佐藤一斎 「言志耋禄」その四 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

平成25年11月

1日 82.
天運と人事
大にして世運の盛衰、小にして人事の栄辱、古往(こおう)今来(こんらい)、皆旋転(せんてん)して移ること、猶お五星の(めぐ)るに、順有り、逆有り、以て太陽と相会するが如し。天運、人事は、数に同異無し。知らざる可からざるなり。 

岫雲斎
大にしては時勢の盛衰、小にしては人間の名誉不名誉、これらは何れも昔から皆ぐるぐる回っている。それは丁度、五星の運行が順なものや逆なものがあっても、結局は太陽と相会(あいかい)するようなものである。天運も人事も定めに異なることはない。知っておかなくてはならないことだ。

2日 83.
天運、地道、人道
天道は変化無くして而も変化有り。
地道は変化有りて而も変化無し。
我れ両間に立ち、仰いで()、俯して察し、裁成して之れを()(そう)す。
(すなわ)ち是れ人道の変化にして、天地に参ずる所以なり。
 

岫雲斎
天道は変化がないようである。即ち日月星辰は常に変わりなくして昼夜の変化がある。地道は、変化があるようで変化しない。山川草木は常に変化しているようで四季繰り返して同じことをしている。人間はこの二つの間にあって、天を仰ぎ観察し、俯しては地理を観察して両者をうまく切り盛り、調整している。中庸の「天地の化育をたすけ、天地とみつなるべし」とある通りだ。これが人道の変化であり天地に参画する所以である。 

3日 84.
天地間、配合の理あり
天地間の事物は、必ず配合の理有り。
極陽の者出ずる有れば、必ず極陰の者有りて来り配す。
人の物と皆然り。
 

岫雲斎
世の中の事物は、必ず釣合うものである。極端に陽気なものが出ると、必ず極端に陰気なものが現れる。人間についても物についても皆この理が支配している。

4日 85.
風雨霜露は皆師なり
春風以て人を和し、雷霆(らいてい)以て人を警め(いまし)(そう)()を以て人を(しゅく)し、氷雪(ひょうせつ)以て人を(かた)うす。「風雨(ふうう)(そう)()も教に非ざる無し」とは、此の類を謂うなり。 

岫雲斎
そよそよと吹く春風は人の心を和らげる。雷鳴の轟きや、稲妻は人間の心を戒める。(しもや)(つゆ)は人間の心を引き締め、冷たい氷雪は人間の心を堅固にさせる。礼記に「風雪や(しもや)(つゆ)も教えでないものはない」とある通りだ。

5日 86.
不易の易
古人、易の字を釈して不易と為す。
試に思えば悔朔(かいさく)は変ずれども而も昼夜は(かわ)らず。

寒暑は変ずれども而も四時は易らず。

死生は変ずれども而も生生は易らず。

古今は変ずれども、而も人心は易らず。

()()れを不易と謂う。
 

岫雲斎
古人(漢の鄭玄)は易を解釈して不易と言った。その意味は、静かに考えると日付は(つごも)()から(ついた)()へと変るが昼とか夜は変わらない。春夏秋冬は常に変らず繰り返される。死ぬとか生きるとは変るが、後から生まれて来ることは変らない。時間的に昔と現在は変っているが、人間の心は易わらない。蘇東坡「その変ずる側から見れば天地も一瞬なる能わずで、変じない側から見れば、物も我もみな無尽である」という次第で、これを不易の易というのだ。

6日 87.
天地の呼吸と人生の呼吸
寒暑、栄枯は、天地の呼吸なり。
苦楽、栄辱は人生の呼吸なり。
即ち世界の活物たる所以なり。
  

岫雲斎
寒さ、暑さ、草木の繁茂や枯れは天地自然の呼吸である。
苦と楽、名誉、不名誉は人間社会人生の呼吸である。これは世界が活き物であることの証左である。
 

7日 88.
本始に帰すれば災祥・弔賀なし

(さい)(しょう)は、是れ順逆の数、弔賀は是れ相待(そうたい)()、之れを本始(ほんし)に帰すれば、則ち弔賀も無く、叉災祥も無きのみ。 

岫雲斎
災と祥は順と逆の運命、弔と賀は相対の言葉。これらは差別相であるが、平等相に立って根源に帰って考えると、ことさらに(さい)(しょう)も弔賀もなく「万物一如」である。

8日 89.
敬六則 その一
敬は(すべか)らく活敬を要すべし。騎馬馳突(きばちとつ)も亦敬なり。(わん)(きゅう)(かん)(かく)も亦敬なり。必ずしも跼蹐(きょくせき)畏縮(いしゅく)の態を做さず。 

岫雲斎
敬は活き活きと行動して発揮するものだ。馬に乗り突進することも敬である。弓を引き絞り敵の甲冑を射抜くのも敬である。必ずしも、天にに向い、背をかがめ、地に抜き足するように恐れ萎縮しているのを敬としない。

9日 90.
敬六則 
その二
敬する時は、強健なるを覚ゆ。敬(ゆる)めば則ち萎?(いでつ)して(たん)()するを能わず 

岫雲斎
敬は心を緊張することだから、敬する時は、身体が強く健やかなことを覚える。敬の心が弛緩すると身体がしなび萎れてきちんと坐ることさえ出来ない。

10日 91..
敬六則 
その三

(きょ)(けい)の功は、最も(しん)(どく)に在り。人有るを以て之れを敬しなば、則ち人無き時敬せざらん。人無き時、自ら敬すれば、則ち人有る時尤も敬す。故に古人の「屋漏(おくろう)にも()じず、闇室(あんしつ)をも(あざむ)かず」とは、皆慎独を謂うなり。 

岫雲斎
常に謹厳な態度を保つ工夫は独りでいる時でも道に背かない事が肝要。
人が居るからと云って慎むならば人がいない時には慎まないであろう。人が居ない時に自慎むなら人の居る時には尚お一層慎むであろう。
(
居敬は、身心を慎むこと。論語「敬に居て簡を行い、以てその民に臨まば、また可ならざらんや。大学「君子は必ずその独りを慎む。詩経「(なんじ)の室に在るを相るに尚屋漏に愧じず。) 

11日

92..
敬六則 
その四

坦蕩蕩(たんとうとう)(かたち)は、(じょう)(せい)(せい)の敬より来り、常惺惺の敬は、活溌溌(かつぱつぱつ)の誠より出ず。 

岫雲斎
君子の容貌、姿態は坦然と平安であり、寛厚である。これは何によるのか。始終、心聡く落ち着いている敬に依拠している。その聡い敬は死物ではなく活き活きとした誠から出てくるものだ。(論語、述而篇、「君子は坦蕩蕩たり」。心が平らかで(ひろ)いこと。(じょう)(せい)(せい)、いつも心静かに落ち着いているさま。)

12日 93.
敬六則 
その五

(ぼく)(じゅ)も腰を折れば、?(がん)せざるを得ず。(にゅう)(どう)も、手を(こまぬ)けば、亦(たわむ)()からず。君子、(きょう)(けい)を以て甲冑(かっちゅう)と為し、(そん)(じょう)を以て(かん)()と為さば、誰か敢えて非礼を以て之れに加えんや。故に曰く「人自ら侮って而る後に人之れを侮る」と。 

岫雲斎
牧場で働く子供でも、腰を屈めて敬礼されたら、(うなず)いて挨拶してやらねばなにぬ。乳飲み子でも手を(こまね)いて敬意を表せば、これまた、ふざけるわけにはゆかぬ。まして、立派な人が、(うやうや)しく敬する事で自分を守る(よろい)(かぶと)として(へりくだ)った心の楯とすれば、誰だって敢えて無礼、非礼をしないであろう。古人も「人は自ら侮るから後で侮られる」と云っている。

13日 94.
敬六則 
その六

(けい)(やや)(ゆる)めば、則ち経営心起る。経営心起れば、則ち名利心(めいりしん)之れに従う。敬は(ゆる)む可からざるなり。 

岫雲斎
慎むの心が緩んでくると、企みの心が起きてくる。企みの心が起こってくると、名利に走ろうとする心が起きてくる。そうなると、道徳を害う危険があるから敬の心を緩めてはいけない。

14日 95.
労と逸とは相関的

身労(しんろう)すれば則ち心(いっ)し、(しん)(いっ)すれば則ち心労す。 

岫雲斎
身体を働かすと心は安逸となる。身体を安逸にすると心は却って苦労する。労と逸とは相関関係にある。

15日 96.
義二則 
その一
凡そ事を為すには、当に先ず其の義の如何を(はか)るべし。便宜を謀ること勿れ。便宜も亦義の中に在り。 

岫雲斎
総て、事をなすには、その事が道理に適っておるかどうかを考えなくてはならぬ。都合の良さを考えてはならぬ。都合の良さも道理が適うかどうかの中にあるのだ。 

16日 97.
義二則 
その二
義は()なり。道義を以て(もと)と為す。
物に接するの義有り。時に臨むの義有り。(じょう)を守るの義有り。
変に応ずるの義有り。之れを()ぶる者は道義なり。
 

岫雲斎
物事の正しい道理を義という。この義は事の宜しきに適う意味の宜にも通じて、道理の義が本である。物事に対処するのに宜しきを得る義もあれば、また時に臨んで宜しきを得る義もある。平常を守り宜しきを得る義もあれば、変に応じて宜しきを得る義もある。これらの総てを統率するものを道理の義という。

17日 98.
敬は動静を一串す
静坐の(うち)には、接物(せつぶつ)の工夫を忘るること勿れ。即ち是れ敬なり。接物の時は、静坐の意志を失うこと勿れ。亦是れ敬なり。唯だ敬は動静を一串(いっかん)す。 

岫雲斎
静かに坐わっている時でも、人に接し、物に接する工夫を忘れてはならぬ。これが静中の動敬である。また人に接し、物に接している時でも、静かに坐わっている時の思案を忘れてはならぬ。これが動中の静敬である。かかる如く、敬は動静の一つを貫いている。

18日 99.
立誠と居敬

(りっ)(せい)(ちゅう)()に似たり。
是れ(たて)の工夫なり。
(きょ)(けい)棟梁(とうりょう)に似たり。
是れ横の工夫なり。
 

岫雲斎
修養をする場合、誠を立てると言う事は、建築の土台を確りと据えるのと同様であり、根本の確立に相当し建築物の(たて)の工夫である。また、敬に居る、居敬というのは、棟や梁を置くようなものである。これは横の工夫と言える。立誠と居敬により立派な人物という建築物が出来上がるのである。

19日 100.
静坐の効用
静坐する数刻の後、人に接するに、自ら言語の(じょ)有るを覚ゆ。 

岫雲斎
静坐して数時間後に人に接すると、自然と話す言葉に筋道が立っていることを自覚するものだ。

20日

101.
良い考えは夜の明けぬ中に浮ぶ

凡そ道理を思惟(しい)して、其の格好を得る者、往々宵分(しょうぶん)に在り。神気(しんき)(ちょう)(せい)せるを以てなり。静坐の時最も宜しく精神を収斂(しゅうれん)し、(しず)めて肚腔(とこう)に在るべし。即ち事を処するの(もと)()る。認めて参禅の様子と()すこと勿れ。 

岫雲斎
物の道理を考えていて、これは良いと言う思案を得るのは大体にして夜の明けぬ間である。その時は、精神の気が静かで澄んでいるからだ。静坐をするのも、この時が最も宜しい。精神を引き締めて、自分の(はら)の底に置くが良い。これが物を処理して行く根本である。けれども、これを参禅と同一視してはならぬ。

21日 102.夢四則 
その一

()()ぬるの工夫は、只だ(せい)(きょ)なるを要して、()()するを要せず。夢中の象迹(しょうせき)は昨夢を続くる者有り。数日(ぜん)の夢を()ぐ者有り。(けだ)念慮留滞(ねんりょりゅうたい)の致す所なり。胸中(せい)(きょ)なれば、此等の事無し。 

岫雲斎
夜、よく寝る工夫は、ただただ心を静かにして何物も留めぬことである。
夢に見る事は昨日の夢に続くこともある。
また数日前の夢に続きものもある。
思うに、かかる事は、ある思慮が胸中に停滞している為の結果である。
胸中が静かで何物も留めておらねばかかる事は無い。
 

22日 103.
夢四則 
その二
感は是れ心の影子(えいし)にして、夢は是れ心の画図(がず)り。 

岫雲斎
感覚、感情は心に映ったものの影である。夢は心に写ったものの絵である。

23日 104. 夢四則 
その三

凡そ人、心裏(しんり)に絶えて無き事は、()()(あら)われず。昔人(せきじん)謂う「男は子を生むを夢みず。女は妻を(めと)るを夢みず」と。此の言(まこと)に然り。 

岫雲斎
凡そ、人は心中に無いものは絶対に夢に現れてこない。昔の人の言った言葉「男は子を生む夢は見ない。女は妻を娶ることを夢に見ることはない」、これは当に然りである。

24日 105. 夢四則 
その四
人を知るは、(かた)くして(やす)く、自ら知るは、易くした難し。但だ当に()れを()()に徴して以て自ら知るべし。夢寝は自ら欺く能わず。 

岫雲斎
他人の事を知るのは難しいようで易く、自分のことを知るのは易しいようで難しい。自分のことは夢に照らして考えると知ることが出来る。夢は決して自らを欺くことはないからだ。 

25日

106.
自ら欺かず

自ら欺かず。之れを天に(つか)うと謂う。 

岫雲斎
自分で自分を欺かない。これを天に(つか)えると言うのだ。

26日 107.
似て非なるもの四つ
虚無を認めて徳行と做すこと勿れ。
詭弁を認めて言語と做す勿れ。
功利を認めて政事と做す勿れ。
詞章を認めて文学と做す勿れ。
 

岫雲斎
虚無、即ち胸中に何も考えないことを道徳的行為とみなしてはいけない。詭弁即ち理非を転倒した奇怪な弁説を名論卓説と認めてはいけない。自分の功名や利欲を目指す仕事振りを真の政事と思ってはいけない。美しい言葉や文章を本当の文学と認めてはいけない。

27日

108.
実功、虚心は賢者のみ

心体は虚を(たっと)び、()(こう)は実を尚ぶ。
実行、虚心は、唯だ賢者のみ之れを能くす。
 

岫雲斎
心の本体は、わだかまりを無くし、虚心坦懐を尊ぶ。仕事は実際的なものを尊ぶ。このように、心を虚しくし、実際の功業を求めるという姿勢の可能な人こそ真の賢者である。

28日 109.
世事と心事
胡文定云う「世事(せじ)は当に行雲流水(こううんりゅうすい)の如くなるべし」と。
余は謂う「心事は当に(ろう)(げつ)清風(せいふう)の如くなるべし」と。
 

岫雲斎
宋の大儒・胡文定は「世を渡るには、ただよう雲、流れる水のように、さらりと、こだわりの無いのがよい」と。私は云う「心の持ちようは、からりと晴れた月、清らかな風のように澄んだ気持ちが良い」と。

29日 110.
自分の秘事と人の秘事
己れの陰事(いんじ)は、宜しく人の之れを説くに(まか)すべし。人の陰事は、我れは則ち説く可からず。我れの為す所只だ是れ一誠(いちせい)なれば、則ち実に陰陽の別無きのみ。 

岫雲斎
自分の隠し事は人が言うのにまかせておけばよい。然し他人の隠し事を自分が話題にしてはいけない。何事も誠心誠意を以てすれば、隠したい事だの、隠さない事だのと区別は起きない。

30日 111.是非の心 「是非の心は、人皆之れ有り」但ただ通俗の是非は利害に在り。
聖賢の是非は義理に在り。
是非、義理に在れば、則ち(つい)に亦利有りて害無し。
 

岫雲斎
孟子の告子上篇「物事の是非善悪を判断する心は、人々はみな持っている」としている。然し、普通人の是非善悪は利害を基準としている。聖人賢人は正しい道理を基準としている。是非善悪が正しい道理により判断されるならば、利益は有っても害は無い。 

閑話休題 

孟子「四端(よんたん)の説」

孟子・公孫丑上篇「惻隠の心(思いやり)は仁の端なり。羞悪の情(自己の不善を恥じ、人の悪を憎む心)は義の端なり。

辞譲の心(へりくだり、人に譲る心)は礼の端なり。
是非の心は智の端なり。