このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
. . 「こうして彼らは互いに別れた。」 創世記13: 1〜18
■ 井戸を掘りましょう:
. 多くの大学などが春休みに入りました。成田空港は連日、春休みを利用して海外に出る人々で混雑している様子です。春休み、夏休みになると、日本では、まるで民族大移動が始まります。人々が国外へ国外へと出て行くからです。
. 先日から学びはじめたアブラム、または、アブラハムの時代は正しく民族大移動の時代でした。チグリス、ユウフラテス川の河口デルタ地帯、メソポタミア地方と呼ばれ、古代文明の発祥の地とされている地方から、人々は新天地を求めて、川添いに西へ西へと移動していました。メソポタミアからエジプトまで半円状を描いたいわゆる"肥沃な孤状地帯"を人々は移動していたのです。
. そうした移動してゆく人々に混ざって、アブラム一行の姿がありました。しかし、彼らは他の人々とは全然異なった目的、動機を抱いていました。しかし、そのことは当時の人々には判からなかったことでしょう。聖書はアブラム一行の出発は「栄光の神」の顕現によるものだと言っています。先週学びましたように、ハランにあったアブラムの心には、弟の死を悼む気持ち、妻サライの不妊を情けなく思う気分、そして、父テラゆえの目的の挫折を悲しむ思いなどが去来していた事でしょう。しかし、それらの人間的な思いと共に、それらに勝って、栄光の神が彼に現れ、彼に国、親族、父の家を離れて出て行くように命じられたからなのです。アブラムは命令に従い、先ずはハラン、そして更にカナンへと移ってゆきました。
. 今朝は13章を読みましたが、12章の後半にはカナンに飢饉があったことが記録されています。カナンは非常に雨の少ない地方で、そのため飢饉がしばしば起こりました。アブラムはエジプトに下って行くことに決めました。人は困難に直面すると未知の地に進んでゆこうとするより、元きた処に戻ろうとします。未知の処より、良く勝手を知った処の方が困難に対処しやすいように思うからです。また、或いは、助けの手を伸べてくれる親族や、友人に出会うかも知れません。しかし、アブラムは戻ろうとせず、エジプトへと前進して行くほうをとりました。偶像教との決別が断固としていたからです。昔の生活に戻ることは毛頭考えませんでした。
T 今朝先ず第一に、アブラムという人物 について学びましょう。
. 12:2を見ますと、神はアブラムに対して「あなたの名を大なものとしよう」と語られました。神が語られた通り、4千年たった今、アブラハムは、ユダヤ人の間では"父祖"、クリスチャンの間では"信仰の父"、また、イスラム教徒の間では、"予言者"とされており、世界中の人々から敬われているのです。
. 今、世界中が、イスラム教の予言者を冒涜したとしてイギリスの作家に、あのイランのホメイニ師が懸賞つきの暗殺命令を出した、ということで大騒ぎになってきています。死刑宣告の理由は、予言者のわるぐちを書き、予言者を冒涜したというのです。いづれ、イラン=イラク戦争が終わり、国民意識を高揚し、国民を統一する為の何か"餌"が必要だったのだろうとは思いますが、、、。その目的で誰かに対する敵意をあほるというのは、指導者の取る常套手段といってもよいでしょう。
. いづれにしても、アブラハムはそうしたイスラム教徒の尊敬する予言者の一人となっています。
. しかし、アブラムは最初からそんなに偉大な人物だった訳ではありません。私たちと同じ凡人とも言えるのです。彼はカナンに飢饉があった時、偶像に満ちた生れ故郷に戻るまいと決心して前進したまでは良かったのですが、エジプトに下っていった時、ある事に直面しました。エジプト人の不道徳、乱暴について耳にし、彼は恐れました。アブラムはユダヤ人で、メソポタミア地方の出身です。今のイラン、イラク地方の人々と同様、目鼻立ちの整った人種でした。エジプトにいたのは黒人系のエチオピア人です。往年の裸足のマラソン王アベベを思い起してください。彼は、妻サライがエジプト人の厚意を得るかわりに、自分が邪魔になって殺されはしないだろうかと恐れ、サライを妹であると偽りました。こうして、自分の命を救おうとしたのですが、偽るなど、神の民にはふさわしくない行動にでたのです。これは赤らさまな偽りでした。
. アブラムはその信仰、神への服従において優れてはいました。しかし、他面、彼も凡人でこの世のやりくち、常識的な生き方を身につけた人物だったのです。神はこうした人物を御手におさめて、聖徒に作りなしてくださるのです。
. 来週ブラジルから、国広清子師が来られる事になっていますが、ブラジルという国は、鉱物資源が豊かな国です。サンパウロ市内には多くの土産店がありますが、店先に外側から見たら、何の変哲も無い石ころが置いてあります。宝石の原石だそうで、磨くと大変な価値になります。
. 創世記13章に見るアブラムは磨かれる前の原石で、美しくないもの、磨きおとされなければならないものを、多く持っていました。神は凡人、否、欠点の多く持つ人々を選んで、聖徒、偉大な人物へと作り上げてくださるのです。
. 創世記に登場するもう一人の聖徒、偉大な信仰者ヤコブも、問題児でした。彼の名イスラエルは、後でこそ、その子孫の国の名に用いられましたが、前のヤコブという名は、もともと「押し退ける者」という意味です。ヤコブは自己中心的な生き方をしていた人物でした。しかし、神は20年、30年という歳月をかけて、彼を磨き上げ、不必要な部分を削りおとし、聖徒に完成してくださったのです。
. 信仰者は名工の手にある荒削りの原石です。そのままでは、あまり価値はありません。しかし、名工の手が加えられると、ミロのヴィ−ナスのような無限ともいえる価値を有した作品に変貌するのです。
. アブラムは偽り、罪を犯しました。まさに、失敗の人生でした。彼は神に扱われ、再びエジプトからカナンへと戻って来ました。その時、彼はエジプトのパロからのプレゼントで裕福な身だったのです。多くの家畜を所有していました。
. しかし、この多くの家畜を所有しているということがアブラムにとって新しい問題となってきたのです。彼の人生同様、私たちの人生もひとつの問題を解決するとまた、次の問題に直面します。アブラムの甥ロトもアブラムと同様多くの家畜、羊や牛の群、を所有していたのです。アブラムとロトのふたりが同じ地域に留まって、その多くの家畜を養えるほど豊かな牧草地はありませんでした。羊や牛の食べる草が不足して、アブラムの牧者とロトの牧者との間に牧草地争いが生じてきたのです。13:6、7をご覧ください。
. アブラムは彼の証しの生涯に危機を感知しました。信仰者同志で争いがあったのでは周囲の異教徒の前に証しが立ちません。アブラムが故郷のカルデヤのウル、そして、其処に住む家族、親族を離れたのは、彼らが偶像教徒でだったからです。アブラムは彼を召してくださった真の神を新しい地で証しする使命を帯び、彼はその事実を強く自覚していました。家の子たちの間に争いがあったのでは、その使命があやふくされます。証しが全うされません。解決はアブラムとロトのふたりの群が別れることでした。
U アブラハムの選択
. さて、アブラハムとロトが別れるに際して、アブラハムの方が年配者であり、いわば、移民団全体の責任者であったのです。彼がプランを作成して、ロトにそれに従うようにしたとしても何も不思議はありませんでした。しかし、アブラハムは全然異なったアプロ−チを取ったのです。
. 第9節をみますと「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」とあります。甥のロトに選択の特権を与えたのです。ここにアブラハムの寛大さ、余裕、また、勇気ともいうべきものをみます。
. ロトはアブラハムのことばを受けて、10節、「目を上げて、、、見渡すと」とありますが、アブラハムのことばを当然のように受けたのでしょうか。それとも行間に記録されてない会話があって、ロトは年長者のアブラハム、伯父にあたるアブラハムに「いいえ、どうぞ伯父さんが先にお選びください」とでも言ったのでしょうか。
. ロトは目を上げてみました。このロトの行為から私たちは人間的な観察の限界を知ります。
. 人間的な観察は、第一に、時を越えることができません。ロトが見た時、ヨルダンの低地は豊潤で、「神の園」、また「エジプトの地」のようであったと書かれています。しかし、聖書のこの先の記事から、私たちは神がやがてその低地にあったソドムとゴモラという町を滅ぼされる日が近かったことを知ります。しかし、ロトにはそれが見えませんでした。分かりませんでした。神の導きを仰がず、資料に基づいて只人間的な判断をくだす人は皆、このわなに陥ります。人には将来を漠然と予測することはできても、将来を見通すことはできないのです。私たち人は、「今」の存在です。占い、デ−タ−に基づく予測、人は様々心を用いますが、未来は神の手にのみあります。
. また、第二に、ロトの観察から、人が以下に外的繁栄に心を奪われて、その内側にある腐敗の事実に気づくのに遅いかを学びます。
. いま私たちの社会問題となっているいわゆるリクル−ト社の問題にしてもどうようのことが言えます。
. 江副前社長は無から有を生じさせた天才的な事業家であると言われています。就職という儲けにはなりそうにも無いものを取り上げて、大儲けしたのです。リクル−ト・グル−プというものは急成長しました。しかし、その成長の陰には贈賄があり、まさしく腐敗があったのです。
. ソドム、ゴモラは低地の町として、繁栄していました。人々の出入りは多く、その城壁や町並みは素晴らしかったに相違ありません。外的なものは勝れていました。しかし、その町の壁の中には腐敗、この上もない不道徳が公然と行われていたのです。しかし、ロトの観察にはそれは見えませんでした。
. もうひとつ、ロトが目を上げて何かを見ようとした時、見えなかったものがあります。それは彼に人生に関する神のみこころです。神が彼の生涯を通して何をしようとしておられるのか、彼には分かりませんでした。ロトは神を、アブラハムという身近にいた人を通してのみこころに留めていましたので、彼の伯父さんのようには、個人的に神を待ち望み、神の彼に対するみこころを求めたことなどなかったことでしょう。彼は自分の判断のよしとする道を、彼自身の目によしとする道を選び取っていたのです。
. 纏めてみましょう。ロトは目を上げはしました。しかし、年月を越えた未来、すぐ近くの未来さえ見ることができませんでした。彼は外側の繁栄に隠れた腐敗、不道徳を見抜けませんでした。また、彼は神のみこころを弁えず、その結果、自分の道を選ぶこととなったのです。
. 一方、アブラハムの方は神からの語り掛けを待って、はじめて目を上げました。アブラハムのは信仰による展望でした。
. 12:4、アブラハムは出て行った、とあります。同様にロトも出て行きました。13:5、アブラハムは多くの家畜を持つに至りました。ロトも同様です。13章、ロトは目を上げました。アブラハムも目を上げました。こうしてみますと、ふたりは同じようなことを行っています。
. しかし、ふたりの大きな相違は、一方アブラハムが神のみこころに従って行動しているのに対して、他方、ロトは自分の願望、判断で動いているということです。いままで、この二人は行動を共にしていました。しかし、ふたりが別れる時がくるのは必然的なもので、外的には同じように見えても、ふたりの取っていた原理が異なっていたのです。信仰の原理とこの世の常識の原理はしばしば相入れません。いつまでもこのふたつが手に手をつないで行くことはできないのです。何処かで決別の時を迎えます。
. 結婚に際して「信仰者は信仰者と」と言われるのは、この故なのです。アブラハムとロトの場合、伯父と甥の関係でしたから別れて住んでも、家庭が破壊されるということはあありませんでした。しかし、もしこれがアブラハムとサラとういう夫婦関係だったらどうでしょうか。最初行動を共にしていたものが、人生のある決定的瞬間に相違を生じてしまったら、、、。ひとりが外的なものを見、それを求め、他は内的なものを価値高いと考え、それによって人生の選択を行ってゆこうとしたなら、そこには夫婦の一致はありません。同じものをみていながら、異なった方向に歩んでゆく結果になります。これは夫婦にとっては悲劇です。あってはならないことです。
. 12:1、アブラハムは「どこに行くかを知らないで」出かけて行きました。12:7、カナンについた時、「この地を与える」という約束を受けました。そして今朝のテキスト、13:15では、「見渡しているこの地全部を、、、与えよう」という神のみことばに接しました。神のみこころは、このように徐々に徐々に明らかにされるものなのです。凡てが一時に開陳されることは先ずありません。
. 私たちに対しても、私たちが一歩一歩従っていると、神のみこころが段々明らかになってきます。
. 夜運転していますと、車のライトに切り換えをします。遠目のライトは名の通り、遠くまで照らします。近目のライトはある距離しか照らしてくれません。いずれにしても、ある速度で進につれて、光の輪は先へ先へと進んでゆきます。信仰生活における神の導きは、近目の方で、余りスピ−ドで進むわけには行かないようです。スピ−ドを出し過ぎると、先が見えません。
. 今朝私たちは、アブラムの生涯のここに記されている出来事から3つの真理に心を留めました。
. 第一は、神は凡人を聖徒に作りなしてくださるという真理です。アブラハムは虚偽という罪に陥りました。信仰の失敗に直面したのです。しかし、神は彼を見捨てないで、アブラムを守り、導いてくださいました。
. 第二の真理は、私たちの真の一致は内的なものにあると言うことです。外側で一致しているようにみえ、行動を共にしていても、内的一致のないところには必ず、分離の時が訪れます。ロトはアブラハムから別れていかなければならなかったのです。
. 第三、そして、最後に、神のおん約束は必ず成就するということです。神のみこころではなく、自分の願望の道に歩んだロトは手にしたものさえ、やがて失います。しかし、アブラハムは神の約束されたものを入手したのです。入手するまでの経緯は大変なものでしょう。しかし、神のお約束は必ず従う者の生涯に成就するのです。(1989/ 2/19、礼拝)
■ アブラハムの生涯「栄光の神が現れて」:第3講
■ キリスト、ペテロの足を洗う