. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。

序    文

   創世記11章の終わりから25章まで、15章にまたがって記録されてい るアブラハムの生涯を、2月12日から学び始めて、10月15日に学び終 える迄、18の聖日を用いました。途中、イ−スタ−やペンテコステなど、節期 毎のメッセ−ジがはさまったことは言うまでもありません。

   既にクリスチャンと「なって」いる方々に対しての、クリスチャンとして の自覚を持って信仰生涯を「生きる」とはどのような事なのかを共に学んだ 実り多い8か月間でした。キリストの十字架によるあがないに依り頼み、 神との交わりのうちに、神の証し人として地上生涯を送ることの意義を、ア ブラハムという旧約時代の人物に目を留めながら、学びとろうとした。私た ちがこの地上生涯で直面する数々の問題、罪への傾き、時代の風潮、夫婦の 関係、親子関係、別離の悲しみ、結婚、死など、誠に様々な題目が含まれて の学びでした。

   4000年という年月の隔たりを感じさせないように、また、神のことばであ る聖書が現代に語るかみの声であることを印象づけるため、できるだけ多く、 私たちが生きている時代のニュ−スと結つけて、アブラハムの崇高な生涯か らのレッスンを汲み取ろうとしました。それはあmた、こうして活字となったメッセ −ジを後で読む人々にとっては、これらのメッセ−ジが最初に講壇から語ら れた時代の雰囲気を思い起す助けとなることと思います。ある説教学のテキスト ・ブックに"縦糸を聖書から、横糸をニュ−スから取って説教を織りなすよ うに"と書かれていたのを記憶していまます。

   アブラハムを偶像に満ち満ちた町から召し出し、聖徒として、また、ご自 身のための証し人として、造りなしてくださった栄光の神が、私たちをも、 同じ目的のために、即ち、神のみこころに従って生きる者となるよう、祝福 をもって、現れ、私たちに望んでくださるように祈り、願いつつ(下にスクロールすると、第1講がでてきます)。

          第1講: 栄光の神が彼に現れて        創世記12:  1〜9
          第2講: こうして彼らは互いに分かれた       13: 1〜18
          第3講: アブラムは召集して、追跡した       14:11〜24
          第4講: 彼は信じた。その信仰を義と        15: 1〜21
          第5講: 主の使いは彼女を見つけ          16: 1〜16
          第6講: わたしは全能の神である          17: 1〜16
          第7講: 御霊による心の割礼            17: 1〜14
          第8講: サラがあなたに産むイサクと        17:15〜27
          第9講: アブラハムは天幕のサラの処に       18: 1〜15
          第10講: 他にあなたの身内がいますか        19: 1〜17
          第11講: アブラハムはそこからネゲブへ       20: 1〜18
          第12講: 長期の期待に応えたもう神         21: 1〜21
          第13講:その処で永遠の神、主の名によって     21:19〜22
          第14講: 神ご自身が備えてくださる         22: 1〜14
          第15講: アブラハムはサラを葬った         23: 1〜20
          第16講: 息子イサクのために妻を迎えなさい     24: 1〜21
          第17講: 主が成功させてくださる          24:27〜52
          第18講: アブラハムの死後、イサクは        25: 1〜11

「アブラハムの生涯」からの礼拝説教: 第1講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「私たちの父祖アブラハムが、ハランに住む以前、、、栄光の神が彼に現れ、、、。」        創世記12: 1〜11、使徒の働き7: 2〜 8 

  ■ 井戸を掘りましょう:

.   私たちの教会(インマヌエル東大和教会)での礼拝のメッセ−ジを振り返ってみますと、元旦、その他の、その折々のメッセ−ジは別として、通常新約聖書からのメッセ−ジが基調になっています。昨年は主として使徒の働きとテモテへの第一の手紙が開かれ、用いられました。勿論、祈祷会や、早天などでのメッセ−ジはこの限りではありませんで、可成旧新約聖書の広範な箇所からみことばが取り次がれています。

.   さて、教会総会を越えて年会までのひと走り、今日を含めて6回のメッセ−ジ、旧約聖書からメッセ−ジを取り次ぐよう導かれています。今年は「いま一歩前進の年」をこの年の標語と定めました。前進すべき分野のひとつに「聖書の理解、実践」が挙げられています。それで今迄の新約中心から、旧約へと私たちの聖書の理解の幅を増し加えてゆきたいと思います。

.   旧約聖書へのアプロ−チといっても様々なアプロ−チがあります。新約聖書、即ち、キリストの事実との関連において旧約聖書の骨組みを学のもそのひとつの道です。又は、旧約聖書の各書を取り上げ、そのメッセ−ジを学のも、また益があり、楽しいものです。旧約聖書の様々な題目に注目することもできます。しかし、今回はひとりの人物にスポット・ライトを当てて学ぼうと思います。その人物とはアブラハムです。

.   彼は旧約聖書の最初の書、創世記に登場する人物で、昔、アブラムと呼ばれていました。あぶらむとは「高められた父」という意味です。アブラハムとは「多くの民の父」を意味します。「高められた父」は関心、興味が自分の方に向いていますが、「多くの民の父」はその関心が他の人に向けられている事を暗示しています。改名は内的な変貌の証しで、信仰生涯にこの内的な変貌がなかったなら、その信仰は、塵や芥のように、価値の無いものです。神を知るということは、変貌されることです。

.   私たち日本人の場合、改名するのは、姓名判断に凝ったり、結婚して家庭に入り、夫や妻の姓を名のったりする場合です。また、犯罪をカモフラ−ジュする場合に、名を変えるかもしれません。アブラハムの場合は、内的な変貌の証しだったのです。

.   さて、創世記は全部で50章あります。1章から11章までは、4つの出来事=創造、堕罪、洪水、バベル=で覚えておけばよいでしょう。後半12章から50章は4人の人物で覚えるのが一番簡単です。即ち、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの四人です。アブラハムの生涯は11:27から、25章の前半にまで、14ヵ章に記録されています。

.   さて、今朝はその最初の部分に目を向けましょう。

.   T アブラハムの新しい出発の背景

.   彼の生れ故郷はカルデアのウルとされています。文明の発祥の地と言われるメソポタミア地方のある町でした。それがどのような町であったかは後に言及しましょう。先にアブラムの家族を見てみたいと思います。

.   彼の父はテラと言い、アブラムはその長男でした。兄弟が三人いたようですが、聖書に初めて登場した時には、彼らは成人していました。12章4節には、アブラムは75才だったと書いてあります。175才まで生きた人物ですので、或いは、人生80年の長さに換算しますと、30才に相当したと考えられるかもしれません。いづれにしても、彼の聖書への登場は責任ある社会人としての登場です。

.   ついでながら、日本人の研究者によって非A非B肝炎のウイ−ルスが特定されたというニュ−スを聞きましたが、治療法が見出される期待が掛けられています。こうした問題をひとつひとつ克服してゆけば人間の寿命は120才位までは伸びると言われています。条件が整えば、175才も可能かもしれません。

.   さて、アブラムはもう結婚していて、妻の名はサライと言いました。子どもはまだ居ませんでした。

.   アブラムのそれまでの人生をちょっと想像してみましょう。11:28には、兄弟「ハランは、、、カルデヤ人のウルで死んだ」とあります。アブラムは比較的若い時に、その兄弟の死にであったのです。病気だったのでしょうか、何か事故だったのでしょうか、何が原因かは判りません。いずれにしても兄弟、または、親しい者の死は、私たちに人生へのアプロ−チを変えさせます。

.   宗教改革者となったマルチン・ルッタ−は、友人の死に出会い、突如学業を投げ打って修道院に入ってしまいました。落雷で友人がルタ−の目前で死んだのです。私も大学に入って直後の事でした。高校時代のクラス・メ−トのひとりが自殺して死んだという事を耳にしました。その時「何故、何で」と考え、しばらくそのことが頭を離れませんでした。

.   アブラムにとっては、友人よりもっと身近な兄弟の死だったのです。私たちは兄弟の死、姉妹の死、親の死を経験したことがありますか。友人の死に出会ったことはありませんか。アブラムは兄弟ハランの死に際して何を心に感じたのでしょうか。

.   11:29をみますと、アブラムは「妻をめとった」とあります。サライです。12:11、14から、サライは「美しい妻」、女性であったことがうかがわれます。アブラムは幸せを満喫していた事でしょう。ところが、11:30によりますと、このサライは子を産めないからだであることが、書かれています。それを知った時、アブラムは幸福の絶頂から、暗黒の真っ只中に落ち込んでゆかなかったでしょうか。

.   私たちの人生にはそうしたことが時折あるものです。健康、元気そのものでいた人が、突然、病に打たれる。経済的に満ち足りていた人が、突然の事情の変化で、借金に追われる身になる。仲の良かった友人関係が、突然あることをきっかけとして、仲違いをし、醜い関係になってしまう。

.   アブラムは大きな失望を味わいました。大きな試練に直面したのです。美しい、愛するサライが不妊症であることが判ったのです。サライには子どもを期待できないのです。

.   IGMの先生方は、その点、幸せそのものです。台湾の蔦田康毅先生、橋本市の大兼久先生、また、矢野先生、皆さん、子宝に恵まれたとの事です。

.   アブラムには、兄弟ハランの死、妻サライの不妊、それに加えて、もう一つ、彼を気重にさせることがありました。11:31に「そこに住みついた」とあります。その前には「カナンの地に行くために、、、出かけた」とあります。何故、途中のハラン迄きて、そこに「住みついて」しまったのでしょうか。年老いた父、テラ、がその理由でした。健康的な理由か、または、他の理由かは定かではありません。しかし、父テラの故に、アブラムはカナン、目的の地への前進を阻められていたのです。アブラムは心外だったでしょうか。理想を持ち、希望に燃え、胸をふくらませて故郷を出てきたのです。しかし、今、年老いた父親の故に、当初の計画は挫折し、変更を余儀なくされ、今、アブラムは一時ストップを掛けられていたのです。

.   私たちが自分のしたい事を追求しようとしている時、家庭の都合、周囲の事情で、中止の巳むなきに到ったことを経験したことがありますか。挫折の経験は、私たちには無関係ですか。

.   アブラムに神が出会ってくださった時、彼の心の中はこのようなものだったのです。三重の課題が渦巻いていました。弟ハランの死、妻サライの不妊、そして、当初の計画の中断、挫折です。

.   U  アブラムの新しい出発

.   アブラムの新しい出発はどのようにして為されたのでしょうか。11:32には彼の父「テラはカランで死んだ」とあります。前進を止めていた父親が他界したのです。しかし、それ以上に、アブラムの新しい出発には、大きな原因がありました。12:1、主の語り掛けがあったのです。

.   多くの人が新しい出発を欲しています。再出発を願っています。ある人は、新年を迎えた、只それだけのことに、新しい出発を期待します。"昨年は運が廻って来なかった。年が改まったから今年こそは、、、"というのです。確かにあらゆる機会を捉えることは大切です。しかし、年が改まる、とのこと自体には、何か新しさを期待する根拠は何もありません。実は毎朝、新しい朝が巡って来ているのです。新年、元旦のみが新しいのではありません。

.   ある人は、環境の変化に新しさを求めます。田舎から都会に出てき、または逆に、田舎に帰る、こうした環境の変化に何か新しさを期待します。また、ある人は、仕事を変えることによって、新しさを見つけようとします。

.   アブラムにとっては、彼の新しい出発は、真の神に出会った、という事実にあったのです。神の御声を聞く事にあったのです。12:1「主はアブラムに仰せられた。」

.   年が改まってみても、環境を変えてみても、何も新しいことが起こらないことがしばしばです。"新しい"と思ったことは、表面的なことのみで、数週間経ってみれば、元のもくあみ!

.   しかし、神に出会う時、神のみことばに接する時、変わらないことはありません。では、もう少し詳しくアブラムに対する神の語り掛けを見、学んでみましょう。創世記12:1〜3節に見る神の語り掛けは命令と約束からなっています。

.   ・命令は第1節で「出て、、、行きなさい」であり、

.   ・約束は第2節以下で、「そうすれば、、、」として、いくつの約束がありますでしょうか。また、何が約束されていますでしょうか。「あなたを大いなる国民と」するとして、子孫に関わる約束、子孫を通して「地上の凡ての民族」が祝福されることが約束されています。これに関してはまた、学ぶ機会がある事と思いますが、今朝は残された時間で、神の語り掛けに対するアブラムの応答に目を向けて締め括りましょう。

.   アブラムが神の語り掛けに対して取るべき態度は3つありました。その第一が離別です。信仰生涯においては、神にみこころに適わないものから離れるということは、信仰の根本的な姿勢です。

.   ジャングル・ドクタ−の物語に猿の話が出てきますが、ジャングルで猿をどうして捕まえるかという話です。銃も使用しないで、また、大きなネも使わないで猿を捕まえるのです。何を用いるのでしょうか。ピ−ナッツと口の小さな壷です。壷にピ−ナッツを入れ、鎖でつないでおけば、それで十分。やがてピ−ナッツの香りに惹かれて出て来た猿は、その壷の小さな口に手を差し込んでピ−ナッツを掴み出そうとします。しかし、ピ−ナッツを握った手は容易に抜けません。それで、猿は人間に捕まることになります。

.   私たちは、この猿のように、何か手放すべきものをしっかり握って、手放そうとしないことがあるのです。それを握っている間は神の祝福を手にすることは不可能です。

.   神が手放すように、捨てるように指示されたものから離れることが、信仰生活の基本にあります。何を手放したらよいのでしょうか。アブラムにとっては、カルデアのウルから出て行くことでした。ウルは偶像にみち満ちた町だったからです。月礼拝の中心地で、ジゴラットと呼ばれる築山が発掘されています。ある学者はバベルの塔はこうしたものだった、といっています。いずれにしても、アブラムにとって、また、誰にとっても、益の無いもの、寧ろ、害を与えるものだったのです。

.   もちろん、神は折々、良いものを手放すように命じなさることがあります。それは更に良いものを私たちに与えるためなのです。更に良いものを手放すように命じなさる時には、最善のものを与えてくださるためなのです。

.   この世のこと、私たちの日常の事ですが、転職の事を考えてみましょう。最近は就職情報紙が氾濫している時代です。ある程度の収入もあり、時間的にも他の人から見たなら、よさそうに見える仕事を捨てて、新しい仕事を求めることがあります。良い仕事をいっそう良い仕事に、より良い仕事でも、自分にとってベストと思うものに、最近の人たちは代えてゆくのです。退職金、社会通念、色々なことがあって、日本の社会ではアメリカほど、転職はなされていません。しかし、持っている仕事を離れるのは、更に良いものを自分のものとするためです。

.   第二には、服従でした。第一節に「出て、、、行きなさい」という命令があります。それに対して、四節には「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた」とあります。アブラムの信仰生涯を特徴づけているのは、服従ということです。服従なしには信仰は成り立たないと言っても過言ではありません。服従がどのような場面で示されるかは、アブラムの生涯をこれから学んで行くうちに、徐々に明らかにされますでしょう。信仰生涯は、継続的な服従の生涯です。

.   主イエスも、あのゲッセマネの祈りで、「どうぞみこころのとおりをなさってください」(マタイ26:42)と祈られました。

.   第三に、信仰、信頼です。服従を考える時、その根底に信頼があることが肝要です。

.   おかあさん方は、こどもを従わせる時、罰がこわくて、叱られるのが恐くて、こどもが従っているのか、それとも、刑罰を恐れてではなく、素直な気持ちからこどもたちが親に従っているのかを、見分けることができなければなりません。もし、刑罰を恐れる気持ちからだけ、こどもが従っているなら、やがて、大きくなり、体力がつき、親に対抗できるようになると、こどもは当然反発し、言うことを聞かなくなるでしょう。

.   しかし、服従が信頼関係から生まれてきているなら、親がこどもに体罰を加えることができなくなっても、こどもは親に従います。このような信頼関係が土台にある服従こそ、真の服従であり、表面上は従っていても、刑罰を恐れることからの服従は、こころに反抗心を抱いての服従で、真の服従とは異なっています。服従に優って大切なのが、信仰であり、信頼なのです。

.   アブラムの服従は、まさしくそのような服従でした。新約聖書のヘブル人への手紙11:8には「アブラハム(アブラムのことです)は、、、、出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのか知らないで、出て行きました。」と書いてあります。信頼していてはじめて、アブラムは行くところを知らないまま、出発できたのです。

.   神を信頼しましょう。神の導きを信じ、従いましょう。(1989/02/12、礼拝)

■ アブラハムの生涯「栄光の神が現れて」:第2講

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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