佐藤一斎 「言志耋禄」その七 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

平成26年2月

1日 173.
幼にして遜弟ならず、長じて述ぶるなし。云々
「幼にして(そん)(てい)ならず、長じて述ぶる無し」とは、世に其の人多きなり。
(けい)(がい)相遇(あいあ)
いて、我が(ねがい)(かな)う」とは、(まれ)()の人を見る。
 

岫雲斎
「幼少の時、謙遜従順でなく、長じてからも格別これと言って取り立てて言う程の立派な行いがない」と言われる人は世間に多い。「途中で馬車の蓋を傾けてちょっと挨拶した程の交わりであっても意気投合してしまう」というような人物は世間では稀にしか見ない。

2日

174.人を観る法

人を観るには、徒らに(そと)()容止(ようし)に拘わること勿れ。(すべか)らく之れをして言語せしめ、就きて其の心術を(そう)すべくば可なり。先ず其の眸子(ぼうし)を観、又其の言語を聴かば、大抵かくす能わじ。 

岫雲斎
人物観察の方法は、徒に外見上の姿形にとらわれる必要はない。その人物に話をさせて、それに就いて心の動きを観察すれば良い。先ず、その人物の瞳を観察すし言葉を聴けば大抵、その人間の心中は隠せない。

(孟子離婁上篇「其の言を聴き、其の眸子(ぼうし)を観れば、人なんぞ?(かく)さんや。)(中国の人物観察法で著名なものが「呂氏春秋」の六験・八観。「六韜(りくとう)」の竜韜(りゅうとう)篇の(はっ)(ちょう)の法である。)

3日 175.
自と他 
二則 

その一
我れ人を観んと欲しなば、則ち人(かえ)って我れを観る。我れ人をして我れを観しめんと欲しなば、則ち人我れを観る能わずして、而も我卻って人を観る。感応(かんのう)()()くの如し。 

岫雲斎
自分が他人を観察しようとすると、反対に他人が自分を観察してしまう。自分が他人をして自分を観察させようとすると、その人は自分を観察できないので却って自分がその人を観察してしまう。人心の相互に感じあう微妙さはこんなものである。 

4日 176.自と他 
二則 

その二

(じん)()は一なり。自ら知りて人を知らざるは、未だ自ら知らざる者なり。自ら愛して人を愛せざるは、未だ自ら愛せざる者なり。 

岫雲斎
他人と自分とは実は一つのものである。自分が自分を知っていて他人を知らないとは、実は未だ自分を知らないことなのである。自分を愛して他人を愛さないとは、まだ本当に自分を愛していないことなのである。

5日 177.
君子は自ら欺かず
自ら多識に(ほこ)るは(せん)()の人なり。自ら謙遜に過ぐるは、(そっ)(きょう)の人なり。但だ其の自ら欺かざる者は、君子人(くんしじん)なり。之れを誠にする者なり。 

岫雲斎
自分が物知りだと自慢する者は浅薄な人間である。また自に(へりくだ)り過ぎるのは媚び諂(こびへつら)う人間と言える。卑下慢(ひげまん)と言う。ただ、在りのまま自ら欺かない人間が君子と言える立派な人間である。このような人物こそ誠の道の実践者である。

6日 

178.
本物と似せ物

執拗は(ぎょう)(てい)に似たり。軽遽(けいきょ)敏捷(びんしょう)に似たり。多言は博識に似たり。浮薄(ふはく)(さい)(けい)に似たり。人の似たる者を視て、以て己れを反省すれば、可なり。 

岫雲斎
「しつこい」のは信念の固いのに似ている。「軽はずみ」はすばしこいに似ている。「口数の多い」のは物知りに似ている。「うわすべりで軽薄」は才智の勝れているのに似ている。このように、他人の似て非なる言動を観て自分を反省するのがよい。

7日 179. 
物に愛憎
物に愛憎有るは、尚お可なり。人に於て愛憎有るは、則ち不可なり。

岫雲斎
物を愛するのは実害が無いからまだ宜しい。然し、人を愛するには公平が大切、公平を欠くと害毒の基となるからである。

8日 180.  
一言一話もよく聞け
人の一話(いちわ)一言(いちげん)は、徒らに聞くこと勿れ。必ず好互(こうたい)有り。弁ず可し。 

岫雲斎
人のちょっとした話でも、ちょっとした言葉でも、いい加減に聞くのは宜しくない。それらには必ず善い事と、悪い事とがあるものだ。よく弁別しなくてはならぬ。

9日 181.
人を視る
余は年来多く人を視るに、人各々気習(きしゅう)有り。或は地位を以てし、或は土俗を以てし、或は芸能、或は家業皆同じからざる有り。余先ず其の気習を観て、即ち其の何種の人たるを(ぼく)するに、大抵(あやま)らざるなり。唯だ非常の人は、則ち(たて)()横に()れども、気習を()けず。?(まれ)()の人を視る。蓋し人に(まさ)る一等のみ。 

岫雲斎
私は年来多数の人間を観ているが、人には夫々気質、習癖がある。それは、その人の地位から来るもの、郷土の風俗から来るもの、或は、その人の芸術、技能、家業からというようにみな同じではない。それで、私は、先ずその人の気質、習癖を観て、その人はどのような人物かを判断して観ると、大抵誤りがない。ただ、大人物は、縦から見ても、横から見ても、特有の気質・習癖をつけていない。このような人物を偶に見るが普通人より一段勝れている。

10日 182.         
有りてなき者は人なり

有りて無き者は人なり。無くして有る者も亦人なり。 

岫雲斎
世の中には沢山人がいるが、いないのは立派な人物だ。然し、いないようで居るのが立派な人物で、どこかに隠れているものだ。

11日 183
人、各々適職あり
人各々長ずる所有りて、格好の職掌有り。(いやし)くも其の才に当らば則ち棄つ可きの人無し。「牛溲(ぎゅうしゅう)馬勃(ばぼつ)(はい)()の皮」、最も妙論なり。 

岫雲斎
人にはそれぞれの長所があり最適の役目があるものだ。その才能に当ったら捨ててしまつてよい人などはいない。「牛の小便、馬の糞、破れ太鼓の皮」なども名医はこれを用いて薬にするなど巧妙な比喩である。

12日 184他山の石 人我れに同じき者有り。(とも)に交る()けれども、而も其の益を受くること(はなは)だ多からず。我れに同じからざる者有り。(また)(とも)に交る可けれども、而も其の益(すくな)きに(あら)ず。「他山の石、以て玉を磨く可し」とは則ち是れなり。 

岫雲斎
世間には性格や趣味の同じ人がいる。こういう人と交際するのは勿論よい。だが、大して益を受けることはないものだ。反対に、自分とは性格趣味の違う人がいる。こういう人々と交際するのは良いことで、自分の為になることが多い。他山の粗石でも我が玉を磨くには役に立つ」とこかかる事を言うのである。

13日 185.
間違いを指摘されて喜べ

生徒、詩文を作り、朋友に示して正を(もと)むるには、只だ改竄(かいざん)の多からざるを(おそ)る。人事に至りては、則ち人の規正を喜ばず。何ぞ、其れ小大の不倫なること(しか)るや。「()()は、告ぐるに()有るを以てすれば則ち喜ぶ」とは、(まこと)に是れ百世の師なり。 

岫雲斎
生徒が詩や文章を作って友人に見せて訂正を求める時は、ただ文章の字句などの改める箇所の多くないことを恐れる。しかし、人間にかかわる事柄になると匡正(きょうせい)してくれることを喜ばない。何とまあ、何れが小で、何れが大であるのか順序の合わないことであろう。孔子の弟子の「子路は他人が過りを告げてくれると喜んだ」というが、子路は誠に百世にわたる師表たるの人である。

14日 186.
人は同を喜び、余は異を好む
凡そ人は同を喜んで異を喜ばざれども、余は則ち異を好んで同を好まず。何ぞや、同異は相背く如しと雖も、而も其の相資(あいし)する者は、必ず(あい)(そむ)く者に在り。仮えば水火の如し。水は物を生じ、火は物を滅す。水、物を生ぜざれば、則ち火も亦之れ滅する能わず。火、物を滅せざれば則ち水も亦之れを生ずる能わず。故に水火相逮(そうたい)して、而る後万物の生々窮り無きなり。此の理知らざる可からず。 

岫雲斎
人間は趣味性格が自分と同じ人を喜び、異なる人を歓迎しないが、自分は異なる人間を好む。なぜか、異なる者は相背くようだが、実は互いに相助け合うものは必ず相背くものに存在している。例えば、水と火のようなものである。水は物を生じ、火は物を消滅させる。もし水が物を生じさせなければ、火も物を消滅させえない。火が物を消滅させなければ、水もまた物を生ぜしめない。だから、水と火は互いに助け合って後に万物が次々と生まれ窮まることが無いのである。この道理を知らねばならぬ。

15日 187.
忠と恕二則
その一
忠の字は宜しく己れに責むべし。()れを人に責むること勿れ。恕の字は宜しく人に施すべし。諸れを己れに施すとこ勿れ。 

岫雲斎
忠の字は誠、真心という意味で、自分自身を責めるのに、この忠、即ち真心であるかどうかを尺度として使うがよい。これを人を責めるものにしてはならぬ。恕は思いやりのことである。これは人に施すべきもので、自分にそれをしてはならぬ。 

16日 188.
忠と恕二則 
その二
妄念起る時、宜しく忠の字を以て之れに克つべし。争心起る時、宜しく恕の字を以て之れに克つべし。 

岫雲斎
みだりな邪念が起きた時は、これは忠の字に照らして克服しなくてはならぬ。人と争うような心が起きた時は、恕の字を思い起こして克服しなくてはならぬ。

17日 189.
実務経験を軽んずるな
人事を経歴するは、即ち是れ活書を読むなり。故に没字の老農も亦或は自得の処有り。「先民言う有り、蒭蕘(すうじょう)?(はか)れ、と」。読書人之れを軽蔑するを()めよ。 

岫雲斎
世間の事柄を経験する事は活きた書物を読むようなものだ。だから、字の読めない老農でも浮世の経験を経てそこに体得しているものがある。「詩経」大雅、板の語に「古の賢人は、草刈人夫や木こりにも意見を聞けと言っている」とある。書物を読む人々は、実務により経験している人々を軽んじる事はやめなさい。

18日 190.
尋常の中に奇あり
(にわか)に看て以て奇と為す者、其の実皆未だ必ずしも奇ならず。看て尋常と為す者、(かえ)って(おおい)に奇なる者有り、察せざる()けんや。 

岫雲斎
慌てて物を見ていかにも奇妙に見えるものが、実は必ずしも奇妙ではない。反対に、平凡な物だとしているものに、却って奇妙なものがある。よくよく観察しなければならぬ。 

19日 191.
言語の道五則 その一
人の言を聴くことは、則ち多きを(いと)わず。(けん)不肖(ふしょう)と無く、皆()(えき)有り。自ら言うことは、則ち多きこと勿れ。多ければ則ち口過(こうか)有り。又或は人を誤る。 

岫雲斎
人の話を聴くことは多くても嫌がらない。言う人が賢者でも愚者でも、みな為になる。然し、自分から言うことは多いのはよくない。多いと失言や誤解を生む。 

20日 192.
言語の道五則 その二
言語の道、必ずしも多寡を問わず。只だ時中(じちゅう)を要す。然る後人其の言を厭わず。 

岫雲斎
言葉は多いとか、少ないの問題ではない。ただ、発言がその場合に適切なことが大切である。もしそうならば、聞く人は言葉の多いのを嫌がりはすまい。
(中庸、「君子にして時に(ちゅう)す。)

21日 193.
言語の道五則 その三
多言の人は浮躁(ふそう)にして、或は人を()ぐ。寡黙の人は測り難く、或は人を探る。故に「其の言を察して、其の色を観る」とは、交際の要なり。 

岫雲斎
言葉数の多い人は軽薄で騒がしく、ややもすると人を傷つける。口数の少ない人は容易に心中が測られず、また人の心を探ろうとしている。だから、孔子の言われた「人の言葉を洞察し顔色を見抜く」のが交際の要諦である。

22日 194.
言語の道五則 その四
「古の学者は己れの為にす」と。故に其の言も亦()と己れの為にし、又其の己れに在る者を以て、之れを人に語るのみ。之れを強うるに非ず。今の立言者は之れに反す。 

岫雲斎
昔の、学問をした人は自己の道徳を向上する為に学んだ。だから、その言う所は、自分の修養の為であり、また自分の考えを人に言うだけであり、決して之を人に強いる事はしなかった。然るに、現在、言っている人は反対で自分の修養の為だけでなく人に語る為にしている者だ。 

23日 195.
言語の道五則 その五
簡黙(かんもく)沈静(ちんせい)は、君子固と宜しく然るべきなり。()だ当に言うべくして言わずば、木偶(もくぐう)となんぞ(えら)ばん。故に君子は時有りては、終日言いて、口過(こうか)無く、言わざると同じ、要は心声(しんせい)の人を感ずるに在るのみ 

岫雲斎
飾り気が無く口数の少なく静かで落ち着いているのは立派な人物、当に然るべきことである。だが、言わねばならぬ時に言わぬのは木の人形と何処が違うのか。だから、立派な人物は、時に一日中喋っても、失言することがない。失言のない事は言わないのと同じなのである。つまり肝要な事は、心の声、即ち真心から出た言葉が人を感動させるという事なのである。 

24日 196.
剛強の者と柔軟な者
凡そ剛強な者(くみ)みし易く、柔軟な者恐るべし。質素の者は永存し、華飾(かしょく)の者は(はく)(らく)す。人の物皆然り。 

岫雲斎
剛強な人物はくみし易い、柔軟な人間は却って恐るべきものがある。飾り気の無い地味な人は変わりなく続くが、派手な人間は剥げ落ち易い。人間の有するものはみなこの通りである。

25日 197.
有徳者は口数が少ない
徳有る者寡言(かげん)なり。寡言の者未だ必ずしも徳有らず。才有る者多言なり。多言の者未だ必ずしも才有らず。 

岫雲斎
徳の備った人物は口数が少ないものだ。だが、口数が少ない者だからと云って必ずしも徳があるとも言えない。才有る人間は口数の多いものだが、口数が多いからと云って必ずしも才が有るとも言えないのだ。
 

26日 198.
芸能三則 
其の一
人、智略有る者、或は芸能無く、芸能有る者、或は智略無し。智略は心に在りて、芸能は身に在り。之れを兼ぬる者は少し。 

岫雲斎
智慧と策略ある人には芸術や技能がなく、芸能の有る人には智略が無い。智略は心にあるが芸能は体にある。これら両者を兼ねて持っている人は少ない。(大脳生理学によると智恵を働かす場所と芸能を司る場所が異なる由。) 

27日 199.
芸能三則 
其の二
芸能の熟するや、之れを動かすに天を以てす。妙は才不才の外に在り。 

岫雲斎
芸能が磨かれて円熟の境地に達すると、その人を動かすものは天であるようになる。妙技というものは、才とか不才とか言うものの外にあるようだ。

28日 200.
芸能三則 
其の三
芸能有る者は、多く(しょう)(しん)有り。又(きょう)(しん)有り。其の芸能有りて、而も謙にして且つ遜なる者は、芸の最も秀でたる者なり。(しょう)の反は遜と為る。芸能も亦心学(しんがく)に外ならず。 

岫雲斎
芸術技能ある者の多くは勝気であり、人に驕る心があるものだ。芸能があり而も謙虚な人間の多く芸の最も優れた人物である。「勝」の反対は「謙」であり「驕」の反対は「遜」である。かかる次第で芸能も亦心を修める学問に外ならない。