的腐敗性・人間的弱さ」には分類され得ない。とすれば、第三の「習得された腐敗性・ある罪への傾き」に分類する以外にはない。そして、グライダーの言うように(Glider・414、415)、これらは回心時には、即ち、初時的聖化によっては完全には解決しない問題であり、また、全き潔めの転機においても必ずしも解決され得ない。それゆえ、その解決は、信仰の理解と把握とに応じて、信仰生涯の長い過程のさまざまな時期において「段階的に」もたらされるものと判断される。

. へブル人への手紙一二章14節に「すべての人との平和を追い求め、また、聖められること(プロセス)を追い求めなさい。聖くなければ(状態)、だれも主をみることができません。」とある。この文脈での「聖き・ハギアスモス(Gr.)」は、信仰による聖霊の御業の結果として瞬時的に入ってゆくことのできる全き潔めの状態ではなく、私たちの人生における神の訓練(懲らしめ)のプロセスを通して、徐々に私たちのものとなってゆく類の聖さである。それは霊的成長と深く関わっている。「そういう訳ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」(ローマ人への手紙一四・19)が平行句となっている。また、同じローマ人への手紙五章3,4節には「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」とある。そして、ヨハネはその書簡の中で「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。、、、キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」(ヨハネ第一の手紙三・2、3)と言っている。ここに「自分を清くします」は、「ハグニゾー(Gr.)」で、その用法は新約聖書では一貫して自らが清く生きようとする人間の意志的な行為・我々が信仰とともに果たすべき分を示していて、神による御業を示す「ハギアゾー(Gr.)」、また、「カさリゾー(Gr.)」と対照的である。新改訳聖書では、このギリシャ語には「清くする」という漢字を訳語に使用することによって、「ハグニゾー(Gr.)」を他と区別している。この「自分を清くします」(現在形)との聖句を、継続的に実践してゆく道を示唆したのがウエスレーによる「メソジズムの道」であると言えよう。

. カルビン派の神学における聖化の理解・説明は、ウエスレアン神学における瞬時的な「根絶」(Eradication)に対して、残存しつづける罪性の内住の聖霊の力による継続的な「圧迫・抑圧」(Suppression)であるとされる。ただし、本論文の執筆者は、ウエスレアンの立場は、罪の「根絶」というより生来の罪への傾向性の神の愛による「置換」・「放逐」の方が、その表現としてより妥当であると考えている。ウエスレアンの「根絶」、または「放逐」に対して、カルビン神学では、内住の罪に対しては御霊の力によって対抗し、押さえ込み、無力化することによって勝利があるのであって、その存在そのものはなくなることはないと教える。心中における生来の罪への傾向性の継続的存在は認めつつ、なお、主イエスの十字架と復活がもたらした恵みにはそれに勝つ力があると主張している点、学ぶべきことがある。ただその教えには、罪の腐敗性を分析的に整理しきれていないことからくる混同が見られる。押さえ込み、無力化することによって勝利を得なければならないのは、アダム以来の「生来の道徳的腐敗性」・神への反逆に対してではない。それは信仰がキリストの恵み、すなわち、キリストの十字架にある備えを捉えた時に、聖霊の賦与・盈満によって瞬時的に「放逐」され、キリストの内住がもたす神の愛による支配と「置き換え」られる。しかし、その後にも「習得された道徳的腐敗性」、即ち、過去との関わりにおけるその人特有の罪への傾きは、その人と過去の行為・経験が複雑であればあるだけ、複雑な様相を帯びていて一瞬にしては全面的には解決され得ないまま、ある部分が残っている。これに対して、私たちの取りうる信仰の姿勢が内住の聖霊の力によって戦い、それを無力化・克服することであり、やがて理解の拡大に応じて、それをキリストの贖いと結びつけることができた時、ひとつびとつを信仰によって解決することである。受けた傷が非常に深く、ある問題に関しては、そのような信仰に立つことができないまま、肉体の死のときを迎えることもあろう。その時、そのたましいは、人間的な弱さとともに、肉体とその心理的な襞のうちに刻み込まれた罪への傾きの課題からも、人間的な弱さからと同様に、完全に解放されるのである。

. 信仰がより高い恵みを捉えるまでは、または、死による肉体の束縛からの釈放の時までは、新生の時に与えられた神のいのち、また、全き潔めの時にもたらされた聖霊の力によって、その勝利が可能とされる。パウロの「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」(コリント第一の手紙九・27)とのことばは、単に肉体が帯びた「一般的(非倫理的)腐敗性」・人間的な弱さ、に関することでけではなく、それとの戦いを含めて、肉体とその一部を構成する人間の心理的な面に刻み込まれた「習得された道徳的腐敗性」・罪への傾きへの戦いも意味されていると解釈すべきであろう。この問題がある瞬時に完全には解決しないとのことをもって失望する必要はない。使徒ヨハネの言うように「だれでも、神から生まれた者は、罪のうちを歩」まないのである(第一ヨハネ三・9)。ここに「歩みません」は新改訳聖書・欄外註の直訳にあるように「罪を犯しません。」の意味である。この凱旋を約束する新生のいのち、また、内住の御霊の力があるからこそ、クリスチャンは習得した罪への傾きの執拗な課題に対して、絶望せずに勝利への希望を抱きながら立ち向かうことができる。

. 多くの人は聖会などの恵みの座に出て、全的献身を誓い信仰に立った後に、再び敗北を喫するのは、多くの場合、そこで体験したと思ったことが、不徹底な献身、単なる思い込みゆえの、真実な霊的体験ではなかったことからであろう。しかし、ある場合には、習得されたある特定の罪への傾きとの戦いを、無知のゆえに、また、神学的な整理の不十分さのゆえに、生来の道徳的腐敗性からの問題と取り違えることによる。十分な献身、真正な信仰があったならば、聖霊なる神はその信仰に答えて、その人の内に聖業をなしておられ、最早、生得の罪への傾向性・神への反逆はない。それは心の王座から追放され、その人は神の愛に満たされ、真に神を愛するようになっている。課題は「神への反逆」があるからではなく、身体とその心理的な機能のうちに習得された罪への傾きが、なお働きかけるからである。

. 生得の道徳的腐敗性・神への反逆は、信仰者が肉体の死を見る以前に、その心から潔められていなければならない。天国はいかなる意味、種類においてもこの罪を許容するところではない。また、心霊の道徳的な傾向性であるゆえに、肉体の死がその心の傾向性に変化をもたらすことはない。そのたましいが肉体を離れる前に、例えそれが肉体死の直前であっても、その潔めの聖業はなされなければならない。その解決は、主イエスの血潮による以外に、また、それに対する信仰以外にないのである。信仰により、また、聖霊の働きによるのであれば、ウエスレーの主張するように生来の道徳的腐敗性からの潔めは死の直前でなくても「今という瞬間」であり得るのである。それが、神への反逆からの「全き潔め」の転機なのである。

W  全き潔めに関する聖書箇所の釈義 :

. 既にこれまでに多くの聖句に言及が及んで論旨が展開されてきたが、最後に、新約聖書から更にもう一つ、二つの箇所を取り上げ、その釈義に取り組んで、この「全き潔めの転機」に関する小論を閉じたい。全き潔めの教理は、独立した個々の聖句にというより、聖書全体の教えとして提示されていることを踏まえた上で、それが一層明瞭に教えられていると思える聖書の個所を取り上げてみよう。

. 先ず、エペソ人への手紙五章25ー27節の文脈に目を留めると、この実践的部分で、記者は、妻に対しては「夫に従い、自分の夫を敬う」よう勧め、次いで、夫に対しては「妻を愛し、妻を養い育て、また、妻と結ばれ、一心同体になる」ことを語っている。妻へのことばが、実践から心情へと展開しているのに比し、夫への勧告が、心情から実践へと向かっているのは興味深い。男女の心理的な相違を意識してのことかもしれない。女性は、従うことはしても敬うことに困難を覚える。男性は愛することをしても、それを表現することに気後れを感じる。西洋ではそのようなことは見られなくても、オリエントの文化脈ではそうである。

. このような文脈の中で、記者は「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられた」ことを述べ、その目的が「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」と書き記す。ここで注目したいのは、「きよめて、聖なるものとする、そして、ご自分の前に立たせる」という三つの動作を表すことばとそれぞれの動詞の時制である。殊に「きよめて:カさリゾー(Gr.)」と「聖なるものとする:ハギアゾー(Gr.)」との二つの動詞の関係に注目したい。これら三つの動詞とも、アオリスト時制で使用されているが、「きよめて」は分詞形である。ギリシャ語の文法によると、現在分詞であれば、「きよめて」と「聖なるものとする」は同時的である。しかし、分詞が、ここの場合のように、アオリスト分詞の時は「きよめて」は、「聖なるものとする」に時間的に先立つものと理解されている。すなわち、この箇所は「みことばにより、水の洗いをもって、教会を『先ずきよめてから』、教会を更に聖なるものとするためであり、、、」と翻訳しても良い。英語訳ではそのように翻訳している訳本(ASV、NASB―"that He might sanctify her, having cleansed her by the washing of water with the word,…")がある。エペソ人への手紙の記者は明らかに、初時的聖化「きよめて」と全的聖化「聖なるものとする」とを時間的に区別して、後者を第二の転機として位置づけているのである。また、この「聖なるものとする」は、単に聖別を意味するのではなく、純化を意味している。聖別・献納は、次の動詞「ご自分の前に立たせる:パリステーミー(Gr.)」によって言い表されている。この聖句は、この全的聖化、また、教会の聖別・献納という二重の内容が、キリストの愛、そして、犠牲の目的であったことを述べている。

. この節の光において、テトスへの手紙三章5、6節を読み直すと、ここにも恩寵のみ業が二段階で描写されていることに気づく。新改訳聖書では、双方とも聖霊のみ業であることを強調するためにであろう、「聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」と訳している。文法的には、この訳も妥当である。しかし、ある英語訳(ASV、NIV―"He saved us through the washing of rebirth and renewal by the Holy Spirit,…")に見るように、ここは「新生の洗いと聖霊による更新とをもって、私たちを救ってくださいました」と訳して、恩寵のみ業が二段階でなされることを明瞭にする翻訳の方が、パウロの論旨、また、新約聖書の救いの教理を明確に伝えている。勿論、これらの恩寵の二重のみ業はともに聖霊によるのである。次の節に、使徒は「神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」と書き記している。因みに、「更新」と訳されているギリシャ語「アナカイノーシス(Gr.)」は、ローマ人への手紙一二章2節にもう一度用いられており、ここでは「一新」と翻訳されている。この「心の一新」は、信仰者の継続的な変貌の手段とされており、神の恩寵の把握、全的献身、この世との離別といった題目と共に語られている。この聖書箇所の展開が必要であろう。

. また「全き潔めの瞬時性」に関する更に徹底した論議のためには、ローマ人の手紙における主要部分の釈義が必要とされる。ローマ人への手紙は、最初の三ー五章に「義認」の問題を提示し、次いで六ー八章において「聖化・潔め」の課題へと論述を進めている。そこでは「全的聖化」を「罪(Sin-単数)に対しては死んだ者、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」となることとして説き、そのように「思いなさい 」(Aor.)、「計算しなさい」、「勘定しなさい」と勧めている。洗礼をうけた立場での立場上のことを、信仰によってそれぞれの体験とすることが求められている。勧められているのは、勿論、第一の転機としての義認・新生の恵みを持っている信仰者たちである。信仰によってそのように勘定できたとき、その瞬時に聖霊の働きによって、立場上のことがその信じる者の体験的事実となるのである。これが「全き潔め」・「全的聖化」の第二の転機的経験である。

結 論:

. その他の諸々の聖句を引用し、正しく解釈して、ウエスレー的な「全的聖化」・「全き潔め」の理解が正しいことを立証することは、決して困難なことではない。ここに、全的聖化とは、再述するが、キリストの贖いの血潮の功績に基づいて、聖霊なる神が、すべてを捧げ、信じた者の心中に成就してくださるみ業であって、恩寵の第一のみ業に次ぐ、第二の恩寵のみ業、また、瞬時的なみ業である。それによって、捧げ信じた者は、人間的弱さ、また、ある種の習得された罪への傾きのもたらす課題を残したままで、その心中から「生来の罪への傾向性」・神への反逆が除き去られ、神と人とを全心全霊をもって愛するようになる。この聖霊の実として与えられた愛は、クリスチャンの服従の度合いによって、益々成長し、拡大してゆく。全き潔めの瞬時的経験は、その後のキリストのみかたちに達するまでの愛における成長の可能性を排除しないのみか、それをむしろ促進するものである。これこそが、聖書の提供する救いの中心的な事柄なのである。

. ウエスレーの偉大さは、単にこの「クリスチャンの完全」、「愛における完全」、「全き潔め」の教理を聖書から説教したのみならず、そこに生き、その意味するところを、当時の社会において実践したことにある。聖書の真理を信じ、また、論証することは、一つのことである。しかし、その真理を実践し、そこに生きることは、また、別のことである。現代のキリスト教批判は、一世代前のように「聖書の内容、その教えの信憑性」にあるのではなく、それを説くクリスチャンたちが、その真理に生きているかにある。実践が問われているのである(Purkiser・31)。「あなた方の教えはよい。しかし、あなた方はそこに生きているか」とのことが問い掛けられている。私たちは、真摯に、この問いに応える責任を帯びている。全き潔めの可能性、また、「全き愛」の恵みの素晴らしさを説くのみで、そこに生きていないことこそ、最大の躓きをもたらす原因なのである。全き愛を説きながら、そねみ合い、分派、分裂へと走ってゆくことは、全き愛の可能性を否定することに他ならないことを、私たちは覚えておくべきである。

参 考 文 献

1 Arndt、W.F. & Gingrich、F.W.『A Greek-English Lexicon Of New Testament』The University of Chicago Press、1957
2 Cook、Thomas『新約の聖潔』大江邦治訳、バックストン記念霊交会、1917
3 Cox、L.G.『ウエスレーの完全論』田中敬康・平位全一・蔦田公義訳、日本ウエスレー出版協会、1981
4 Grider、J. Kenneth『A Wesleyan Holiness Theology』Beacon Hill Press of Kansas City、1994
5 Jessop、Harry E. 『Foundations of Doctrine』Vennard College、1938
.  日本語訳:「聖化論」、蔦田真実訳、日本ウエスレー出版協会、1975
6 MacArthur、Jr.、J.F. 『混迷の中のキリスト教』桜井圀郎訳、日本長老教会文書出版協会、1997
7 Purkiser、W.T. 『Interpreting Christian Holiness』Beacon Hill Press of Kansas City、1971
8 Steel、 Daniel『Mile-stone Papers』Schmul Publishers、1984
9  Wesley、 John『The Works of JOHN WESLEY』 Zondervan Publishing House、1872
10 Wesley、J. & Fletcher、J. 『キリスト者の完全』(合本)竿代忠一・蔦田真実訳、日本ウエスレー出版協会、1963
11 Wiley、H. Orton『CHRISTIAN THEOLOGY』3Vols.、Beacon Hill Press、1963(The 9th ed.)

■  神学小論文シリーズ:そのU

■  神学小論文シリーズ:そのV


.                                           聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


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