明治政府      近代国家成立の始まり。  平成28年2月3月 鳥取木鶏会輪読中

天皇の外交親裁、幕府の締結した条約遵守の対外発表。明治天皇は新政府の方針である「五箇条の御誓文」発表。国民には「五榜の掲示」を公布。

           至高最善の国家目標五箇条の御誓文   

1.広く会議を興し万機公論に決すべし。

2.上下心を一にして盛んに経綸を行うべし。

3.官武一途庶民に至る迄各々其志を遂げ人心をして倦まさらしめんことを要す。

4.旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし。

5.智慧を世界に求め大に皇基を振起すべし。
わが国未曾有の変革をなさんとし、陳躬を以て衆に先んじ、天地神明に誓ひ、大いに斯の国是を定め万民保全の道を立てんとす。衆亦この旨趣に基き、協力努力せよ。
これに難癖ある向きもあるが、無知と社会主義に毒された戦後文化人・マスコミ・日教組・社会党など知性と冷静さに欠けたものと指摘しておく。世界的にも国家の在り方としてこれに勝るものはない。

五榜の掲示   庶民向けのもの。

1.人倫の道を守ること。

2.徒党・強訴の禁止。

3.キリスト教を邪宗門として禁止。

4.外国人への暴行禁止。

5.郷村からの脱走禁止。(幕府時代からの政策)時代激変の経過的保全措置である。

徹底な三権分立      

新政府は五箇条の御誓文の方針に基き政治組織を固めた。太政官にすべての権力を集中した中央政府で、その下に七官を置いた組織である。アメリカの官制を模倣している。然し、明治政府の三権は高度な独立性に欠けた。これが敗戦を経て150年後の今日まで真の三権分立として機能し確立しない牢固たるものとして尾をひいている。五箇条の御誓文は民主主義として欧米諸国に比しても遜色ない原理であるが、三権分立制度の基礎固めが不徹底であり今日まで機能しなかったと言える。この為に、昭和初期の軍部独走、大東亜戦争の対米和平の不成功、米ソ冷戦後のマネー戦争などの敗北時に柔軟性を欠く軍部官僚を含む官僚主導の政策となり立法府の主体性欠如が戦前戦後を問わず幾多の致命的国益を損じた元凶となった。これは朝日新聞をはじめ日本のマスメディアが真のジャーナリズム精神の発達に於いて21世紀のいまなお後進性がある事と無関係ではない。

廃藩置県と現在の改革   

明治4-18717月廃藩置県を断行。これにより新政府の政治的な国内統一が完成し封建制度が平和裡に廃止された。諸侯は華族、藩士、旧幕臣は士族、下級武士は卒、農工商は平民とされた。明治4年に身分解放令-壬申戸籍―わが国最初の近代戸籍―が出され表面的には四民平等が実現したが真の解放は対米敗戦後を待たなければならなかった。家禄を失い更に明治9年には廃刀令で士族の特権も消失し政府に対する不満分子の憤激も強くなり社会的には大きい混乱動揺があったのは当然である。明治維新は世界史的に見ればフランスの革命のように血なまぐさいものではなく、シナのような易姓革命でもなく、日本的な風土に生じた人間的温厚革命といえ人間のレベルの高さを証拠づける。これはシナ文明に毒されていない証左でもあろう。現在の国難的、経済財政悪化を思う時、歴史に学ぶとは、国家再生には武士の特権放棄を見習うべきであり、それは廃県置道、国会議員の半減、公的職員大削減による一大改革を先導する事でなくてはなるまい。

神仏分離     

神仏分離令が明治元年―1868年に出され廃仏毀釈を招き幕府の保護を受けていた仏教は大打撃を受けた。神仏混淆は中世に発した極めて日本的なものであるが、分離令は神社から仏教的要素を除外し王政復古、祭政一致の理念に基づいたものである。古来の純粋な神道の姿に戻ろうとし明治3年、政府は「かんながらの大道」を天下に布教せんとした。この事は格別不思議ではない、縄文以降の大和民族の信仰に戻ったに過ぎない。これを昭和になり政治や軍部が悪用したのが大きな過ちであり、それは対米敗戦後の今日まで、神道が国内的にも国際的にも大誤解を招き、靖国問題にまで尾をひいてしまった。民族土着信仰を米国占領軍に否定されそのまま今日迄従うとは日本人とは一体何物なのかとさえ思われる。多くの日本人は気づいていないが神道の原理は21世紀の地球を救いうる普遍的原理を保有している。明治時代に米国宣教師某が日本の神を西洋神ゴッドと同様なものとして翻訳し国際化しそれが定着したのは痛恨の極みである。キリスト・イスラム・ユダヤなど目には目の一神教のゴッドと、自然への感謝の神道の神は根本的に異なる事を国民は銘記し真の理解に努めなくては日本は国際理解されないのみか優れた伝統文化も真に理解できない。

国民皆兵     

欧米列強のアジア侵略と遠慮無い植民地化の姿とか列強の軍備を驚異の眼で見た新政府にとり近代的な軍隊を作ることは国防上最重要課題の一つであった。初代兵部大輔大村益次郎は国民皆兵の徴兵制度を唱え、山形有朋が志を継いで新兵制の確立に努めた。明治6-1873年徴兵令が定められた。以後、原則として満20才に達した男子全員が身分に関係なく兵役の義務を負う制度が整った。特権を奪われた旧武士の士族の反感、流言もあり人心不安を誘発したが、これは大変革の時代には必然のことでもあろう。近代的な警察制度も進み明治7年東京に警視庁が創設された。このように新政府は国家諸制度の近代化を驚くべく急速に進めた。

貨幣制度と殖産振興       

明治4年金本位制を確立し1円金貨を本位貨とし、円・銭・厘の硬貨を発行。同5年米国ナショナルバンクの制度を模倣した国立銀行条例を制定。工部省を設置して鉱山の政府直営、工学寮は技術者の養成であり大阪の砲兵工廠、横須賀、長崎の造船所の整備に当たる。外人指導の基に製糸工場で生糸の生産拡大に努めた。内務省は各地に官営模範工場を作り勧業政策を推進した。明治2年には蝦夷地を北海道と改称し開拓使を置いて米国式大規模農業を試みた。叉、屯田兵を置き開拓に努めた。交通、通信も整備が急速に進んだ。明治5年には新橋・横浜間の鉄道開通。大阪・神戸、京都・大阪も開通した。佐賀の乱や台湾出兵の軍事輸送を任せられた岩崎弥太郎の三菱が政府の手厚い保護を受けて発展した。明治4年に官営郵便制度が実施され全国に広まった。このように、短期間に一挙に先進国への道を進みだしたのは、日本人特有の好奇心と新し物好きが背景にある。同時に江戸時代からの一般庶民のレベルの高さが他のアジア諸国と大いに異なり近代化の素養十分の庶民の知的基盤があったからでもあろう。

明治の外交課題ー朝鮮半島    

1.当時わが国が抱えていた最大の国家目的の一つは欧米諸国の恫喝と無知と武力の故に幕末に締結した不平等条約の改正であった。明治4年右大臣岩倉具視を全権大使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを従え使節団を欧米に派遣した。先ず米国で改正交渉、最恵国待遇があり米国一国だけでは改正が成立しないので打ち切った。その後ヨーロッパ諸国を歴訪し見聞を広めた結果、条約改正の前提には内治整備が急務と痛感し帰国。事後条約改正は明治末期となる。これは欧米諸国の論理と一方的ルールの押し付けであり彼等の植民地収奪の手法である。現在の国際金融経済の手法と酷似している。これらへの対抗策はやはり論理と力と情報、外交能力武力を背景にしなくては対抗は至難と見られる。16世紀以来、世界の屋台骨を支えてきた彼らの財力、情報、人脈、武力と連携が背景として大きなパワーであり農耕民族は彼ら狩猟民族に対抗は所詮無理があるのかもしれない。それ故に国益を守るという命題は国家戦略として常になくてはならぬが今なお国家的反省が全く無きに等しい。明治維新の元老にはあの鎖国の中にあってそれを保有していた。これは国家国益を死守するという白刃の上を渡る思いの所産であろう。

明治の外交課題ー朝鮮半島    

2..江戸時代から友好関係ある朝鮮と新たな国交を開こうとした。鎖国の朝鮮は1637年から清国への朝貢国であり、従来の慣習に異なるとして天皇の名の国書を拒否し続けた。天皇の皇は清国の皇帝のみ使うとした。現在でも日本国の象徴である天皇を日王と呼ぶなど非礼極まりない韓国である。これでは真の友好関係は無理であり頑迷固陋さは少しも変わらない。この封建的な朝鮮はロシアに狙われており世界の欧米覇権に対抗して生きようとする日本の弊害であった。放置すれば朝鮮はロシアの植民地化は必至であり日本の安全の為に絶対に避けねばならぬ事態であり、これは当時の国際的常識で判断しなくてはならぬ。これが朝鮮を日本が併合した原因である。政府は次第に強硬論となり明治6年板垣退助は軍隊派遣を主張、西郷隆盛は使者派遣を提議、全権大使として朝鮮に渡り先ず開国を要望して事態の打開を図ることを主張し閣議決定。処が欧米視察から帰国の岩倉具視は強く反対、内治優先を主張し閣議決定を覆した。西郷は辞職し、板垣退助、江藤新平、副島種臣の参議も下野し政府首脳は分裂した。

明治の外交課題ー朝鮮半島    

3.閣内の征韓論争後も政府は朝鮮との修好を計ったが進展しない。明治8年江華島沖で測量など示威行動をした軍艦に朝鮮の砲台から攻撃を受けた。翌年、朝鮮に使節を派遣し開国を要求し日朝修好条約を結ばせた。この第一条に、清国の宗主権を排除し朝鮮は独立国である事を掲げさせ朝鮮の独立を日本は支援した。清国はあくまで宗主権を誇示し朝鮮に干渉、為に半島南下を図るロシアに対しても日本は外交交渉をすることとなる。このように宗主国、―清は漢民族でなく本来は化外の民の筈だが----以上に儒教にどっぷり浸かる李朝、朝鮮には全く自主権がない状況であった

琉球台湾千島  

清国とはほぼ対等の関係にあったが琉球問題で紛争が生じた。廃藩置県に際して琉球を鹿児島藩に編入したが翌年琉球藩とした。琉球国王尚泰を藩王として華族とした。明治4年琉球民が台湾で殺害された。この時清国は、台湾島民には二種類あり、清国に従わない島民は「自国の支配の及ばない化外の民」と称して責任を放棄した。よって政府は明治7年軍隊を台湾に派遣し占領した。大久保利通の北京での事件解決交渉も難航、英国の調停により妥協成立。清国は日本の台湾出兵を義挙と認定し賠償金支払いで解決した。これにより琉球問題は解決し明治12年琉球藩を沖縄県とした。明治8-1875年ロシアと「樺太千島交換条約」にて樺太全島をロシア、千島列島全島を日本領土と決定した。対米敗戦後、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破り、泥棒猫の如く満州に侵入し数十万の日本人を拉致したが千島列島も占領したままである。

西郷隆盛     

今なお国民的に人気の高い人である。茫洋としたタイジンの風格は魅力がある。西郷は早くから西洋を学んでいて開国論者の橋本左内とも交友あり叉福沢諭吉の書物も読み絶賛している。然し本質的には東洋的思想による政治哲学の保有者である。西郷隆盛の「南洲翁遺訓」には次ぎの言葉がある。「文明とは、道徳があまねく実現されることであり、立派な宮殿が建設されたり、きらびやかな衣服をまとったり、外観が派手になったりすることではない」「真の文明国とは、未開の国に対して慈悲をもとに開明に導くべきで残酷な方法で利益を求める西洋のやり方は野蛮というべきだ」と記されている。―愚生の潮流寄稿―西南の役では賊とされたが、西郷挙兵の精神には非難すべき点はなく政府が西郷を死にやったと福沢諭吉は論じたし中江兆民や内村鑑三も西郷を支持した。西洋式の官軍が薩摩士族を破り西郷は自刃した。西南の役を最後に武士の反乱も終わり名実共に武士の時代は終焉した。然し、武士の精神を持ちつつ近代化を進めよという西郷の識見と気概は当時の人々の共感を呼んだ。現代もそれは極めて大切である。これを忘れているからこそ21世紀の今日の悲劇を招いたと言える。この500年間に渡る欧米諸国の世界植民地化は野蛮主義そのものである。これはいまなお不変の彼等の本質的要素であり21世紀の現在でも国際政治・金融・経済での野蛮なる手法は変わらない。この歴史的事実をしかと認識した上での対米同盟、日本の主権確立が絶対的に必要である。

文明開化

教育と啓蒙思想      

文部省は明治4年に新設。フランスの学区制を模倣、学問は国民が身を立て智を進め産を作る実学主義が説かれた。福沢諭吉、新島襄、大隈重信などの特色ある私学により人材も輩出した。明治7-1874年には500名以上がイギリス・アメリカ・フランスなど海外留学をした。福沢は英米流の功利主義・自由主義で人間の自由・平等・独立の精神と実学を尊重した。フランス、ドイツなど西洋の新しい思想が大いに紹介された。明治3年最初の日刊新聞、横浜毎日新聞であるが、相次いで新聞・雑誌が新思想の普及に大きい役割を果たした。怒涛のような欧米化の進展が見られるが、西郷隆盛、佐々木高行等の伝統精神が伴わず、これが日本の百年後に大きい禍根を残すこととなる。

文明開化の音がする

政府は率先して西洋風俗を採用し奨励した。明治4年散髪令により、ざんぎり頭が増えた。軍隊での洋服や靴が官吏や警察も着用、一般にも広く使用されるようになった。牛肉を食べるようになった。銀座の赤レンガの建物、石油ランプ、ガス灯、馬車、人力車も登場。明治5年には太陰暦から太陽暦にした。それは明治5-1872-123日を明治611日とした。一週間七日制とし日曜日を休日とするなど、国民生活が一挙に西洋式に変化してしまった。この明治初年の文明開化の風潮は対米敗戦後のアメリカ文化へ一挙に従属したのと同様で、余りにも日本文化を捨てすぎたと思われる。貴重な仏像、浮世絵など伝統的美術品をさも後進のように思い、したたかな外国人の手に渡ってしまった。対米敗戦後にこの傾向が一段と進み、敗戦後60年で、日本の日本らしいものが消失したばかりか、日本人と思えぬ青少年が育ってしまい、2000年の伝統ある国家の矜持を放棄させてしまった。その第一次が明治初年の文明開化であり軽薄の謗りは免れまい。新しいものへの好奇心は日本人の長所であり欠陥であるが、国家のアイデンティティ喪失にまで及ぶとは民族的大問題と思われる。

ベルツの見た日本人       

明治初年の日本の風潮はどんなものであったか。明治は余りにも日本の伝統文化を捨てすぎた第一次と記載した。当時の教養と知性ある白人は日本をどう見ていたのか、実に興味深く示唆に富む読み物がある。明治91025日付ベルツの日記である。[我々中世の騎士時代の文化状態にあったのが、昨日から今日へと一足飛びに、我々欧州の文化発展に要した5百年たっぷりの期間を飛び越えて19世紀の全成果を即座に、しかも一時に我が物にしようとしている。・・このような大跳躍の場合・・これは寧ろ「死の跳躍」と言うべきで、その際、日本国民が首を折らねば何よりですが。・・何と不思議なことには、現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした。」と私に言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、我々の歴史は今からやっと始るのです」と断言しました。]この日記はドイツ医学者で日本で著名なベルツ博士である。唖然とする程に対米敗戦後、伝統文化を捨てて省みない現代日本人と変わらない。西洋は野蛮じゃ、と本質を喝破した西郷隆盛、日本は近代法律と技術以外は西洋に学ぶ必要なしと見識を示した佐々木高行が偲ばれる。

余談
白人優位     

不平等条約の改正交渉を有利に進めようとして行った極端な欧化政策を象徴する言葉が鹿鳴館であろう。これは甚だ悲壮で滑稽である。国民は反発した。明治19年のイギリス船ノルマントン号事件―日本人20名を乗せて横浜から神戸へ行く途中、和歌山沖で沈没、船長以下乗組員全員脱出、日本人全員水死。神戸の領事裁判所は船長無罪、横浜領事裁判所では船長禁固3ケ月、賠償なし。国民は憤激、外国人が裁判権を握っている以上、正当な裁判は行われないと完全な法権力回復を求める声が沸きあがった。万国国際法という欧米に都合のいい法を力で押し付け後進国を人間扱いしない白人優位の人種差別である。これが日本国をして白人の人種差別撤廃へ向けて堅く志を持つ事となって行く。