佐藤一斎 「言志耋禄」その八 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

平成26年3月

1日 201          
書と画は一なり
書画は一なり。書は()の如くなるを欲し。画は書の如くなるを欲す。書、画の如くなれば、則ち筆に(さい)有り。画、書の如くなれば、則ち形に(しん)有り。(すべか)らく善く此の理を(かい)すべし。 

岫雲斎
書と画をかく精神は一つである。書は画をかくように、画は書をかくようになれば善い。書が画のようになると筆に光彩生ず。また画が書のようになれば、形に精神が躍動してくる。
書をかく人、画をかく人、共にこの道理を会得するがよい。

2日 202.
雅事と俗事
雅事(がじ)は多く是れ虚なり。之れを雅と謂いて之れに(ふけ)ること勿れ。俗事は(かえ)って是れ実なり。之れを俗と謂いて(ゆるが)せにすること勿れ。 

岫雲斎
風流事は多くは虚である。これをみやびなどと申して没頭してはならぬ。日常の俗事こそ人間の実生活に不可欠なものである。これを俗事と称して侮ってはならぬ。

3日 203.
才ある者への注意

(すこ)しく才有る者は、往々好みて人を軽侮し、人を調(ちょう)(しょう)す。失徳と謂うべし。(あなどり)を受くる者は、(いたずら)()まず、必ず(うら)みて之れを(しん)す。是れ我が自ら(しん)するなり。吾が党の少年、此の(しゅう)に染まる()くして可なり。 

岫雲斎
少しばかり才がある者は、しばしば人を軽侮したり、からかい笑ったりするのを好む。なんと徳義に反することか。侮りを受けた者は、その場限りですまず、必ず怨んでその人を(そし)るであろう。これは侮ったのは自分で自分を誹ったということである。学問をする若い人々はこんな悪習に染まらないことだ。 

4日 204.
古人を批評するは可、今人は非
古人の是非は、之れを品評するも可なり。今人(こんじん)の善悪は、之れを妄議するは不可なり。 

岫雲斎
古人の善悪の品定めはしてよい。だが、現存の人の良し悪しを妄りに論議するのはよくない。人から怨まれる原因の多くは妄りに人を論評する所から起きる。警しむべくことだ。

5日 205.
名利は厭うべくに非ず
名の(もと)めずして(きた)る者は、実なり。利の貪らずして至る者は、義なり。名利は厭う可きに非ず。但だ(もと)むると貪るとを之れ病と為すのみ。 

岫雲斎
自ら求めないで与えられる名誉は実績の結果である。がつがつしないで得られた利益は正しい行為の結果である。かかるようにして得た名誉とか利益は嫌がる必要はない。ただ名誉は自ら求めたり、利を貪るというのは弊害をなすだけである。 

6日 206.
実重くして名軽し

人皆謂う、「実重くして名軽し」と。()とより然り。然れども、名も亦容易ならず。其の実の(ひん)たるを以てなり。(ひん)(けん)なれば、則ち主の賢なること()()し。 

岫雲斎
実の有る者は皆「実質を重視すべきで、名目は軽視してよい」と言う。その通りである。然し、名目とても簡単に得られるものではない。何故ならば、名は実に付いてくる客のようなものだからである。客が賢明な人物ならば、主人もまた賢明な人である事は推して知るべしである。 

7日 207.
実ある名は断らない
実有るの名は、必ずしも謝せず。我の賓なればなり。義無きの利は、(いやし)くも受けず。我れの(あだ)なればなり。 

岫雲斎
実質の有る名誉は、必ずしも断らない。それは、自分の来客だからである。正しい行いによらぬ利益はかりそめにも受けぬ。それし自分の仇敵だからだ。 

8日 208.
名を好む士

名を好むの士は、全く取る可からず。又全く()つ可からず。名を好む、故に外其の美を飾る。我れは宜しく(しばら)く其の名を与えて、以て其の実を責むべし。 

岫雲斎
名誉を好む人は、その全部を良しとすることは出来ない。また、全部がダメだとも言えない。名誉を欲しがるから外面に美を飾ることになる、だから、自分は先ず彼に名誉を与えてからその実が挙げられているか、どうかで責めてみたい。

9日 209.
功名に虚実あり
功名に虚実有り。実功は即ち是れ人事なり。自ら来るの名は、他の来るに任せて可なり。但だ(らん)(こう)虚名(きょめい)を不可と為すのみ。又(ことさ)らに其の実を避けて以て自ら(くら)ますも、亦或は私心ならん。 

岫雲斎
功績や名声を挙げるにも、本物とインチキがある。実のある功績は人間の一つの仕事である。その実のある功績により自然に生ずる名声は、それが来るのを任せて宜しい。ただ、濫りに功をてらったり、虚しい名誉を得ようとする事は良くないというだけだ。然し、反対に自分で挙げた実功を自分に無関係のように振る舞い自分らを愚か者のように装う事もわざとらしい作為的な心である。 

10日 210.
にせものを誤るな

遊惰(ゆうだ)を認めて以て(かん)(ゆう)と為すこと勿れ。厳刻(げんこく)を認めて以て直諒(ちょくりょう)と為すこと勿れ。私欲を認めて以て志願と為すこと勿れ。 

岫雲斎
遊び怠けているのを見て、心が寛く、こせつかないと思うな。厳しく容赦しないのを見て真直ぐで偽りがないと思うな。利己的欲望をみて、志を立て実現を期待し計るものと思うな。

11日 211.
名誉も不名誉も自己修養の資となる

名有る者は、其の名に誇ること勿れ。宜しく自ら名に副う所以を(つと)むべし。(そしり)()くる者は其の毀を避くる勿れ。宜しく自ら毀を来す所以を求むべし。是くの如く功を()けなば、毀誉(きよ)並に我に於て益有り。 

岫雲斎
名誉ある者はその名誉を毀損してはならぬ。自分の日常の行いをその名誉に相応しいものであるように務めなければならぬ。また世間に悪く言われる人は、その非難を避けてはならない。どうして誹られるようになったのかその原因を自ら考えて求めなくてはならぬ。このように工夫を積めば名誉も不名誉も共に自己にとり利益となる。

12日 212.
実名も虚名も自ら来るに任せよ
虚名を(てら)いて以て実と為すこと勿れ。当に実名を謝して以て虚と為すべし。実名を謝して以て虚と為すこと勿れ。当に虚実を(ふた)つながら忘れて以て自ら来るに任すべし。 

岫雲斎
虚名をわざとらしく、みせびらかして、実績ありと世を欺くな。実績のある名声を辞退して本来無かったものとするがよい。いやいや、実績のある名声を辞退して、本来無かったものとしては良くないな。一番良いのは虚名も実名も両方とも忘れて自然に来るのに任せることだね。

13日 213.
毀誉四則 
その一
毀誉(きよ)一套(いつとう)なり。()は是れ()の始め、()は是れ()(おわり)なればなり。人は宜しく求めずして、其の誉を全うし、毀を避けずして其の毀を免るべし。是れを之れ(たっと)しと為す。 

岫雲斎
謗りと誉めは一揃いのものだ。誉められる事は謗りの始めである。謗られる事は誉められる事の終りであるからだ。人は先ず誉められようとしないで、誉められる元になる行いを完全になし、徒らに謗られる事を避けようとしないで、根本的に謗られないように務めるのが良い。これが一番よいやり方である。 

14日 214
毀誉四則 
その二
徒らに我を誉むる者は喜ぶに足らず。徒らに我を毀る者も怒るに足らず。誉めて当る者は、我が友なり。宜しく(つと)めて以て其の実を求むべし。毀りて当る者は、我が師なり。宜しく敬して以て其の(おしえ)に従うべし。 

岫雲斎
無闇に自分を誉めたり謗ったりする者があっても喜んだり怒ったりする事はない。誉められてその通り当たっている者は自分の友である。務めてそれに値いするように実を挙げねばならぬ。謗られて当たっている者は自分の師匠である。敬ってその訓に従うようにしなけらればならぬ。

15日 215.
毀誉四則 
その三
人の人を毀誉するを聞くには、大抵其の(なかば)を聞けば可なり。(りゅう)(こう)謂う「人を誉むるに、其の義を増さざれば、則ち聞く者心に快しとせず、人を毀るに、其の悪を益さざれば、則ち聴く者耳に満たず」と。此の(げん)人情を尽くすと謂う可し。 

岫雲斎
人が人を謗ったり誉めたりするのを聴く時、大抵事実はその半分と思って聴けばよい。劉向という前漢の学者は「人を誉めるのに、その優れた所を大袈裟に言わぬと聴き手は面白く感じない。人を謗るにも、その悪い点をオオバーに話さないと聴き手は満足せぬ」と言った。この言葉は人情の機微を穿ったものだ。 

16日 216毀誉四則 
その四

毀誉(きよ)(とく)(そう)は、真に是れ人生の雲霧なり。人をして昏迷せしむ。此の雲霧を一掃すれば、則ち天青く日白し。 

岫雲斎
不名誉、名誉、成功、失敗はまことに人生の雲や霧のようなものだ。これが人の心を暗くし迷わせている。この心の雲霧である毀誉得喪を、さっぱりと一掃すれば、天は青く、日は白く輝いており人生は誠に明るいものだ。

17日 217
未見の心友、
日見の疎交
世には、未だ見ざるの心友有り。日に見るの疎交有り。物の?合(けいごう)は、感応の厚薄に帰す。 

岫雲斎
世間には一度も会った事が無くとも、心の通い合える親友がいる。また、毎日会っていても表面だけの交際に過ぎない人もいる。物の離合は、みな、心と心との感応の厚いか薄いかに依拠している。

18日 218
翫物喪志か
人、往々文房の諸翫(しょがん)を以て寄贈す。余()(がん)(ぶつ)の癖無し。常用の()(げん)、皆六十年(がい)の旧物に係れり。但だ人の寄贈、其の厚意に出ずれば、則ち之れを(むな)しうするを欲せず。故に(つね)(しばら)く之れを座右(ざゆう)に置く。然るに知らざる者は、()て之れを(そし)り、以て、「翫物(がんぶつ)(そう)()」と為す。余(かっ)て此れを以て諸れを意に介せず。因て()た自ら(いまし)めて謂う、「人の事を(なさ)すは、各意趣(かくいしゅ)有り。(いたずら)に外面のみを視て、(みだり)に之れを毀誉するは不可なり。祇に以て己れの不明を視すに足る。益無きなり」と。 

岫雲斎人が時々、書斎用の諸道具を寄贈したくれる。
自は元来、物を(もてあそ)ぶ癖はない。

平常に使用している机や硯もみな60
年来の古い物である。
ただ、人の呉れるものは、その人の好意から出でいるのだから、無にしようとは思わぬ。
だから、何時でも暫くの間その寄贈物を座右に置いている。
然るに、この自分の気持ちを知らぬ人達は、これを見て私を謗り「つまらぬ品物を翫んで大切な志を失っている」としている。
 

19日 219
我を毀誉するは鏡中の影
我れ自ら面貌(めんぼう)好醜(こうしゅう)を知らず。必ず鏡に対して而る後に之れを知る。人の我れを毀誉するは、即ち是れ(きょう)(ちゅう)影子(えいし)なり。我れに於て益有り。但だ老境に至り、毀誉に心無ければ、則ち鏡中にも亦影子を認めざるのみ。 

岫雲斎
私は自分の顔形が良いのか悪いのか知らぬ。鏡に写して初めて知る。他人が私を悪く言ったり、良く言ったりするのは、鏡に映る自分の影法師のようなものであって自分にとり益がある。ただ、現在は老境に至り、どう言われようと気にしないから鏡中に映る私の影も認めない。

20日 220
人間の道は六経に尽きている
天道は、()べて是れ吉凶悔吝(きっきょうかいりん)にして、易なり。人情は、都べてこれ国風雅頌(こくふうがじゅ)にして、詩なり。政事は、都べて是れ訓誥(くんこう)(せい)(めい)にして、書なり。交際は是れ恭敬辞(きょうけいじ)(じょう)にして、礼なり。人心は、都べて是れ感動(かんどう)和楽(わらく)にして、楽なり。賞罰は、都べて是れ抑揚(よくよう)褒貶(ほうへん)にして、春秋(しゅんじゅう)なり。即ち知る、人道は(ろく)(けい)に於て之れを尽くすを。 

岫雲斎

天地自然の道は、総て吉と凶、ならびに悔いと恨みとが交替するもので易経にある通りだ。人情は、中国各地の民謡、朝廷の宴席の歌、宗廟を祀る歌などが書いてある詩経の通り。政事は、国民に教え告げること、誓いを立て戒めとする事など書経の通り。人と人との交際は、恭しく敬したり、人に譲ることで礼記の通り。人心は感動したり、楽しんだりするのが中心でもこれは楽記にある。賞罰は、抑えたり揚げたり、誉めたり貶したりする事で、春秋に書いてある。以上の通り、人道は、これら六経に全て言い尽くされているのを知るのである。

21日 221
史学にも通暁せよ
史学も亦通暁(つうぎょう)せざる可からず。経の史に於けるは、猶お律に案断(あんだん)有るがごとし。推して之れを言えば、事を記すものは、皆之れを史と謂う可し。易は天道を記し、書は政事を記し、詩は性情を記し、礼は交際を記す。春秋は則ち言うを待たざるのみ。 

岫雲斎
歴史の学問にもまた通じ諳んじねばならぬ。経書と歴史の関係は、法律と判例のようなものである。推し広めて言えば、事跡を書くものはみな歴史と言える。易経は、天地自然の道理を記し、書経は政事を記し、詩経は人間の性質や感情を記し、礼記は人の交わりを述べたものである。何れも一種の史と見てよい。春秋に至っては、その歴史であることは言うまでもない。

22日 222.
文章に熟達する法
文章は必ずしも他に求めず。経書を反復し、其の語意を得れば、則ち文章の熟するも、亦其の中に在り。 

岫雲斎
文章を上手に書こうとするには、何も他書を求めることはない。経書を繰り返し熟読してその意味が分かってくると文章は自然に上達するものである。
(経書=五経=易経、書経、詩経、礼記、春秋。)

23日 223.
政事偶感
政に(かん)(もう)有り。又寛中の猛有り。猛中の寛有り。唯だ覇者は、能く時に従い処に随いて、互に其の宜しきを得ることを為す。是れは則ち管晏(かんあん)の得手にして、人に(まさ)る一等の処なり。(そもそも)其の道徳の()に及ばざるも亦(ここ)に在り。 

岫雲斎
政事に寛大なのと厳正なのとがある。また、寛大の中に厳正なのがあり、厳正の中に寛大なのがある。ただ覇者即ち武を以て天下をとつた者は、よく時に従い、所に従って、寛と猛とを宜しく使ってゆくものだ。この事は、斎の宰相だつた管中と晏嬰(あんえい)が得意な所で、常人を抜きん出ていること一等であった。

24日 224          
古書は必ずしも信ず可からず
古書は()とより宜しく信ずべし。而れども未だ必ずしも悉くは信ず可からざる者有り。余()って謂う、「在昔(ざいせき)通用の器物は、当時其の形状を筆記する者無かりき。年を歴るの久しきに至って、其のも亦乏しくして、人或は其の後に及びて真を失わんことを慮り、()って之れを記録し、之れを図画し、以て()れを後に(のこ)せり。然るに其の時に至れば、則ち記録図画も、亦既に頗る謬伝(びゅうでん)有るなり。書籍に至りては、儀礼周官の如きも、亦此れと相類す。蓋し周季の人、古礼の将に(ほろ)びんとするを(うれ)い、其の聞ける所を記録し、以て()れを後に(のこ)せり。其の間全く信ず可からざる者有り。古器物形状の紕謬(ひびゅう)有ると同一理なり。之れを周公の(あら)わす所なりと謂うに至りては、則ち固とより妄誕(もうたん)なること()きのみ」と。 

岫雲斎

古い書物はもとより信じなくてはならぬが、そうかと言って、どれもこれも全て信じる事はできない。私は過去にこういったことがある。「昔、通常に用いられた道具類も当時に形状を写して記録したものはなかった。年月を経て、このままでは後に全くその真実の形状が分らなくなってしまうと心配してこれを記録して形を図面にして後世に残した。然し、これも年月を経ると様々に伝写されてその記録や形状に間違いが発生するに至るものである。

書物に於ても、儀礼や周官などもこの類いである。思うに、周末の人が古い礼式の滅びるのを憂い、伝聞を書き残したものである。その中には、全く信じる事の出来ないものもある。古器物の形状の誤謬も同様の理由である。これを周公が著わす所であるなどと言うのは出鱈目であるのは言うを待たない」と。

25日 225.
下品な雑書は読むべからず
稗官(はいかん)野史(やし)裡説(りせつ)、劇本は、吾人宜しく淫声(いんせい)()(しょく)の如く之れを遠ざくべし。余、年少の時、好みて之等の書を読みき。今に到りて追悔すること少からず。 

岫雲斎
小説、軍事本、伝説、芝居の脚本などは、淫らな音楽や女色のように遠ざけねばならぬ。私は若い時、これらの本を好んで読んだが、今は大いに後悔している。

26日 226.
読書は本文に熟して後、註を見よ
学生の経を治むるには、宜しく先ず経に熟して、而る後()れを註に求むべし。今は皆註に熟して、経に熟せず。()れを以て深意を得ず。関尹子(かんいんし)曰く「弓を善くする者は、弓を師として、?(げい)を師とせず。舟を善くする者は、舟を師として、ごうを師とせず」と。 

岫雲斎
学生が経書をマスターするには、まず経書の本文に十熟してから意味の不明な箇所を註釈に求めるのが良い。最近の学生は、みな註釈にはなれるが本文に習熟しようとしない。関尹子(かんいんし)に「弓の上手な者は弓そのものを師匠として、弓の名人である?(げい)(弓の名人の名)を師としない。舟の操縦の巧みな者は、舟そのものを師匠として舟こぎの名人・ごう(舟こぎ名人の名)を師としない」とある。其の通りである。

27日 227.
百工は各々工夫あり
百工(ひゃくこう)は各々工夫を()けて、以て其の事を成す。故に其の為す所、往々前人に超越する者有り。独り我が儒は、則ち今人(こんじん)多く古人に及ばず。(そもそも)、何ぞや。蓋し徒らに旧式に(なず)みて、自得する能わざるを以てのみ。能く百工に()じざらんや。 

岫雲斎
色々な職に従事している人々はみな工夫をして仕事をしている。だから、その成す所は往々にして先輩の仕事を凌駕する。ただ、我が儒学では、今の者は古人に及ばない。なぜかと思うに、徒らに旧来の形式に拘泥して聖賢の道を自ら会得できないからである。儒者の諸君よ、百工に対して恥ずかしいと思わぬか。

28日 228.
志は不朽にあるべし
人は百歳なる能わず。只だ当に志、不朽に在るべし。志、不朽に在れば、則ち(ぎょう)も不朽なり。業、不朽に在れば、則ち名も不朽なり。名、不朽に在れば、則ち世々(よよ)子孫も亦不朽なり。 

岫雲斎
人間は百歳までの寿命を保つことは困難である。ただ志は永久に朽ちないものでありたい。志が永遠に朽ちないものであれば事業も朽ちることはない。事業が朽ちないものであれば、その名も永遠に朽ちない。名が朽ちなければ子孫も不朽である。

29日 229.
書を著して後世に残す
凡そ古器物、古書画、古兵器、皆な伝えて今に存す。人は則ち世に百歳の人なし。撰著(せんちょ)以て()れを後に遺すに()くは()し。此れ則ち死して死せざるなり。 

岫雲斎
古い器物、古い書画、古兵器などは全て今日まで伝えられて残っている。然し、人は百歳まで生きてはおられない。だからも書物を著わして後世に自分の考えを残すのが良い。さすれば、肉体は消滅しても自分の精神は永久に生きていることとなる。

30日 230.
著述上の注意
眞を写して後に遺すは、我が外貌を伝うるなり。或は似ざることあり。儘、醜に、儘、美なりとも、亦(いず)くんぞ害あらん。書を著わして後に(のこ)すは、我が中心を伝うるなり。或は当らざること有れば、自ら誤り人を誤る。慎まざる()けんや。 

岫雲斎
肖像画を後日に残すのは、自分の外貌を伝えるものである。それが自分に似ていないこともある。然し、醜くても、綺麗でも、害は無い。然し、書を著わして後世に残すのは、自分の本当に思っている事を伝えるものである。もし書の中の主張に不当なことがあれば、自分を誤り、読者をも誤らせることとなる。著述に当たっては慎まなくてはならぬ。

31日 231.
賢者は著述して楽しむ

古の賢者、志を当時に得ざれば、書を(あらわ)して自ら楽しみ、且つ之れを後に遺しき。一世に於ては則ち不幸たり。而れども其の人は則ち幸不幸無し。古今此の類少からず。  

岫雲斎
昔の賢者は、その時代に己の志を得ず失意の時は著述して自ら楽しみ後世に遺した。生きていた時代は不幸であったかもしれないが、後から考えれば、その人は別に幸でも不幸でもない。古今にこのような類いは少なくない。(孔子も孟子も然り)