佐藤一斎 「言志耋禄」その五 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

平成25年121月

1日 112.
処事と執事
事を処するには決断を要す。決断或は軽遽(けいきょ)に失す。
事を執るには謹厳を要す。謹厳或は拘泥に失す。
(すべか)らく自省すべし。

岫雲斎
物事の処理には決断、即ち思い切って事を行うことが肝要である。然し、決断はしばしば軽はずみに陥ることがある。また、事務をとるのに謹厳即ち慎み深く、厳かに行わねばならぬが、謹厳の余り細部に拘泥し過ぎて大本を失うことがある。反省せねばならぬ。
2日 113.
忙中の閑、苦中の楽
人は須らく(ぼう)()(かん)を占め、苦中に楽を存する工夫を著くべし。 

岫雲斎
人は忙しい中にも静かな時のような心を持たねばならぬ。また苦しい中にあっても楽しみを保つ工夫をしなければならぬ。

3日 114.
仕事のやり方二則 
その一
凡そ人事を区処(くしょ)するには、当に先ず其の結局の処を(おもんばか)って、而る後に手を下すべし(かじ)無きの舟は()るること勿れ。(まと)無きの()(はな)つこと勿れ。 

岫雲斎
世間の諸事を処理するには、着手の前にその事の結末を考えて手順を決めてから始めるべきである。
舵の無い船に乗ってはいけない、的の無い矢は決して放してはならないのだ。

4日 115.
仕事のやり方二則 
その二

寛事(かんじ)を処するには捷做(しょうき)を要す。然らずんば稽緩(けいかん)に失せん。急事を処するには徐做(じょき)を要す。然らずんば躁遽(そうきょ)に失せん。 

岫雲斎
ゆっくりしていい事はさっさとやってしまっておくが良い、さもなくば滞って遅れてしまう。急ぎの事は、ゆっくりやるがいい、さもないと最後は慌てて失敗しよう。

5日 116.
感応の理七則その一
天の将に雨ふらんとするや、穴蟻(けつぎ)之れを知り、野の将に霜ふらんとするや、草虫(そうちゅう)之れを知る。人心(じんしん)感応(かんのう)有るも、亦之れと同一理なり。 

岫雲斎
雨が降ろうとする直前に穴の蟻はこれを予知する。野原に霜がおりる前には草の虫はこれを予知する。人間の心も、私心なく澄み切っておれば感応作用が現れるのは同様の理屈である。

6日 117.
感応の理七則その二
人心の感応は、磁石の鉄を吸うが如きなり。「人の情測り難し」と謂うこと勿れ。我が情は即ち是れ人の情なり」 

岫雲斎
人心の感応作用は磁石が鉄を吸いつけるのと同じである。「人情は測り知る事は難しい」と申してはならぬ。自分の情は他人の情そのものなのである。

7日 118.
感応の理七則
その三
「感応は一理なり」。応(また)感に感じ、感(また)応に応ず。一なる所以なり。 

岫雲斎
近思録の道体篇「感応一理」に「程子曰く、感ずれば則ち必ず応有り。応ずる所また感をなす。感ずる所また応有り。已まざる所以なり」と言った。感は感ずること、応は感じて作用を起こすこと。二つのようであるが結局は一つの道理によるものだ。応あれば感がそこに起る。感あれば応がこれに伴うのである。これが一つである理由だ。

8日 119.
感応の理七則 
その四
我れ自ら感じて、而る後に人之れに感ず。 

岫雲斎
何事も先ず自分が感動しなくては他人を感動などさせることは出来ない。

9日 120.
感応の理七則その五
我が感を慎みて、以て彼れの応を()、彼れの応を観て、以て我が感を慎む。 

岫雲斎
人に対しては先ず自分の感情を抑えて相手の応じる態度を観察、その応じ方を観察して自分の感情を慎むようにする。

10日 121.
感応の理七則 
その六
筆無くして画く者は形影なり。(あし)無くして走る者は感応なり。 

岫雲斎
筆が無い場合に描きだされるのは影だけである。形ある所、影は必ず伴うからである。また、脚が無くとも走るような作用ができるのは感応である。

11日 122.
感応の理七則 
その七
感応の妙は、異類(いるい)にも通ず。(いわん)や人においてをや。 

岫雲斎
感応の不思議さは禽獣にも通ずることだ。まして人間同士の感応が無いはずはない。

12日 123.
処世の道四則その一
君子の世俗に於けるは、宜しく沿いて溺れず、()みて(おちい)らざるべし。()特立(とくりつ)独行(どっこう)して、高く自ら標置(ひょうち)するが(ごと)きは、則ち之れを中行(ちゅうこう)と謂う可からず。  岫雲斎
立派な人間というものは、世俗にあっては、一般社会の風習人情に従いながらも、それに溺れない、世俗の道を歩みながら穴に落ちないようにすると言うことであろう。自分は君子だ、というような顔で、独り世の中から抜きん出た行動をして、高く目だつように自分を置いてはならない、それは決して中庸の道とは言えない。 
13日 124.
処世の道四則その二
世を渉るの道は、得失の二字に在り。()()からざるを得ること勿れ。失う可からざるを失うこと勿れ。()くの如きのみ。 

岫雲斎
世を渡る道は中々難しいものだが、要するに得と失の二字である。それは、得てはならないものは得ないようにする事。また、失ってはならぬものは失わない事。

14日 125.
処世の道四則 
その三
口舌を以て諭す者は、人従うことを(がえん)ぜず。躬行(きゅうこう)を以て(ひき)いる者は、人(なら)うて之れに従う。道徳を以て化する者は、則ち人自然に服従して痕迹(こんせき)を見ず。 

岫雲斎
口先ばかりで人を諭しても人は服従しない。自ら進んで実践すれば人はこれに習うようになる。さらに、道徳を以て人を感化すれば人は自然に従うようらなり迹形もない。

15日 126.
処世の道四則その四

世に処する法は、宜しく体に可なる(おん)(とう)の如く然るべし。濁水、熱湯は不可なり。()(せい)、冷水も亦不可なり。 

岫雲斎
世間を渡るには、入浴しているように身体に適した温湯のようなのが宜しい。濁水や熱湯はいけない。余り清らか過ぎたり冷たすぎるのもよくない。

16日

127
驕と争は身を亡ぼす

利を人に譲りて、害を己れに受くるは、是れ譲なり。美を人に推して、醜を己れに取るは、是れ謙なり。謙の反を(きょう)と為し、譲の反を(そう)と為す。驕争(きょうそう)は是れ身を亡ぼすの始なり。戒めざる可けんや。 

岫雲斎
利益を人に譲り害を自分が受けるのが譲。良い事は人に推し、悪いことは自分が取るのが謙。謙の反対は良い方を自分が取り悪い方を人に押し付けものでこれを驕。譲の反対で利を自分が取り害を人に与えるのが争。この驕と争の二つは身を亡ぼす始めである。自戒しなくてはならぬ。

17日 128.
君子は平常の行為を慎む
「薪を積むこと、(いつ)(ごと)くなるも、火は則ち其の(そう)に就く。地を平らかにすること、(いつ)(ごと)くなるも水は則ち其の湿に就く」。栄辱(えいじょく)の至るは、理勢(りせい)自然なり。故に君子は其の招く所を慎む。 

岫雲斎
荀子の勧学篇「同じように薪を積んでも、火は乾燥している所に燃え盛る。地面を一様に平らにしても、水はその湿った所に行く」とある。
人生に於いても、栄辱と屈辱の来るのは道理の自然の趨勢である。だから君子たるものは栄辱の原因となる平常の言動を慎まなくてはならぬ

18日 129.
予と謙
予は是れ終を始に(もと)め、謙は是れ始を終に全うす。
世を渉るの道、謙と予とに()くは無し。
 

岫雲斎
予、則ち(あらかじ)め準備する事は、その結果を最初に考えることである。謙譲であれば、始に考えた通り有終の美を得られる。世間を生きて行く上にはこの謙と予の二つにしくものはない。(事を成すには、終りまでを最初に予則して計画し、途中に終始謙譲であれば有終の美を得られる)

19日 130.
知足の足と無恥の恥
「足るを知るの足るは常に足る」。仁に(ちか)し。「恥無きの恥は恥無し」。義に(ちか)し。 

岫雲斎
老子46章、「満足を知るという、そういう満足は永遠の満足である」と。これは仁に近い。孟子の尽心上篇「自分の恥ずべき点を恥じないでいる事を恥とすれば、恥は無くなる」とある。これは義に近い。

20日 131.
禍はあなどりに生ず。
()は登山に倒れずして、而も下坂(げはん)(つまず)ずき、舟は逆浪(げきろう)(くつがえ)らずして、而も順風に(ただよ)う。凡そ患は()(しん)に生ず。慎まざる可からず。 

岫雲斎
馬は山を登る時には倒れないで、下山の時につまづく。
船は逆巻く波浪に転覆せず、却って順風の時に漂流しやすい。一般的に、禍いは侮りの心に発生している。慎む必要がある。

21日 132.順境と逆境二則 
その一
逆境に()う者は、宜しく順を以て之れを処すべし。順境に居る者は、宜しく逆境を忘れざるべし。 

岫雲斎
逆境にある人は、順境にいるように心を安らかもてるように務めるがよい。順境にある人は、逆境の時を忘れず、油断せぬことじゃ。

22日 133.
順境と逆境二則 
その二

()(おも)う、「天下の事()と順逆無く、我が心に順逆有り」と。我が順とする所を以て之れを()れば、逆も皆順なり。我が逆とする所を以て之れを視れば、順も皆逆なり。果して一定有らんや。達者に在りては、一理を以て権衡(けんこう)と為し、以て其の軽重を定むるのみ。 

岫雲斎
「世の中の事そのものは、順逆の二つがある筈はない。その順逆は自分の心、主観に在る」と思う。自分の心が順であれば他人が逆境だと思っても違う。自分の心が逆境の気持ちであれば他人が順境だと見ていても逆境である。果して、順逆は一定しているものなのか、そうは思わない。道理に達した人間であれば、一貫した道理を(はか)る尺度として、物事の軽重を定める事だけである。則ち順逆とかは眼中に無い。

23日 134.
苦楽も一定なし

苦楽も()と亦一定無し。(たと)えば我が書を読みて()(なかば)に至るが如き、人は皆之れを苦と謂う。而れども我れは則ち之れを楽しむ。世俗の好む所の淫哇裡腔(いんあいりこう)、我れは則ち耳を(おお)うて之れを過ぐ。果して知る。苦楽に一定無く、各々其の苦楽とする所を以て苦楽と為すのみなることを。 

岫雲斎
苦と楽もきまった定めがあるわけではない。例えば、書物を読んで夜半になると、人はみな苦痛だろうと言う。だが自分はこれを楽しんでいるのだ。世間の人々の好む淫らな声や、卑猥な歌曲に出会うと自分は耳を押えて通り過ぎる。結局、苦楽には一定の標準があるのではなく、人々が自分が苦である、楽であるとしている所を以て苦楽としているだけだという事である。

24日 135.
楽は心の本体
「楽は()れ心の本体なり」()だ聖人のみ之れを全うす。何を以てか之れを見る。其の色に徴し、四体に動く者、自然に()申申如(しんしんじょ)たり、夭夭如(ようようじょ)たり。 

岫雲斎
王陽明の伝習録「楽しみこそ心の本当の姿である」とある。ただ、これを全うしているのは聖人だけである。どうして、これが分るのか、それは聖人の容貌に現れ、また体の動作で分るのだ。即ち、その容子(ようす)がのびのびしており、また顔色が喜びに溢れているのだ。 

25日 136.
君子は自得せざるなし
「君子は入るとして自得せざる無し」。怏怏(おうおう)として楽まずの字、唯だ功利の人之れを()く。 

岫雲斎
中庸・14章「立派な人物は、何処にいても、どんな地位にいても不平を抱かず、夫々の地位に応じて、するだけの事をして決して齷齪(あくせく)しない」とある。怏々(おうおう)として楽しまずという字は、功名利益を貪る人が心中に抱いているのだ。

26日 137.
避世と処世
世を避けて而して世に()るは、(かた)きに似て(やす)く、世に処りて而して世を避くるは、易きに似て難し。 

岫雲斎
浮世を避けて俗塵(ぞくじん)に染まらぬように自己流に世を渉るということは、難しいようで却ってやさしい。反対に俗塵の中にいて浮世を離れた心境でいられるのは、やさしいようで難しい。

27日 138.
易について命をまつ
「君子は()に居て以て命を()つ」。易に居るとは、只だ是れ(ぶん)に安んずるなり。命は則ち当に俟たざるを以て之れを俟つべし。 

岫雲斎
中庸13章には「立派な人物は、安全な常道を踏んで天命を待つ」とある。()に居るとは、ただ分に安んずるということである。(めい)とは意識しないで自然なままで天命を待つということだ。(中庸13章の続き「小人は険を行いて以て幸をもとむ」、小人は危険な策略を行い万一の僥倖を待っている。) 

28日 139.
日の長短は心にあり
怠惰の冬日(とうじつ)は、何ぞ其の長きや。勉強の夏日(かじつ)は、何ぞ其の短きや。長短は我れに在りて、日に在らず。待つ有るの一年は、何ぞ其の久しきや。待たざるの一年は、何ぞ其の速やかなるや。久速(きゅうそく)は心に在りて、年に在らず。 

岫雲斎
怠けて暮す時は、日の短い冬でも何と長いであろう。努め励むと夏の日でも何と短いと思う。つまり、長い短いは自分の主観にあるので日にあるわけではない。同様に、何か待つ事のある一年は何とまあ久しいことか。待つ事の無い一年は何とまあ、速いことか。久しい、速いは、心即ち主観にあるのだ。

29日 140.
少にして学ばざれば、壮にして惑う
朝にして食わざれば、則ち昼にして餓え、少にして学ばざれば、則ち壮にして惑う。餓うる者は猶お忍ぶ可し。惑う者は奈何(いかん)ともす可からず。 

岫雲斎
朝食をとらなければ昼には空腹となる。同様に、少年時代に学問をしておかなければ壮年になり、物事の判断などに惑うようになる。飢えはまだ辛抱できようが知識が無くては事の判断に惑い、どうにもならない。

30日 141.
素行のすすめ

今日の貧賤に、素行する能わずんば、(すなわ)ち他日の富貴に必ず驕泰(きょうたい)せん。今日の富貴に、素行する能わずんば、乃ち他日の患難に必ず狼狽せん。 

岫雲斎
現在、自分が貧賤の境遇にある時、それを自覚し安んじて道を行わないならば、他日、富貴を得た場合には必ず驕りたかぶるであろう。また、今日、富貴である場合、それを自覚し安んじて道を行う事をしないならば、他日、心配や困難が遭遇したら必ず慌てふためくであろう。

今月は141までとします。