壮年部4教区合同修養会・分科会での学び 2003/04/28-29 担当:平位 全一
序 論:
アテネのアレオパゴスでした説教の中で、使徒パウロは「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」と言っている(使徒17:26)。私たち人の人生は、それぞれが生きた時代、また、地域と無関係ではありえない。今回、「きよめとは何か?」を考えるに当たって、「きよめとは、人が生きた過去の清算である」という観 点から、きよめの諸問題を考究したい。
私たち人は、4重の意味で過去を背負っている。その過去とそれが私たちに及ぼした影響、特に、私たちのうちに形作られた罪への傾きやすさとの関連において、どのようにして私たちが自分の過去を清算できるかを共に考えたい。さて、私たちが背負っている4重の過去とは以下のようなものである。
1 人類的な過去―人類の共通の先祖アダムーもっとも遠い過去―との関係 2 民族的な過去―それぞれの遠い過去との関係 3 家族的な過去―それぞれの近い過去との関係< 4 個人的な過去―ひとりびとりに特有な過去との関係
「きよめ」とは、このすべての過去とその様々な過去がもたらした多様な課題・負の遺産と取り組み、それらを清算してゆく過程、また、その過程の中にあって通過する転機的な経験なのである。
T 人類的な過去の清算―人の共通の先祖アダムとの関係における「きよめ」
私たちがアダムから引き継いだ負の遺産は、道徳的な腐敗性・罪への傾きやすさで、その影響・感化の下にある人間を、聖書は、只ひとこと「肉」として表現している(ローマ8:5−8)。「肉」とは、肉体と無関係ではないが、「肉体」そのものではない。それは、アダムの堕罪ゆえに私たちのものとなったこの道徳的な腐敗性・罪への傾きやすさ、また、その下にある人そのものを指す。この課題の解決は、「全ききよめ」といわれる転機的な経験においてなされると主張することが、ウエスレアン神学の特徴である。 最近、この「全き・全的」(Entire)との語の持つ響きが誤解――その転機的な経験をもって、過去の問題がすべて解決したかの印象――を与えるというので、ある学者はこの語に代わって、「効果的きよめ」(Effective Sanctification)との語を用いているのを、ある論文でみた。興味深い取り組みである。 第2の転機としての「効果的きよめ」のみ業の対象は、アダム以来の道徳的腐敗性・罪への傾きやすさに限定されており、かって用いられていた「全的・全き」との語が誤って暗示するような、様々なレベルでの過去がもたらした諸々の課題・様々な形での罪への傾きやすさ、なのではないことを踏まえることが、「きよめ」の正しい理解にとって大切である。
U 民族的な過去の清算―私たちの遠い過去との関係における「きよめ」
それぞれの民族は、様々な民族的な特徴を帯びてこの地上に存在している。それはそれぞれの民族の「文化」として知られている。 聖書に、この例を求めるに、ペンテコステの出来事の後、ペテロが何を経験したかを考えることができるであろう。ペンテコステは、ペテロはじめ最初の弟子たちの「全的(効果的)きよめ」を経験するときであった。聖霊の奇しい働きを通して、彼らのこころがきよめられた、のである(使徒15:9)。しかし、この出来事の後の、使徒10章にみるペテロの経験は、この第二の「民族的な過去の清算」を学ぶに当たって興味深い。ペテロは、ユダヤ人社会の一員として、異邦人に対する偏見に深く囚われていた。へブル人たちの民族的な負の遺産である。神は、特別なお扱いをもって、ユダヤ人ペテロのこの課題を解決に導かれた。 「菊と刀」の著者によると、日本人は「罪」という概念よりは「恥」という概念に、その生き様が支配されているという。その他、日本人であるが故に、私たちに纏わりついている罪への傾きやすさが何であるかを語り合って見出すと良い。
V 家族的な過去の清算―私たちの近い過去との関係における「きよめ」
民族的な過去と並んで、私たちの道徳生活、また、内的生活に大きく感化・影響を与えているのが、私たちの家族的な過去である。それぞれが生まれ育った家庭環境の違いが、私たちの人格形成、また、道徳問題に対する取り組みの姿勢の相違を生み出している。 パウロは、彼自身もパリサイ人であったが、また、パリサイ人の子でもあった。この家族的背景が、彼の霊的な歩みに深く関わっている。即ち、きよめの大路を歩むに当たっての「自己義」がもたらす様々な課題である。パウロはこれを「律法による自分の義」として「キリストを信じる信仰による義」と対比している。そして、「律法による自分の義」を追及することからの解放を、古い自分を十字架につけて、キリストを信じる信仰に生きることに見出している。また、それを、絶えざる追求の結果として期待している(ピリピ3:5−16)。
W 個人的な過去の清算―個人に特有な過去との関係における「きよめ」
聖書見出されるサマリヤ伝道の記事は、そこに住んでいた魔術師シモンのことを触れている。このシモンに関して、ある聖書学者は、その回心の真実性を疑うが、釈義的に見て、第13節の「シモン自身も信じて」における「信じる」こと内容を、12節の「ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣ベルのを信じた彼らは、、、」における「信じる」と異なった意味に解釈して、12節に言及されている多くのサマリや人の信仰は真実な信仰、それに対して、13節に言及されているシモンの信仰は、頭だけの見せ掛けの信仰と理解することはできない。共に、真実な入信経験が言及されている。 さて、ここでここに考えようとしている課題に直面する。真の信仰者となったとすれば、シモンは何故、18節以下に書かれているような態度を取り、そのような考えを抱いたのであろうか、という問題である。筆者は、これがある人が生きた過去がもたらすきよめの課題と整理している。霊的には真実な回心を経験し、霊的に新しい者とされても、必ずしも、その人生観・価値観など人生に関わる全体に決定的な変化を見るわけではない。そのような変化は、回心・新生の後に、みことばの光に照らされ、聖霊に教えられて徐々に気づくことによって、変えられてゆく面がある。これが、民族的・家族的な過去の清算と並んで、「きよめ」の漸進的な面、個人的な過去の清算に関わることなのである(「霊的回心」と「知的回心」−思いの刷新、ローマ12:2)。
結 論:
4重の過去のうち、聖霊の瞬時的なみ業として期待できるのは、人類的な過去、即ち、人祖アダム以来の「肉」の問題で、それは、私たちが第一のアダムを離れて、第2のアダムの結ばれたことの意義を、実効化することによって瞬時的に経験される。それゆえ、この面での「きよめ」を「効果的きよめ」と称することは、極めて妥当なことと判断される。 その他の過去との取り組みは、漸進的になされてゆき、それぞれのもたらす課題と向き合って、その課題を主イエスの十字架の恵みと結びつけることができたとき、ひとつびとつの課題が、十字架の恵みによって解決されて行くのを見るのである。 このように「きよめ」とは、全体的にみるならば、多くは漸進的であるが、そのプロセスのうちに、ある瞬時的な聖霊による「効果的なきよめ」のみ業がある、というのが、「ウエスレアン的きよめ」の理解で、この神学においては、瞬時性と漸進性がバランスを保って、「きよめ」の教理が成り立っているのである。
. 聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供
■ フロント・ページにゆく
序 論:
アテネのアレオパゴスでした説教の中で、使徒パウロは「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」と言っている(使徒17:26)。私たち人の人生は、それぞれが生きた時代、また、地域と無関係ではありえない。今回、「きよめとは何か?」を考えるに当たって、「きよめとは、人が生きた過去の清算である」という観
点から、きよめの諸問題を考究したい。
私たち人は、4重の意味で過去を背負っている。その過去とそれが私たちに及ぼした影響、特に、私たちのうちに形作られた罪への傾きやすさとの関連において、どのようにして私たちが自分の過去を清算できるかを共に考えたい。さて、私たちが背負っている4重の過去とは以下のようなものである。
1 人類的な過去―人類の共通の先祖アダムーもっとも遠い過去―との関係
2 民族的な過去―それぞれの遠い過去との関係
3 家族的な過去―それぞれの近い過去との関係<
4 個人的な過去―ひとりびとりに特有な過去との関係
「きよめ」とは、このすべての過去とその様々な過去がもたらした多様な課題・負の遺産と取り組み、それらを清算してゆく過程、また、その過程の中にあって通過する転機的な経験なのである。
T 人類的な過去の清算―人の共通の先祖アダムとの関係における「きよめ」
私たちがアダムから引き継いだ負の遺産は、道徳的な腐敗性・罪への傾きやすさで、その影響・感化の下にある人間を、聖書は、只ひとこと「肉」として表現している(ローマ8:5−8)。「肉」とは、肉体と無関係ではないが、「肉体」そのものではない。それは、アダムの堕罪ゆえに私たちのものとなったこの道徳的な腐敗性・罪への傾きやすさ、また、その下にある人そのものを指す。この課題の解決は、「全ききよめ」といわれる転機的な経験においてなされると主張することが、ウエスレアン神学の特徴である。
最近、この「全き・全的」(Entire)との語の持つ響きが誤解――その転機的な経験をもって、過去の問題がすべて解決したかの印象――を与えるというので、ある学者はこの語に代わって、「効果的きよめ」(Effective Sanctification)との語を用いているのを、ある論文でみた。興味深い取り組みである。
第2の転機としての「効果的きよめ」のみ業の対象は、アダム以来の道徳的腐敗性・罪への傾きやすさに限定されており、かって用いられていた「全的・全き」との語が誤って暗示するような、様々なレベルでの過去がもたらした諸々の課題・様々な形での罪への傾きやすさ、なのではないことを踏まえることが、「きよめ」の正しい理解にとって大切である。
U 民族的な過去の清算―私たちの遠い過去との関係における「きよめ」
それぞれの民族は、様々な民族的な特徴を帯びてこの地上に存在している。それはそれぞれの民族の「文化」として知られている。
聖書に、この例を求めるに、ペンテコステの出来事の後、ペテロが何を経験したかを考えることができるであろう。ペンテコステは、ペテロはじめ最初の弟子たちの「全的(効果的)きよめ」を経験するときであった。聖霊の奇しい働きを通して、彼らのこころがきよめられた、のである(使徒15:9)。しかし、この出来事の後の、使徒10章にみるペテロの経験は、この第二の「民族的な過去の清算」を学ぶに当たって興味深い。ペテロは、ユダヤ人社会の一員として、異邦人に対する偏見に深く囚われていた。へブル人たちの民族的な負の遺産である。神は、特別なお扱いをもって、ユダヤ人ペテロのこの課題を解決に導かれた。
「菊と刀」の著者によると、日本人は「罪」という概念よりは「恥」という概念に、その生き様が支配されているという。その他、日本人であるが故に、私たちに纏わりついている罪への傾きやすさが何であるかを語り合って見出すと良い。
V 家族的な過去の清算―私たちの近い過去との関係における「きよめ」
民族的な過去と並んで、私たちの道徳生活、また、内的生活に大きく感化・影響を与えているのが、私たちの家族的な過去である。それぞれが生まれ育った家庭環境の違いが、私たちの人格形成、また、道徳問題に対する取り組みの姿勢の相違を生み出している。
パウロは、彼自身もパリサイ人であったが、また、パリサイ人の子でもあった。この家族的背景が、彼の霊的な歩みに深く関わっている。即ち、きよめの大路を歩むに当たっての「自己義」がもたらす様々な課題である。パウロはこれを「律法による自分の義」として「キリストを信じる信仰による義」と対比している。そして、「律法による自分の義」を追及することからの解放を、古い自分を十字架につけて、キリストを信じる信仰に生きることに見出している。また、それを、絶えざる追求の結果として期待している(ピリピ3:5−16)。
W 個人的な過去の清算―個人に特有な過去との関係における「きよめ」
聖書見出されるサマリヤ伝道の記事は、そこに住んでいた魔術師シモンのことを触れている。このシモンに関して、ある聖書学者は、その回心の真実性を疑うが、釈義的に見て、第13節の「シモン自身も信じて」における「信じる」こと内容を、12節の「ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣ベルのを信じた彼らは、、、」における「信じる」と異なった意味に解釈して、12節に言及されている多くのサマリや人の信仰は真実な信仰、それに対して、13節に言及されているシモンの信仰は、頭だけの見せ掛けの信仰と理解することはできない。共に、真実な入信経験が言及されている。
さて、ここでここに考えようとしている課題に直面する。真の信仰者となったとすれば、シモンは何故、18節以下に書かれているような態度を取り、そのような考えを抱いたのであろうか、という問題である。筆者は、これがある人が生きた過去がもたらすきよめの課題と整理している。霊的には真実な回心を経験し、霊的に新しい者とされても、必ずしも、その人生観・価値観など人生に関わる全体に決定的な変化を見るわけではない。そのような変化は、回心・新生の後に、みことばの光に照らされ、聖霊に教えられて徐々に気づくことによって、変えられてゆく面がある。これが、民族的・家族的な過去の清算と並んで、「きよめ」の漸進的な面、個人的な過去の清算に関わることなのである(「霊的回心」と「知的回心」−思いの刷新、ローマ12:2)。
結 論:
4重の過去のうち、聖霊の瞬時的なみ業として期待できるのは、人類的な過去、即ち、人祖アダム以来の「肉」の問題で、それは、私たちが第一のアダムを離れて、第2のアダムの結ばれたことの意義を、実効化することによって瞬時的に経験される。それゆえ、この面での「きよめ」を「効果的きよめ」と称することは、極めて妥当なことと判断される。
その他の過去との取り組みは、漸進的になされてゆき、それぞれのもたらす課題と向き合って、その課題を主イエスの十字架の恵みと結びつけることができたとき、ひとつびとつの課題が、十字架の恵みによって解決されて行くのを見るのである。
このように「きよめ」とは、全体的にみるならば、多くは漸進的であるが、そのプロセスのうちに、ある瞬時的な聖霊による「効果的なきよめ」のみ業がある、というのが、「ウエスレアン的きよめ」の理解で、この神学においては、瞬時性と漸進性がバランスを保って、「きよめ」の教理が成り立っているのである。