日本歴史ーー徳永圀典の近・現代史
敗戦後、日本人が日本歴史を学ばないで来た結果が国民の意識、今日の国際、外交関係に大きなマイナスを日本に与えつつあると指摘できる。それは国家喪失に近い恐るべき段階に到達している。私は専門家でもないが、日本歴史、中でも近・現代を再び学び直し取り組みたいと決意した。そして、それは独自の見解を披瀝する事となる。毎日を目標とするが自由な形態で取り組む事とする。
平成15年6月1日徳永圀典
1.平成15年6月1日--6月30日間
概説 6月1日 |
概説1 | 16世紀以降、欧米諸国は地球規模の植民地化を進め、17世紀にはアジアに植民地橋頭堡を築いた。19世紀になり一段とアジア諸国に圧力を強めた。イギリスは産業革命、ロシアはツアーの権力拡大、アメリカは太平洋に進出しアジア諸国を狙った。開国を要求された徳川幕府は対処の妙案はなく国論は開国か攘夷で沸騰した。幕府は300年の慣例を無視し天皇の権威を借り挙国一致で難局を乗り越えようとした。国論は割れた。アヘン戦争でシナ人の破滅的実情を知った日本人は欧米の意図を察し攘夷を唱え幕府を倒し王制復古をものにした。これが明治維新である。この時、国内の対立勢力も欧米勢力の意図を知り賢明にも彼ら外国勢力を拒否したので、日本は内戦の泥沼化や民族の分裂は避け得た。国論分裂は民族の悲劇を齎すのは洋の東西を問わない歴史的事実である。それは、21世紀の今日にも通ずる問題でもある。 |
6月2日 | 概説2 | 国家の独立に危機感を抱いた明治政府。欧米列強国に伍して国家の独立保全を希求。為に西欧化で文明開花と富国強兵を邁進。明治半ばでアジアで最初の立憲国家となる。国会を開き、幕末に欧米の力に負け無知の為に締結した不平等条約の改正に取り組み半世紀かかって改正実現。 |
6月3日 | 概説3 | 近代化した日本は、欧米に侵食されつつある朝鮮に近代化と独立を働きかけた。朝鮮の宗主国、清国の反発を受けて対立、日清戦争で勝利し満州の支配を強化し大国ロシアの朝鮮進出に対抗せんとした。日露戦争となり勝利した日本は世界各地の民族の独立運動に強い刺激を与えた。 |
6月4日 | 概説4 | 大正から昭和には満州の権益を巡り米国と対立する。米国は門戸開放、機会均等を掲げシナに対する植民地や権益獲得に加わり日本と対立が深まる。米国と満州鉄道を共同経営しておれば日米対立は防げたとの反省もある。この間、経済恐慌、対シナ外交に苦しむ。政党政治に不満の軍部が台頭し満州事変を誘発しシナ事変に拡大する。遂に米国との戦争勃発。敗戦した日本は連合国に占領され、民族2千年の文化・伝統初めあらゆる革命的変革を強要された。極東軍事裁判という非近代的、野蛮なる事後法裁判で戦争を厳しく問われた。戦力放棄を規定した新憲法はマッカーサー指令によるものである。戦後日本はこのように米国の生殺与奪の権力の下に変革させられたもので、今日まで日本のあるゆる自主性喪失の原点となっている。 |
6月5日 | 概説5 | アメリカによる国際法違反の無差別空襲と原子爆弾により焦土と化した日本。米ソ冷戦下、国内では左右の思想対立に苦しんだ、それは現在でも尾を引いているが国民はゼロから立ち上がり団結し目覚ましい再建を経済中心に果たした。米国に次ぐ世界第二の経済大国となって対外資産世界一となると冷戦終結により、世界の屋台骨を揺るがす程の金融資産を貯めた日本に対して欧米が経済逆襲を迫り、冷戦思考の抜けきらない、国家戦略を持たない日本は、奈落の底に落ちるように市場経済という名のアメリカクリントン政権の謀略・恫喝に曝されて戦後成功のソフトと言える日本型システムを放棄した。経済優位を一挙に失い現在は、立ち直りの兆しさえ見えない不況の真っ只中にある。21世紀を迎えて、民族のアイデンティティ喪失したかに見える日本は、北朝鮮の拉致問題を通して、戦後の、国家の主体性の無さを漸く自覚しつつある。共産主義国人民約7億人の自由経済参加による低コスト攻勢は、21世紀が否応なく、新しいパラダイムに進むことを示している。だが、その処方箋は、どの国もまだ確立していない。EU通貨の創立がドル覇権を脅かしている。世界情勢の行くへは混沌とし、日本の進む道は示されていない。概説終わり |
幕末と開国 6月6日 |
幕末の国際情勢 |
十八世紀後半の英国産業革命は次第に西洋諸国に波及し大量生産体制に入る。原料獲得の為の植民地確保にアジアは絶好の地であった。19世紀末には日本・清・朝鮮・タイ以外は殆ど英国・フランス・オランダ・スペイン・ポルトガルの植民地となった。アヘン戦争に敗れた清は香港を英国に割譲し幕府は衝撃を受けた。依然として鎖国政策をとったが1853年米国ペルーが軍艦4隻で恫喝し開国を求めた。幕府は事態処理能力を欠いておりこれが諸大名をして政治への発言を誘発し幕府崩壊への導火線となった。そして朝廷の権威が高まる。 |
6月7日 | 開国 | 1854年ペルーは再来日、強硬に条約締結を要求。これが世に名高い、不平等条約の「日米和親条約」。外交知識に欠けた幕府は米国に一方的な最恵国待遇を認めた。英国・ロシア・オランダも同様に条約を結び、ここに完全に寛永16年-1639年以降の鎖国体制は終焉した。この条約の不平等性を解決するのに半世紀がかかった。それは明治44年-1911年の関税自主権の回復である。 |
6月8日 | 不平等条約 | 勅許を得ないまま井伊直弼は米国と条約の調印をした。それは1.外交官の江戸駐在、国内旅行許可。2.神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大阪の開市。3.通商は自由貿易。開港場に居留地を設け一般外国人の国内旅行禁止。4.居留地内の領事裁判権を認めた。5.関税の税率決定権を日本に与えないという不平等条約であった。これはオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結んだ。安政の五カ国条約である。この欧米諸国の手法に現代の市場経済の本質に似たものを見出すことができる。 |
6月9日 | 安政の大獄 | 勅許を得ないで条約締結した井伊直弼に対し公家・大名・志士は憤激した。井伊は大弾圧を加え反対者を弾圧し吉田松陰は刑死した。朝野の強い反発を招き桜田門外の変で井伊は暗殺された。井伊の後継の安藤信正大老は鎖国攘夷を約束し朝廷と幕府の融和、公武合体を画策し天皇の妹の和宮を将軍家茂の夫人に迎えた。政略結婚に反対した水戸浪士は安藤を襲う。坂下門外の変である。独自の公武合体論者島津久光の要求により参勤交代の縮小、西洋式軍制採用などの改革も実行した。文久の改革である |
6月10日 | 開国・貿易の影響 | 外国との貿易は大幅の輸出超過、生産量が追いつかず物価は上昇した。大量生産の安価な綿織物の輸入で農村や業者は大打撃を受けた。江戸の問屋中心の流通機構が崩壊した。外国と金銀比価に大きい違いがあり、外人は約束に違反し銀で日本の金を購入した為に大量の金貨が海外に流出した。低品位の金貨-万延金を発行したがこの改鋳により貨幣価値が益々下がり物価上昇に拍車をかけた。貿易に対する反感が高まり在留外国人とか商人が襲撃され攘夷運動が激化した。百姓一揆が全国的に増加し都市で打ち壊しが頻発した。 |
6月11日 | 吉田松陰 | 松陰は条約の違勅締結を機会に倒幕に傾斜。国難に対処するには、これまでの幕府独裁政治を廃止して朝廷を中心に挙国一致体制をとらなくてはならないと主張した。その門下生達は、長州藩を尊王攘夷論に固めて倒幕の推進力となり明治新政府の骨格をなすに至る。(門下生には、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎等多数の下級武士の志士が育った。) |
6月12日 | 国内列強の動向 | 長州藩は外国船砲撃の報復として英国・フランス・オランダ・米国の四国連合に砲撃された。薩摩藩は生麦事件の報復として英国の砲撃を受けた。列強国は神戸沖に軍艦を進め幕府に税率引き下げなどを強く要求。このようにして無知なアジアを植民地化、奥床しい日本人に対しては恫喝の彼等の本質は21世紀にも変わらぬものが見える。フランスは英国に対抗し幕府支援の立場で経済的、軍事的援助をした。英国は幕府政治に不信を抱き始める。 |
6月13日 | 幕末維新の主要人物 | 孝明天皇、明治天皇、吉田松陰、勝海舟。岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、井上馨、坂本竜馬、松平容保、三条実美、徳川慶喜、高杉晋作、伊藤博文。明治新政府の主要人物と新政府前に死亡した志士を色分けした。薩長連合無くして維新は成立しなかった。天皇・公家を除く11人中8人が薩長である。彼らは列強の野心を見抜き、日本分断化の恐れを洞察してそれを防いだ最大の功労者である。幕府は士気も無くガバナビリティを欠いていた。幕府に干されていた薩長連合、国史を紐解くがいい、日本の大改革は有史以来地方から澎湃として起きている。 |
6月14日 | 維新前後の社会状況 | 開国による政治と経済の大激変は社会不安を増大。世直しと呼ばれる大衆の動きが各地で発生。エエジャナイカである。伊勢神宮へお蔭参りの爆発的発生は日本独特のカタルシスであろう。これが倒幕運動にも影響。幕府は開国進取政策をとり積極的に欧米文化の輸入に努めた。薩長も同様。日本文化も海外へ紹介始める。欧米との力の差を如実に体験して、これも日本人の特徴と欠陥でもあるが一挙に雪崩のように欧米希求を始め、伝統文化を捨てすぎたきらいがある。これを第一次とするならば第二次は対米敗戦による伝統文化放棄という禍根を民族に残すはしりとなる。 |
近代国家の成立 6月15日 |
王政復古 |
慶応3年10月14日--1867年時勢の推移を察した将軍、慶喜は朝廷に大政の奉還を申し出た。家康以来15代265年で幕府は滅んだ。幕府の野心を見抜いた薩長は政変を断行し王政復古の大号令により天皇親政による新政府を樹立。幕府にフランスが抗戦援助の申しであるも慶喜は断り恭順を堅持した。英国公使パークスの努力もあり官軍の西郷隆盛と幕府方勝海舟の会談により江戸城の無血開城なる。これにより大規模な内乱と欧米列強の介入が阻止された。これは特別に記憶していい歴史的現代的テーマである。 |
6月16日 | 明治政府 | 近代国家成立の始まり。天皇の外交親裁、幕府の締結した条約遵守の対外発表。明治天皇は新政府の方針である「五箇条の御誓文」発表。国民には「五榜の掲示」を公布。 |
至高最善の国家目標五箇条の御誓文 | 1.広く会議を興し万機公論に決すべし。2.上下心を一にして盛んに経綸を行うべし。3.官武一途庶民に至る迄各々其志を遂げ人心をして倦まさらしめんことを要す。4.旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし。5.智慧を世界に求め大に皇基を振起すべし。 わが国未曾有の変革をなさんとし、陳躬を以て衆に先んじ、天地神明に誓ひ、大いに斯の国是を定め万民保全の道を立てんとす。衆亦この旨趣に基き、協力努力せよ。 これに難癖ある向きもあるが、無知と社会主義に毒された戦後文化人・マスコミ・日教組・社会党など知性と冷静さに欠けたものと指摘しておく。世界的にも国家の在り方としてこれに勝るものはない。 |
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五榜の掲示 | 庶民向けのもの。1.人倫の道を守ること。2.徒党・強訴の禁止。3.キリスト教を邪宗門として禁止。4.外国人への暴行禁止。5.郷村からの脱走禁止。(幕府時代からの政策)時代激変の経過的保全措置である。 | |
6月17日 | 不徹底な 三権分立 |
新政府は五箇条の御誓文の方針に基き政治組織を固めた。太政官にすべての権力を集中した中央政府で、その下に七官を置いた組織である。アメリカの官制を模倣している。然し、明治政府の三権は高度な独立性に欠けた。これが敗戦を経て150年後の今日まで真の三権分立として機能し確立しない牢固たるものとして尾をひいている。五箇条の御誓文は民主主義として欧米諸国に比しても遜色ない原理であるが、三権分立制度の基礎固めが不徹底であり今日まで機能しなかったと言える。この為に、昭和初期の軍部独走、大東亜戦争の対米和平の不成功、米ソ冷戦後のマネー戦争などの敗北時に柔軟性を欠く軍部官僚を含む官僚主導の政策となり立法府の主体性欠如が戦前戦後を問わず幾多の致命的国益を損じた元凶となった。これは朝日新聞をはじめ日本のマスメディアが真のジャーナリズム精神の発達に於いて21世紀のいまなお後進性がある事と無関係ではない。 |
6月18日 | 廃藩置県と 現在の改革 |
明治4年-1871年7月廃藩置県を断行。これにより新政府の政治的な国内統一が完成し封建制度が平和裡に廃止された。諸侯は華族、藩士、旧幕臣は士族、下級武士は卒、農工商は平民とされた。明治4年に身分解放令-壬申戸籍―わが国最初の近代戸籍―が出され表面的には四民平等が実現したが真の解放は対米敗戦後を待たなければならなかった。家禄を失い更に明治9年には廃刀令で士族の特権も消失し政府に対する不満分子の憤激も強くなり社会的には大きい混乱動揺があったのは当然である。明治維新は世界史的に見ればフランスの革命のように血なまぐさいものではなく、シナのような易姓革命でもなく、日本的な風土に生じた人間的温厚革命といえ人間のレベルの高さを証拠づける。これはシナ文明に毒されていない証左でもあろう。現在の国難的、経済財政悪化を思う時、歴史に学ぶとは、国家再生には武士の特権放棄を見習うべきであり、それは廃県置道、国会議員の半減、公的職員大削減による一大改革を先導する事でなくてはなるまい。 |
6月19日 | 神仏分離 |
神仏分離令が明治元年―1868年に出され廃仏毀釈を招き幕府の保護を受けていた仏教は大打撃を受けた。神仏混淆は中世に発した極めて日本的なものであるが、分離令は神社から仏教的要素を除外し王政復古、祭政一致の理念に基づいたものである。古来の純粋な神道の姿に戻ろうとし明治3年、政府は「かんながらの大道」を天下に布教せんとした。この事は格別不思議ではない、縄文以降の大和民族の信仰に戻ったに過ぎない。これを昭和になり政治や軍部が悪用したのが大きな過ちであり、それは対米敗戦後の今日まで、神道が国内的にも国際的にも大誤解を招き、靖国問題にまで尾をひいてしまった。民族土着信仰を米国占領軍に否定されそのまま今日迄従うとは日本人とは一体何物なのかとさえ思われる。多くの日本人は気づいていないが神道の原理は21世紀の地球を救いうる普遍的原理を保有している。明治時代に米国宣教師某が日本の神を西洋神ゴッドと同様なものとして翻訳し国際化しそれが定着したのは痛恨の極みである。キリスト・イスラム・ユダヤなど目には目の一神教のゴッドと、自然への感謝の神道の神は根本的に異なる事を国民は銘記し真の理解に努めなくては日本は国際理解されないのみか優れた伝統文化も真に理解できない。 |
6月20日 | 国民皆兵 |
欧米列強のアジア侵略と遠慮無い植民地化の姿とか列強の軍備を驚異の眼で見た新政府にとり近代的な軍隊を作ることは国防上最重要課題の一つであった。初代兵部大輔大村益次郎は国民皆兵の徴兵制度を唱え、山形有朋が志を継いで新兵制の確立に努めた。明治6年-1873年徴兵令が定められた。以後、原則として満20才に達した男子全員が身分に関係なく兵役の義務を負う制度が整った。特権を奪われた旧武士の士族の反感、流言もあり人心不安を誘発したが、これは大変革の時代には必然のことでもあろう。近代的な警察制度も進み明治7年東京に警視庁が創設された。このように新政府は国家諸制度の近代化を驚くべく急速に進めた。 |
6月21日 | 貨幣制度と 殖産振興 |
明治4年金本位制を確立し1円金貨を本位貨とし、円・銭・厘の硬貨を発行。同5年米国ナショナルバンクの制度を模倣した国立銀行条例を制定。工部省を設置して鉱山の政府直営、工学寮は技術者の養成であり大阪の砲兵工廠、横須賀、長崎の造船所の整備に当たる。外人指導の基に製糸工場で生糸の生産拡大に努めた。内務省は各地に官営模範工場を作り勧業政策を推進した。明治2年には蝦夷地を北海道と改称し開拓使を置いて米国式大規模農業を試みた。叉、屯田兵を置き開拓に努めた。交通、通信も整備が急速に進んだ。明治5年には新橋・横浜間の鉄道開通。大阪・神戸、京都・大阪も開通した。佐賀の乱や台湾出兵の軍事輸送を任せられた岩崎弥太郎の三菱が政府の手厚い保護を受けて発展した。明治4年に官営郵便制度が実施され全国に広まった。このように、短期間に一挙に先進国への道を進みだしたのは、日本人特有の好奇心と新し物好きが背景にある。同時に江戸時代からの一般庶民のレベルの高さが他のアジア諸国と大いに異なり近代化の素養十分の庶民の知的基盤があったからでもあろう。 |
6月22日 |
明治の外交課題ー朝鮮半島 |
1.当時わが国が抱えていた最大の国家目的の一つは欧米諸国の恫喝と無知と武力の故に幕末に締結した不平等条約の改正であった。明治4年右大臣岩倉具視を全権大使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを従え使節団を欧米に派遣した。先ず米国で改正交渉、最恵国待遇があり米国一国だけでは改正が成立しないので打ち切った。その後ヨーロッパ諸国を歴訪し見聞を広めた結果、条約改正の前提には内治整備が急務と痛感し帰国。事後条約改正は明治末期となる。これは欧米諸国の論理と一方的ルールの押し付けであり彼等の植民地収奪の手法である。現在の国際金融経済の手法と酷似している。これらへの対抗策はやはり論理と力と情報、外交能力武力を背景にしなくては対抗は至難と見られる。16世紀以来、世界の屋台骨を支えてきた彼らの財力、情報、人脈、武力と連携が背景として大きなパワーであり農耕民族は彼ら狩猟民族に対抗は所詮無理があるのかもしれない。それ故に国益を守るという命題は国家戦略として常になくてはならぬが今なお国家的反省が全く無きに等しい。明治維新の元老にはあの鎖国の中にあってそれを保有していた。これは国家国益を死守するという白刃の上を渡る思いの所産であろう。 |
6月23日 |
明治の外交課題ー朝鮮半島 |
2..江戸時代から友好関係ある朝鮮と新たな国交を開こうとした。鎖国の朝鮮は1637年から清国への朝貢国であり、従来の慣習に異なるとして天皇の名の国書を拒否し続けた。天皇の皇は清国の皇帝のみ使うとした。現在でも日本国の象徴である天皇を日王と呼ぶなど非礼極まりない韓国である。これでは真の友好関係は無理であり頑迷固陋さは少しも変わらない。この封建的な朝鮮はロシアに狙われており世界の欧米覇権に対抗して生きようとする日本の弊害であった。放置すれば朝鮮はロシアの植民地化は必至であり日本の安全の為に絶対に避けねばならぬ事態であり、これは当時の国際的常識で判断しなくてはならぬ。これが朝鮮を日本が併合した原因である。政府は次第に強硬論となり明治6年板垣退助は軍隊派遣を主張、西郷隆盛は使者派遣を提議、全権大使として朝鮮に渡り先ず開国を要望して事態の打開を図ることを主張し閣議決定。処が欧米視察から帰国の岩倉具視は強く反対、内治優先を主張し閣議決定を覆した。西郷は辞職し、板垣退助、江藤新平、副島種臣の参議も下野し政府首脳は分裂した。 |
6月24日 |
明治の外交課題ー朝鮮半島 |
3.閣内の征韓論争後も政府は朝鮮との修好を計ったが進展しない。明治8年江華島沖で測量など示威行動をした軍艦に朝鮮の砲台から攻撃を受けた。翌年、朝鮮に使節を派遣し開国を要求し日朝修好条約を結ばせた。この第一条に、清国の宗主権を排除し朝鮮は独立国である事を掲げさせ朝鮮の独立を日本は支援した。清国はあくまで宗主権を誇示し朝鮮に干渉、為に半島南下を図るロシアに対しても日本は外交交渉をすることとなる。このように宗主国、清―清は漢民族でなく本来は化外の民の筈だが----以上に儒教にどっぷり浸かる李朝、朝鮮には全く自主権がない状況であった |
6月25日 | 琉球台湾千島 |
清国とはほぼ対等の関係にあったが琉球問題で紛争が生じた。廃藩置県に際して琉球を鹿児島藩に編入したが翌年琉球藩とした。琉球国王尚泰を藩王として華族とした。明治4年琉球民が台湾で殺害された。この時清国は、台湾島民には二種類あり、清国に従わない島民は「自国の支配の及ばない化外の民」と称して責任を放棄した。よって政府は明治7年軍隊を台湾に派遣し占領した。大久保利通の北京での事件解決交渉も難航、英国の調停により妥協成立。清国は日本の台湾出兵を義挙と認定し賠償金支払いで解決した。これにより琉球問題は解決し明治12年琉球藩を沖縄県とした。明治8年-1875年ロシアと「樺太千島交換条約」にて樺太全島をロシア、千島列島全島を日本領土と決定した。対米敗戦後、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破り、泥棒猫の如く満州に侵入し数十万の日本人を拉致したが千島列島も占領したままである。 |
6月26日 | 西郷隆盛 |
今なお国民的に人気の高い人である。茫洋としたタイジンの風格は魅力がある。西郷は早くから西洋を学んでいて開国論者の橋本左内とも交友あり叉福沢諭吉の書物も読み絶賛している。然し本質的には東洋的思想による政治哲学の保有者である。西郷隆盛の「南洲翁遺訓」には次ぎの言葉がある。「文明とは、道徳があまねく実現されることであり、立派な宮殿が建設されたり、きらびやかな衣服をまとったり、外観が派手になったりすることではない」「真の文明国とは、未開の国に対して慈悲をもとに開明に導くべきで残酷な方法で利益を求める西洋のやり方は野蛮というべきだ」と記されている。―愚生の潮流寄稿―西南の役では賊とされたが、西郷挙兵の精神には非難すべき点はなく政府が西郷を死にやったと福沢諭吉は論じたし中江兆民や内村鑑三も西郷を支持した。西洋式の官軍が薩摩士族を破り西郷は自刃した。西南の役を最後に武士の反乱も終わり名実共に武士の時代は終焉した。然し、武士の精神を持ちつつ近代化を進めよという西郷の識見と気概は当時の人々の共感を呼んだ。現代もそれは極めて大切である。これを忘れているからこそ21世紀の今日の悲劇を招いたと言える。この500年間に渡る欧米諸国の世界植民地化は野蛮主義そのものである。これはいまなお不変の彼等の本質的要素であり21世紀の現在でも国際政治・金融・経済での野蛮なる手法は変わらない。この歴史的事実をしかと認識した上での対米同盟、日本の主権確立が絶対的に必要である。 |
文明開化 |
教育と啓蒙思想 |
文部省は明治4年に新設。フランスの学区制を模倣、学問は国民が身を立て智を進め産を作る実学主義が説かれた。福沢諭吉、新島襄、大隈重信などの特色ある私学により人材も輩出した。明治7年-1874年には500名以上がイギリス・アメリカ・フランスなど海外留学をした。福沢は英米流の功利主義・自由主義で人間の自由・平等・独立の精神と実学を尊重した。フランス、ドイツなど西洋の新しい思想が大いに紹介された。明治3年最初の日刊新聞、横浜毎日新聞であるが、相次いで新聞・雑誌が新思想の普及に大きい役割を果たした。怒涛のような欧米化の進展が見られるが、西郷隆盛、佐々木高行等の伝統精神が伴わず、これが日本の百年後に大きい禍根を残すこととなる。 |
6月28日 | 文明開化の音がする |
政府は率先して西洋風俗を採用し奨励した。明治4年散髪令により、ざんぎり頭が増えた。軍隊での洋服や靴が官吏や警察も着用、一般にも広く使用されるようになった。牛肉を食べるようになった。銀座の赤レンガの建物、石油ランプ、ガス灯、馬車、人力車も登場。明治5年には太陰暦から太陽暦にした。それは明治5年-1872年-12月3日を明治6年1月1日とした。一週間七日制とし日曜日を休日とするなど、国民生活が一挙に西洋式に変化してしまった。この明治初年の文明開化の風潮は対米敗戦後のアメリカ文化へ一挙に従属したのと同様で、余りにも日本文化を捨てすぎたと思われる。貴重な仏像、浮世絵など伝統的美術品をさも後進のように思い、したたかな外国人の手に渡ってしまった。対米敗戦後にこの傾向が一段と進み、敗戦後60年で、日本の日本らしいものが消失したばかりか、日本人と思えぬ青少年が育ってしまい、2000年の伝統ある国家の矜持を放棄させてしまった。その第一次が明治初年の文明開化であり軽薄の謗りは免れまい。新しいものへの好奇心は日本人の長所であり欠陥であるが、国家のアイデンティティ喪失にまで及ぶとは民族的大問題と思われる。 |
6月29日 | ベルツの見た日本人 |
明治初年の日本の風潮はどんなものであったか。明治は余りにも日本の伝統文化を捨てすぎた第一次と記載した。当時の教養と知性ある白人は日本をどう見ていたのか、実に興味深く示唆に富む読み物がある。明治9年10月25日付ベルツの日記である。[我々中世の騎士時代の文化状態にあったのが、昨日から今日へと一足飛びに、我々欧州の文化発展に要した5百年たっぷりの期間を飛び越えて19世紀の全成果を即座に、しかも一時に我が物にしようとしている。・・このような大跳躍の場合・・これは寧ろ「死の跳躍」と言うべきで、その際、日本国民が首を折らねば何よりですが。・・何と不思議なことには、現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした。」と私に言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、我々の歴史は今からやっと始るのです」と断言しました。]この日記はドイツ医学者で日本で著名なベルツ博士である。唖然とする程に対米敗戦後、伝統文化を捨てて省みない現代日本人と変わらない。西洋は野蛮じゃ、と本質を喝破した西郷隆盛、日本は近代法律と技術以外は西洋に学ぶ必要なしと見識を示した佐々木高行が偲ばれる。 |
6月30日 | 余談 白人優位 |
不平等条約の改正交渉を有利に進めようとして行った極端な欧化政策を象徴する言葉が鹿鳴館であろう。これは甚だ悲壮で滑稽である。国民は反発した。明治19年のイギリス船ノルマントン号事件―日本人20名を乗せて横浜から神戸へ行く途中、和歌山沖で沈没、船長以下乗組員全員脱出、日本人全員水死。神戸の領事裁判所は船長無罪、横浜領事裁判所では船長禁固3ケ月、賠償なし。国民は憤激、外国人が裁判権を握っている以上、正当な裁判は行われないと完全な法権力回復を求める声が沸きあがった。万国国際法という欧米に都合のいい法を力で押し付け後進国を人間扱いしない白人優位の人種差別である。これが日本国をして白人の人種差別撤廃へ向けて堅く志を持つ事となって行く。 |