佐藤一斎 「言志耋禄」その三 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

平成25年10月

1日 51.
幼い時は本心なり

人は童子たる時、全然たる本心なり。(やや)長ずるに及びて、私心(やや)生ず。既に成立すれば、則ち更に世習を夾帯(ちゅうたい)して、而して本心殆ど亡ぶ。故に此の学を為す者は、当に能く(ざん)(ぜん)として此の世習を?()り以て本心に復すべし。是れを要と為す。 

岫雲斎
人間は幼い時には完全なる真心を持っている。
やや成長すると私心が少しづつ起きてくる。一人前になれば。その上に更に世俗の習慣に慣れ馴染んで真心は殆ど消滅してしまう。
だから聖人の学を為す者は、キッパリとこの世俗の習慣を振り払い真心に復帰すべきである。この事が最も肝要である。
2日 52
.知行(ちこう)合一(ごういつ)
心につきて知と()う、知は即ち(こう)の知なり。身に()きて行と曰う。行は即ち知の行なり。(たと)えば猶お人語(じんご)を聞きて之れを了するがごとし。諾は口に就き、(がん)は身に就けども、等しく是れ(いち)(りょう)()なり。 

岫雲斎
心に就いては知と言う。その知は行わんが為の知である。
身体に関しては行と言う。その行は知る所のものを行うことである。例えば、人の言葉を聞いて了解する事である。この場合、口では「承知した」と言い、身体では「頷いてみせる」が、何れも了解したということである。

3日 53.
身心合一
喜怒哀楽は、(たたち)に面貌に(あら)わる。形影(けいえい)一套(いっとう)、声響は同時、之れを身心合一と謂う。 

岫雲斎
喜・怒・哀・楽の四つの感情は直ちに顔色に現れる。それは形と影が一つのようなものであり、また、声と響きが同時に発せられるようなものだ。これを心と身が合一したものと言うのである。

4日 54.
工夫と本体二則 
その一
()(せい)()れ一」とは、工夫の上に本体を説き、「声無く()無し」とは、本体の上に工夫を説く。 

岫雲斎
「書経」の「大禹謨」に「惟れ精惟れ一、(まこと)()の中を執れ」とある。この精一の工夫は、工夫とそれ自体が本体を明らかにするというものである。心の本体は、どんなものかと言うと「詩経」「大雅、文王」にある通りで「上天の(こと)は声もなく、()もなし」である。それは「声なく臭もなし」である。即ち「声なく臭なし」という本体の有り様は、同時に声をなくし、臭もなくす工夫につながるのである。

5日 55.
工夫と本体二則 
その二
心無きに心有るは、工夫()れなり。

心有るに心無きは是れ本体是れなり。
 

岫雲斎
心の本体は無いように思われるが、否、本体は有るのだと追求し修養につ務めるのが工夫というものだ。反対に、心は有るとして追及して行くと無いという結論に達するのが本体である。有心、無心の二面を悟るのが達人ということ。

6日 56.
道心と人心
知らずして知る者は道心なり。
知って知らざる者は人心なり。
 

岫雲斎
人間智に拠らずして道理を見通すのが道心。知っているようでその実、真相を会得しないのが人心。道心は本来の心で把握する。人心は欲に遮られ表面だけで、真相を把握できない。

7日 57.
青天白日は我にあり
「心静にして(まさ)に能く白日(はくじつ)を知り、(まなこ)(あきらか)にして始めて青天(せいてん)()るを()す」とは、此れ(てい)(はく)氏の句なり。青天白日は、常に我に在り。宜しく之れを()(ゆう)に掲げ以て警戒と為すべし。 

岫雲斎
「心が静かな時に、輝く太陽の有難さを知り、眼が明らかな時に澄み渡った大空の爽快さを知る」とは程明氏の句である。

この句の通り、青天白日とは、常に自分自身にあるのであり自分の外に有るものではない。
これを座右に掲げて戒めの言葉とするがよい。

8日 58.
人の生くるや直し
「人の生くるや(なお)し」。
当に自ら反りみて吾が心を以て(ちゅう)(きゃく)と為すべし。
 

岫雲斎
「人間が生きておられるのは正直であるからだ」。この言葉を存分に噛み締めて自己反省し、心を以て此の言葉の註とすべきである。
(論語「雍也篇」「人の生くるや直し。之をなくして生くるは、幸にして免るるなり」。正直でなくて生きておられるのは僥倖(ぎょうこう)に過ぎない。)

9日 59.
事ある時と事なき時
事有る時、此の心の(ねい)(せい)なるは(かた)きに似て易く、事無き時、此の心の活発なるは、易きに似て(かた)し。 

岫雲斎
何か事件の起きた時は、心を静かに安らかに保つのは困難のようでそうではない。反対にも平穏無事の時の心はだらけてしまっており、これを活発化するのは容易なようで難しいものだ。

10日 60.
気導いて体従う
気導いて体随い、心和して言(したが)わば、挙手(きょしゅ)投足(とうそく)も、礼楽に(あら)ざるは無し。 

岫雲斎
気持ちが先に立ち、体がこれに従い、心も和やかで、言葉もこれに従って温厚となれば総ての一挙手一投足は礼儀にかない音楽の基本に適うのである。

11日 61.
よく身を養うもの
善く身を養う者は、常に病を病無きに治め、善く心を養う者は、常に欲無きに去る。 

岫雲斎
身体をよく養う人は常に病気を病気でない時に治めている。精神修養に心掛けている人は私欲の出る前にこれを払いのけてしまう。

12日 62.
情の発するに緩急あり
情の発するには緩急有りて、忿(ふん)(よく)を尤も急と為す。忿(ふん)は猶お火の如し。(こら)さざれば将に自ら()けんとす。慾は猶お水のごとし。(ふさ)がざれば将に自ら溺れんとす。損の()の工夫、緊要なること此に在り。 

岫雲斎
人間の感情が発生する場合、緩やかなものと急なものとがある。最も急なものは怒りと情欲である。怒りは火のようなもので消さないと自分を焼いてしまう。情慾は洪水のようなものでせき止めないと自分が流されてしまう。易の卦の「損」の象伝には「山下に沢あるは損なり。君子以て忿を懲罰し、欲望を塞げ」とある。これが対策は緊急を要する。 

13日 63.
忍と敏
忿(ふん)(こら)し慾を(ふさ)ぐ」には、一の(にん)()を重んず。「善に(うつ)()を改む」には、一の(びん)()を重んず。 

岫雲斎
易経にいう「忿(いかり)りを懲し、慾を塞ぐ」のに重要なのは、じっと我慢する「忍」の字である。また易経に言う「善に遷り、過を改むる」のに重要な事は素早くやる「敏」の字である。

14日 64.
人には「悪を隠し、善を揚ぐ」
「悪を隠し善を()ぐ」。人に於ては()くの如くせよ。()れを己れに用うること勿れ。「善に(うつ)り過を改む」。己れに於ては此くの如くせよ。必ずしも諸れを人に責めざれ。 

岫雲斎
他人に対しては「その人の悪を隠し善を揚げる」のが一番良い。だが、これを自分に適用してはいけない。自分に対しては「善に移り、過を改む」ことでなくてはならぬが、これを他人に適用することは間違いである。

15日 65.
聖賢の胸中
聖賢は胸中灑落(しゃらく)にして一点の汚穢(おわい)()けず。何の語か尤も能く之れを形容する。曰わく「江漢(こうかん)以て之れを(あら)い、(しゅう)(よう)以て之れを(さら)す。皓皓乎(こうこうこ)として(くわ)う可からざるのみ」と。此の語之れに近し。 

岫雲斎
聖人や賢人の胸中は、さっぱりしていて一点の汚れもない。それを良く表す言葉は「孟子」膝文公上篇にある、曽子が孔子の高潔な人格を賞賛した言葉である。それは「揚子江や漢水の清らかな水で洗い秋の日に晒した布のように、皓皓として潔白なことは何物にも勝ることはない」であるが、これこそ聖賢の胸の内を示す言葉に近い。 

16日 66.
人心の霊

人心の霊なるは太陽の如く然り。但だ克伐怨(こくばつえん)(よく)(うん)()のごとく四塞(しそく)すれば、此の(れい)(いず)くにか在る。故に誠意の工夫は、雲霧を(はら)いて白日(はくじつ)を仰ぐより(せん)なるは()し。凡そ学を為すの要は、此れりして(もとい)を起す。故に曰わく「誠は物の終始なり」と。 

岫雲斎
人間の心の霊妙な姿は太陽が照り輝いているようなものだ。ただ、人に勝つことをこのむ「克」、自分の功績を誇る「伐」、怨恨、貪欲の四つの悪徳が心の中に塞いでいると雲や霧が発生すると、太陽が見えなくなるように心霊が何処にあるか分らなくなる。だから誠意を以て向上に努めてこの雲霧を一掃し照り輝く太陽、即ち心の霊光を仰ぎみることが先決なのである。学問をする者は、これを基礎にして積み上げるべきである。だから中庸に、「一切は誠に始まり誠に終わる。誠は一切の根源であり、誠が無ければ、そこには何も無い」とある通りだ。

17日 67.
霊光の体に充ちる時
霊光の体に充ちる時、細大の事物、遺落(らく)無く、遅疑(ちぎ)無し。 

岫雲斎
終始誠意を以て修養に務めていると心に霊光を識得して、やがてその霊光が体に満ち満ちて天地間の小さい事も大なる事も遺し落とすことなく、また遅れたり疑う事もなく処理されるようになる。

18日 68.
窮められない道理は無い
窮む可からざるの理は無く、応ず可からざるの変無し。  

岫雲斎
天地間の様々な現象は、それらがどのような道理に起因しているのかを究め尽くせないということは無い。世の中の事は千変万化するが、それがどのように変化するとも応じられないと言う事は無い。

19日

69.
天地間の活道理

能く変ず、故に変ずる無し。常に定まる、故に定る無し。天地間、()べて是れ活道理なり。 

岫雲斎
自然は常に変化してやまない。だから変化しておるとも見えない。常に不変のものは殊更に一定ということもない。天地の間のことは、このようなもの、これが大自然の活きた道理というものである。

20日 70.
工夫と本体は一項に帰す
時として本体ならざる無く、処として工夫ならざる無し。工夫と本体とは、一(こう)に帰す。 

岫雲斎
大自然の本体の現れないものは無く、またその働きでないものもない。つまり工夫と本体とは一つである。

21日 71.
事物の見聞は心でせよ
視るに目を以てすれば則ち暗く、視るに心を以てすれば則ち明なり。聴くに耳を以てすれば則ち惑い、聴くに心を以てすれば則ち聡なり。言動も亦同一理なり。 

岫雲斎
目や耳だけで事物の見聞をすれば事物の真相の正確な認識を欠く。事物、現象の本質を知るためには心を用いなくてはならぬ。言動の洞察に於いても同様な原理が必要。(「大学」伝之七章、「心ここにあらざれば視れども見えず。聴けども聞こえず。食えどもその味を知らず」)

22日 72.
耳の役目、目の役目
耳の職は事を内に()れ、目の職は物を外に照らす。人の常語に聡明と()い、(ぶん)(けん)と曰う。耳の目に先だつこと知る可し。両者或は兼ぬることを得ずば、寧ろ()なりとも(ろう)なること勿れ。 

岫雲斎
耳の役割は外界の事柄を内に入れること、目の役目は事物を身の外において照合すること。聡明とは耳がさとく、目が明らかなことである。聞見とは耳で聞き、目で見ることだが、何れも耳が目より先である。もしも両者を兼ねることが不可能なら寧ろ耳の役目を重視する。

23日 73.
真の聡明
能く疑似(ぎじ)を弁ずるを聡明と為す。事物の疑似は猶お弁ずべし。得失の擬似は弁じ難し。得失の擬似は猶お弁ず()し。心術の擬似は尤も弁じ難し。唯だ能く自ら霊光を(ひっさ)で以て之を反照(はんしょう)すれば、則ち外物(がいぶつ)も亦其の形を逃るる所無く、明明白白、自他一様なり、()れ之れを真の聡明と謂う。 

岫雲斎
疑わしいものをよく弁別するのを聡明と言う。事物の疑わしいものはまあ、弁別できるが、損得の疑わしいものは弁別しにくい。然し、損得の疑わしいものの弁別は何とかできる、だが尤も弁別の疑わしいものは心の働きの疑わしいものである。ただ自らの不思議な心の光を以てこれを照らしだせば、一切の外物も見逃すことなく明白に自他も一様に弁別可能。これを本当の聡明と言う。

24日 74.
人は自分の本当の言行不一致を咎めない

寒暑(かんしょ)節候(せっこう)梢暦本(ややれきほん)差錯(ささく)すれば、人其の不順を訴う。我れの言行、(つね)に差錯する有れども、自ら咎むるを知らず。何ぞ其れ思わざるの甚しき。 

岫雲斎
暑さ寒さの季節と天候が少しでも暦と異なると人々は気候の不順を訴えて不平を言う。然し、自分の言葉と態度に関しては、常に食い違っていようとも、自分を反省し咎めることを知らない。何と甚だしく考えの無いことであろう。

25日 75.
真の楽しみ
人は須らく快楽なるを要すべし。快楽は心に在りて事に在らず。 

岫雲斎
人間は誰でも心に楽しみを持たねばならぬ。楽しみというものは自分の心の持ち方の事であり心以外であってはならぬ。

26日 76.
胸中清快なれば百事阻せず

(きょう)()(せい)(かい)なれば、則ち人事の百艱(ひゃくかん)も亦疎せず。 

岫雲斎
胸中が清明爽快なれば世間に起きるどんな困難も処理してゆける。

27日 77.霊と気
二則 
その一

人心の霊なるは気を主とす。
「気は体の()てるなり」。凡そ事を為すに気を以て先導と為さば、則ち挙体失(きょたいしっ)()無し。技能工芸も亦皆是くの如し。
 

岫雲斎
人間の霊妙な働きは気を主体としている。「気というものは、肉体に充ちている」。事を為すのには、この気を先導すれば万事誤りはない。技能、工芸に関しても同様なことである。

28日 78霊と気
二則 
その二
霊光に、障碍無くば、則ち気(すなわ)ち流動して()えず、四体軽きを覚えん。 

岫雲斎
心の本体である霊光を何ら遮るものが無ければ、気が体全体に流動して不活発になることはない。両手両足が軽くなるのを感じる。

29日 79.
人の為の仕事と自分の為の仕事
事は()と自ら為に(はか)りて、而も(あと)の人の為にせしに似たる者之れ有り。戒めて之れを為すこと勿れ。固と人の為に謀りて、而も或は自ら為にせしかと疑わるる者之れ有り。(けん)を避けて為さざること勿れ。 

岫雲斎
元々は自分の為にした事が、その形跡から他人の為にしたように見えることがある。これはしてはならない。反対に元は他人の為にした事が或は自分の為にしたと疑われるものがある。疑われるからと言って、これをやめてはならない。

30日 80.
天地清英の気

英気は是れ天地清英の気なり。聖人は之を内に(つつ)みて、()えて(これ)を外に(あら)わさず。賢者は則ち時時(じじ)之れを露わし、自余(じよ)の豪傑の士は、全然之れを露わす。若夫(もしそ)れ絶えて此の気無き者をば、鄙夫(ひふ)小人(しょうじん)と為す。(ろく)(ろく)として算うるに足らざる者のみ。 

岫雲斎
勝れた志気は天地間の英気である。
聖人は是れを内に包み隠して敢えて外に露わさない。
賢者はそれを時々露出する。
豪傑の士にいたっては全部この気を出してしまう。
もし、この気の全然無い者は卑しい人間であり数えるに足りない。

31日 81.
歴史観
古今歴代の人気(じんき)、開国の時は、(かつ)(ぜん)として春の如く、(せい)()の時は、(うつ)(ぜん)として夏の如く、衰季は則ち(さつ)(ぜん)として秋の如く、乱離は則ち粛然として冬の如し。 

岫雲斎
古今を通じた歴史を考察する。開国へ向う時は、からりとした春のようであり、盛んなる時代は草木繁茂の夏の如しである。世が衰退して行く時は、秋に風が吹いて落葉を思わせ、国が乱れておる時は、当に冬の如く物寂しいものが窺われる。