佐藤一斎 「言志耋禄」その十 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)
佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

平成26年5月

1日 262.          
非常の士は用うべし
(ここ)に非常の士有らば、宜しく()くとりて之れを用うべし。我れ之れをとれば、則ち彼れ吾が用と()る。大用する能わずと雖も、而も亦世の観望たり。若し()れをして親昵(しんじつ)を得ざらしめば、則ち必ず他人の(ゆう)と為らん。(ただ)に吾が用を為さざるのみならず、(かえ)って害有り。 

岫雲斎
人並みでない優れた人物がおれば、自分の手元において使うがよい。手元におけば、彼は自分の用をする。彼を存分に用いなくても世間へのみせびらかしになる。彼を自分が手なづけ得なかったら他人に用いられる。そうなると彼はただ自分の用をなさないだけでなく自分の害の存在となる。

2日 263.          
功と利
功利の二字、()不好(ふこう)の字面に非ず。民の利する所に()って之れを利すれば、則ち虞廷(ぐてい)も亦功を以て禹禹を称せり。()だ謀と計とを以て病と為すのみ。学者之れを(つまびらか)にせよ。 

岫雲斎
功と利の二字は決して好ましなくい字ではない。世の為、人の為になる事に就いて利すれば、舜帝の朝廷でも禹をして治水の功をなさしめて賞賛した。ただ自己の功利を得る為に色々と企むことが弊害となるだけである。学問する者はよくよくこの点を心得ておかねばならぬ。

3日 264.          
官吏の心得二則 
その一
官署(かんしょ)に在りては、(げん)の家事に及ぶを戒む。家に在りては、則ち一に官事(かんじ)を洩すこと(なか)れ。公私の(べん)は仕うる者の大戒(だいかい)なり。 

岫雲斎
役所では自分の家の事を喋ってはいけない。また自分の家で役所の事を少しでも洩らしてはならぬ。公と私の区別を明快にする事は官吏の最も大きな戒律である。

4日 265官吏の心得二則 
その二
凡そ()()に在る者は、多く競躁(きょうそう)の念有り。蓋し此の念有る時は、必ず(すす)む能わじ。此の念を忘るるに至れば、則ち忽然(こつぜん)として一転す。事物の理皆然り。 

岫雲斎
凡そ官吏として仕えている者の多くは、競う心があるものだ。この心がある時は、却って出世も昇進もないものだ。この競争心を忘れて職務にただ専念するようになると忽ちにして昇進するようになるものだ。物事の道理は全てこんなものだ。 

5日 266
遠方に行くもの正路を歩め

遠方に歩を試みる者、往々正路を()てて捷径(しょうけい)(おもむ)き、或はあやまりて(りん)もうに入る。(わら)う可きなり。人事多く此れに類す。特に之れを記す。 

岫雲斎
遠方に歩いて行く者は、折々正しい路を行かず近道を行こうとして過って林や草叢に入ることがある。笑うべきことだ。人生の事柄もこれに類する事が多いので特にこれを記しておく。

6日 267
智仁勇は実事に試むべき

智仁勇は、人皆謂う「大徳にして企て難し」と、然れども凡そ(ゆうら)(さい)たる者は、()(しん)(みん)の職たり。其の(かん)(とく)を察し、()()(あわれ)み、強梗(きょうこう)(くじ)く。即ち是れ三徳の実事(じつじ)なり。宜しく能く実迹(じっせき)に就きて以て之れを(こころ)むれば、可なり。 

岫雲斎
智仁勇に就いて、多くの人々は「大きな徳だから企て望むのは難しい」という。然し、一村を主宰する者は、民に親しむのが本来の職務であるから、隠れた悪事を調べ正す智や、孤児や寡婦を憐れむ仁、奸悪な者を挫く勇気、これらが即ち三徳の実際事である。このように実際の事柄について試み実行してゆけば、それで良いのである。

7日 268
訴を聴く道五則その一
訴を聴くの道は、仁以て体と為し、荘以て之れに@(のぞ)み、智以て之れを察す。先ず其の言を聞いて(じょう)()(かんが)え、次に顔色(がんしょく)()真贋(しんがん)を弁じ、或は寛、或は厳、以て之れを抑揚(よくよう)し、然る後義以て之れを断じ、勇以て之れを行う。大抵是くの如きのみ。 

岫雲斎
訴訟を裁く方法は、仁慈を基本として、厳かにこれに臨み、智慧をしぼって調べなくてはならぬ。それには先ず被告の言葉つきから真情と虚偽を見抜き、次に顔色を観て本当か嘘かを更に洞察、或は寛大に、或は厳格に、そして抑えたり誉めてみたりして正しい道理に従い其の罪を断罪、勇気を振るって情実に流されないで罪状通りに決行しなくてはならぬ。このようにすれば大概、誤まりはない。

8日 269
訴を聴く道五則その二
(しょう)を聴くには明白を要し、又不明白を要す。明白を要するは難きに似て(かえ)って易く、不明白を要するは、易きに似て(かえ)って難し。之れを()ぶるに仁智兼ね至るを以て、(さい)緊要(きんよう)()す。 

岫雲斎
訴訟を聴くには先ず、はっきりしている事が必要。また曖昧にしておく事も必要である。はっきりさせる事は難しいようで易しい。曖昧にしておく事は易しいようで難しい。何れにしても仁と智を兼備してする事が最重要ということになる。

9日 270.
訴を聴く道五則 
その三
心事(しんじ)は、必ず面相(めんそう)と言語とに(あら)わる。人の邪正を知らんと欲せば、当に先ず瞑目して其の言語を聴き、然る開目(かいもく)して其の面相を()(ふたつ)ながら(あい)比照(ひしょう)し、以て其の心事を察すべし。()くの(ごと)くんば、則ち愛憎の(へん)無きに(ちか)からん。 

岫雲斎
人間の心にある事は必ず顔付きと言葉に表れるものだ。だから、或る人が正しいか(よこしま)知ろうと思えば、目を(つむ)り其の人の言葉を聴きとり、それから目を開いて顔付きを観る、この二つを比較対照してその人の心に思っている事を洞察したらよいこうして裁定した結果は愛憎とか好き嫌いの(かたよ)りのないものに近いであろう。

 

10日 271.
訴を聴く道五則その四
「刑罰は世にして軽く世にして重くす」とは、此は是れ(りょ)(こう)経歴(けいれき)の名言なり。時代古今、之れを世と謂う。(すべか)らく善く活眼を開き以て之れを(けん)()すべし。必ずしも成法に(なず)まざれ。

岫雲斎
「刑罰は世、即ち時代によって軽くすべき事もあり、重くすべき時もある」とは呂公の経験から出た名言である。世とは時代とか古今のことである。刑罰を管掌する者は、善く事理を見分ける活きた眼を開き、刑の軽重を決めなくてはならぬ。それは必ずしも杓子定規的に成文の法律に拘泥しない事が肝要だということだ。

11日 272.                  
訴を聴く道五則その五
訴訟には、既に其の(げん)(しょく)に就きて以て其の心を視聴すれば、則ち我れ当に先ず(へい)()(こう)(しん)を以て之れを待つべし。急心なるは不可なり。(けん)(しん)なるは不可なり。愛憎の心は(もっと)不可なり。 

岫雲斎
訴え事を聴くとは、その言葉や顔色を見ながらその心は如何と観察して裁くという事。それには自分の気持ちを平静に保ち、公平な心で対処しなければならない。焦った心で対応するのは最も悪い。いやいやの気持ちで対処するのは更に善くない。好き嫌いの心で臨むのは一番によくない。

12日 273.                  
地方官の心得四則 
その一
凡そ郡官県令たる者は、民に父母たるの職なり。宜しく憫恤(びんじゅつ)を以て先と為し公平を以て要と為すべし委曲(いきょく)詳細(しょうさい)に至りては、則ち之れを俗吏に付して可なり。故に又俗吏を精選するを以て先務(せんむ)と為す。 

岫雲斎
全ての郡や県の長官たる者は、郡民や県民の父母として親切を尽くすべき職である。従って、憐れみ(いつく)しむの心を真っ先として、公平無私である事が肝要である。細々した事務は下役に任せて宜しい。だから下役を慎重に択ぶことが第一の努むべきこととなる。

13日 274.                  
地方官の心得四則 
その二
郡官たる者は、百姓(ひゃくせい)を視ること児孫(じそん)の如く、()(ろう)を視ること兄弟(けいていい)の如く、(かん)()を看ること家人の如く、傍隣(ぼうりん)の群県を看ること族属婚(ぞくしょくこん)(ゆう)の如く、己れは則ち勤倹を以て之れを(ひき)い、専ら()()を以て(むね)と為さば可なり。 

岫雲斎
郡の長たる者は、郡民を子や孫のように可愛いがり、年寄りを兄弟のように助け合い、独身の男女を家族同様に取り扱い、隣り近所の郡や県とは同族や親族か友人のように打ち溶けて交わり、自分は勤勉節倹を以て人民を統率し専ら政治を簡素化することを第一の方針とすれば宜しい。

14日 275.                  
地方官の心得四則 
その三
(しん)(みん)の職、尤も宜しく(つね)有る者を択ぶべし。()し才有って徳無くんば、必ず醇俗(じゅんぞく)を敗らん。後に善者有りと雖も、而も之を反すこと能わじ。 

岫雲斎
国民を治める職は大切で恒心ある者を択ばなくてはならぬ。もし、この職に在る者が才能は有るが人徳が無ければ、良い風俗が破綻するであろう。こうなってしまっては、後に善良な長官がやってきても醇風美俗の元に復元はできないであろう。

15日 276.                  
地方官の心得四則 
その四

凡そ大都(だいと)を治める者は、宜しく其の土俗人気を知るを以て先と為すべし。之れが民たる者は、必ず新尹(しんいん)の好悪を覗う。人をして覗わざらしめんと欲すれば、則ち(ますます)之れを覗う。故に当に人をして早く其の好悪(こうお)を知らしむべし。(かえ)って()し。何の好悪(こうお)か之れ可と為す。()()(あわれ)、忠良を愛し、奢侈を禁じ、強硬を(くじ)く、是れを可と為す。 

岫雲斎
大都会の長たる者は、その土地の風俗や住民の気質を真っ先に知らねばならぬ。
都会の住民は必ず新長官の良否を知ろうとするものだ。
長官が住民に知られまいとすれば住民は益々知りたがる。
だから長官たる者は住民に早く自分を知らせるのがよい。
こうする事が却ってよいのである。

16日 277.                  
教育の基本
教えて()れを()するは、()及び難きなり。()して之れを教うるは、(おしえ)入り易きなり。 

岫雲斎
教える事から始めて感化しようとしても容易に感化はできない。感化しておいてから教えると身につくものだ。(やる気を起こさせることが肝要)

17日 278          
治国の眼目

治国(ちこく)(ちゃく)(がん)の処は、好悪(こうお)を達するに在り。 

岫雲斎
国を治める上での眼の()け所は、民の好む所、憎む所を遂げさせることにある。(大学十章「民の好む所は之を好み、憎む所は之れを悪む、之れを之れ民の父母という。)

18日 279
愛憎忽ち変ず

美酒(びしゅ)(こう)(りょう)は、誠に口腹(こうふく)一時の適に過ぎず。既に腸内に入れば、即ち(すみやか)()して糞溺(ふんにょう)()るを以て(かい)()し、唯だ留滞(りゅうたい)して病を成すを(おそ)るるのみ。何ぞ其の愛憎忽ち変ずること然るか。(じん)(しゅ)の士女の愛憎に於けるも、亦此れに類す。 

岫雲斎
美酒美食は、口から腹までの一時の心地よさに過ぎない。腸内に入れば速やかに消化され大便・小便となり排泄されるのは快適であるが、何時までも腸内に停滞していて病気となるのは心配である。
愛憎の変化は何と甚だしいものか、君主が腰元に抱く愛憎もこれに類している。

19日 280.
大名達への苦言
国の本は民に在り、人主之れを知る。家の本は身に在り、人主或は知らず。国の本の民に在るを知りて、之れを民に刻責(こくせき)し、家の本の身に在るを知らずして、自ら奢侈を極む。故に益々之れを民に責む。国の本既に(たお)れなば、其れ之れを如何せん。察すること無かる可けんや。 

岫雲斎
国家の本は民にあることを大名たちは知っている。家の本は自分の身にあることを大名達は知らない。国の本が民にあることを知っていて、容赦なく民を責め立て、家の本が身にあることを知らないで自ら贅沢を極める。奢侈により経済不如意となり益々民から租税を取り立てる。国の本である民が倒れてしまってはどうにもならなくなる。大名達はよくよく考えねばならぬ。

20日 

281.
時々古書画を展覧し心を養うべし

古書画は、皆古人精神の寓する所にして、(しょ)(もっと)(しん)()たり。此れに対すれば人をして敬を起して追慕(ついぼ)せしむ。宜しく時々之れを展覧すべし。亦心を養うの一たり。 

岫雲斎
古人の書や画はみな古人の精神が宿っているものである。中でも特に書は心の画とも言われその人の精神を現している。であるからこれに向うと自然に尊敬の念を起こしてその人を追慕してしまう。人々はこれらの古人の書画を時々展覧するがよい。これ亦、心を養う一つの方法である。

21日 282.
清き物わが心を洗う

色の清き者は()()し。声の清き者は聴く可し。水の清き者は(そそ)ぐ可し。風の清き者は当る可し。味の清き者は(たしな)む可し。()の清き者は()ぐ可し。凡そ清き者は皆以て吾が心を洗うに足る。 

岫雲斎
色の清きものは観るのによい。声の清らかなものは聴くにのよい。水の清いものは口をそそぐのによい。風の清いものは吹かれるによい。味の清いものは嗜むがよい。香りの清いものはかぐべし。全て清らかなものは我々の心を洗うのによい。

22日 283
道理に老少なし
身には老少有れども、而も心には老少無し。気には老少有れども老少無し。(すべか)らく能く老少無きの心を執りて、以て老少無きの理を体すべし。 

岫雲斎
人間の体には年寄りと少年の差はあっても、心には老少は無い。体の働きには老少があるが物の道理には老少はない。是非とも、年寄りはダメだとか、若者はダメだとかということのない心で以て、万古に不変の老少の無い道理を体得しなくてはならぬ。

23日 284.
自己の身の程を知るべし
人は皆、往年の既に去るを忘れて、次年の未だ(きた)らざるを(はか)り、前日の(すで)に過ぐるを()てて、後日の将に至らんとするを(おもんばか)る。(これ)を以て百事荀(ひゃくじこう)(しょ)にして、終日齷齪(あくさく)し以て老死に至る。嘆ず()きなり。故に人は宜しく少壮の時困苦有り、艱難有るを回顧して、以て今の安逸たるを知るべし。()()れを自ら本分を知ると謂う。   

岫雲斎
人々は大抵過ぎた事は忘れてしまい、また来ない来年の事を考えたり、また前日過ぎ去った事を忘れ捨て、これから来るべきものを心配する。こんな次第で何事もいい加減となり一日中あくせくして遂に年を取り死ぬのである。これは誠に嘆かわしい。それでは、どうするかと言う事だが、若い時の色々な困苦とか艱難を回想しつつ現在安らかに暮らせている事の有難さを思うが良い。これが自分の身の程知るということである。

24日 285.
天道も人事もゆっくりやってくる
天道、人事は、皆(ぜん)を以て至る。(たのしみ)を未だ楽しからざるの日に楽み、(うれい)未だ患えざるの前に患うれば則ち患免(うれいまぬか)()く、(たのしみ)(まっと)うす()し。(せい)せざる()けんや。 

岫雲斎
天道即ち、天地自然の変化とか、人の営みはゆっくりしたものである。だから、楽しみのこない中から楽しみ、心配事の来ない時から心配事が起きはしないかと準備しておけば、心配事は免れることができ、楽しみは全うすることができる。考えなくてはならぬ事である。

25日 286.
敬は終身の孝である
人道は敬に在り、敬は()と終身の孝たり。我が()は親の()たるを以てなり。一息(いっそく)(なお)お存せば、自ら敬することを忘る()けんや。 

岫雲斎
人間の履み行うべき道は敬に在る。敬は申すまでもなく一生涯の親孝行の事である。自分の体は父母が自分に遺されたものだからだ。一息でもある限り自ら敬する事を忘れてはなにない。(敬は他人に対しては敬うこと。己に対しては慎しみである。)

26日 287.
養生の秘訣は敬に帰す

道理は往くとして然らざるは無し。敬の一字は、()と終身の工夫なり。養生の(けつ)も、亦一()の敬に帰す。 

岫雲斎
物事の筋道というものは、どちらに往っても変わるものではない。(つつし)むの一字は、もと身を修める工夫であるが、暴飲暴食を慎むこどであっても生を養う要諦もまた敬の一字に帰着するのである。

27日

288.
若死も長寿も天命

人命は数有り。之れを短長(たんちょう)する能わず、然れども、我が意、養生を欲する者は、(すなわ)ち天之れを(いざな)うなり。必ず(しゅう)(れい)を得る者も、亦天之れを(たま)うなり。之れを究するに(よう)寿(じゅ)の数は、人の(あずか)る所に非ず。 

岫雲斎
人間の寿命には一定の理法があり、人間がこれを長くしたり短くしたりは出来ない。然し、自分の意欲で養生をしようと望む者は、その人自身の発意によるのではなく、天が誘ってそうさせるのだ。また、必ず思い通りに長寿を得る者も天がそれを授けているのだ。究極の処、若死にか長寿かは人間の関与するものではない。

28日 289
素分を守り食色を慎むべし
人情、(やすき)を好んで(あやうき)(にく)まざるは()し。宜しく素分を守るべし。寿(じゅ)を好んで(よう)(にく)まざるは()し。宜しく(しょく)(しき)を慎むべし。人皆知っても(しか)も知らず。 

岫雲斎
人情としては安逸を好み、危険を憎まない者はいない。ならば宜しく自己の本分を守るがよい。また人間として長生きを喜び、若死にを嫌がらない者はいない。ならば宜しく食欲と性欲を慎むがよい。人間はみなこの道理を知っているのだが、これを実行しない所を勘案すると本当は知ってはいないのであろう。

29日 290.
老境の風光
余は老境(ろうきょう)懶惰(らんだ)にして、(こう)(けん)()べて()す。但だ言語飲食の慎み、()れを少壮(しょうそう)に比するに可なるに(ちか)し。又(ひるがえ)って思う。「此れ即ち是れ老衰して(しか)るのみ」と。 

岫雲斎
自分は年を取ってから無気力となり為す事が全て乱雑となった。ただ言葉と飲食の慎みだけは、若い時に比べると合格に近いようだ。一方で考えると「これは取りも直さず体が老化した結果」ということだ。 

30日 291.
老人の養生法五則 
その一
視聴言動は、各々其の度有り。度を過ぐれば則ち病を致す。養生も亦吾が道に外ならず。 

岫雲斎
見たり、聞いたり、言ったり、動いたりする事は人それぞれに適度がある。適度を過ぎると病気になる。同様に養生の道も自分流がある。

31日

292.
老人の養生法五則 
その二

食物には、口好みて腸胃好まざるもの有り。腸胃好むものは皆養物なり。宜しく択ぶ所を知るべし。 

岫雲斎
食べ物には、口は好むが胃腸の好まないものがある。反対に胃腸は好むが口の好まないものがある。胃腸の好むものは皆体を養う物である。だから、よく択ばねばならない。