8月12日 |
言志耋禄
1. 学は一、
等に三 |
学は一なり。
而れども等に三有り。
初には文を学び、次には行を学び、終には心を学ぶ。
然るに初の文を学ばんと欲する、既に吾が心に在れば、則ち終の心を学ぶは、乃ち是れ学の熟せるなり。
三有りて而も三無し。
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岫雲斎
学問の道は一つである。然し、これを学ぶ段階は三つある。初めは古人の文章を学び、次ぎは古人の行為を学び己れの行為を反省する。最後は、古人の、深い真の精神を学ぶのだ。然し、よく考えてみると、当初の古人の文を学ぼうと志したのは自分の心に起こったことである。最後の古人の真の精神を学ぶというのは、自分の志した学問が成熟した証拠である。だから、学問に三段階があると言っても、本来、個々に独立したものではなく、終始一貫して、心で心の学問をするということなのである。
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13日 |
2.数に三あり
注
教化 道徳的に感化すること。徳を以て善導することを化導と言う。西洋には無いらしい。
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教に三等有り。心教は化なり。躬教は迹なり。言教は則ち言に資す。孔子曰く、「予言う無からんと欲す」と。蓋し心教を以て尚と為すなり。
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岫雲斎
教えには三つの段階がある。第一の心教は、師により自然に教化すること。第二の躬教は、師の行為の跡を真似させる教えである。第三の言教は、師が言葉で説き諭し導く教えである。孔子は「自分は言葉で説き諭すことはしないようにしたい」と云われた。思うに、この事は心教を最も貴い教えとしたものと思われる。
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14日 |
3.
経書を読むは我が心を読むなり |
経書を読むは、則ち我が心を読むなり。認めて外物と做すこと勿れ。我が心を読むは即ち天を読むなり。認めて人心と做すこと勿れ。
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岫雲斎
聖賢の書を読むと言うことは、実は自分の本心を読むことである。決して本心以外のものと見てはいけない。自分の心を読むことは、天地宇宙の真理を読むことである。決して他人の心の事だなどと思ってはいけない。
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15日 |
4.
漢唐の註と宋賢の註 |
漢唐の経を註するは、註即ち註なり。
宋賢の経を註するは、註も亦経なり。
読者宜しく精究すべき所なり。
但だ註文に過泥すれば、則ち又経旨に於て自得無し。
学者知らざる可らず。 |
岫雲斎
漢や唐の時代の聖賢の書に註を加えたものは、解釈一点張りの文字の註で何らの権威は認められぬ。宋に入り、程子や朱子が経書に註釈したものは、註そのものが経書なみの権威があり、それを読む人は註をも詳しく究めねばならない。然し、そうだからと云って、註の文字に拘り過ぎると経書の本旨を取り損ない自得ができない。経書の本旨を見るとは、自らの心でこれを会得する所がなくてはならぬ。この事は経書を学ぶ者はよくよく知らねばならぬ。
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16日 |
5.
宋学の宗 |
宋学は周子を以て鼻祖と為す。而るに世に宋学と称する者、徒らに四五の集註を講ずるのみ、余意う、「周子の図説、通書は、宋学の宗なり」と。学者宜しく経書と一様に之を精究すべし。 |
岫雲斎
宋の学問は周濂渓を元祖とする。然るに世間の宋学者と言われる者は、ただ四、五冊の朱子の集註本を講義するだけですましている。自分は「周子の「太極図説」や「通書」は宋学の大本である」と思う。学問をする者はこれらの書物を経書と同様に詳しく研究すべきである。
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17日 |
6.
周程の書を環読 |
余、恒に周程の遺書を環読す。宋の周程有るは、思孟と相亜ぐ。今の学者は、徒に朱子の訓註のみを読みて、淵源の自る所にくらし。可ならざらんや。
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岫雲斎
自分は常に周程の遺した書物を代わる代わる読んでいる。宋の時代に周子と程子のある事は、子思や孟子に相ついだようなものだ。即ち孔子の学は子思や孟子を経て周子、程子に相ついだということである。今の学者は徒らに朱子の注釈のみ読んで、その拠って来たる大本である周子や程子に暗い。
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18日 |
7.朱子礼讃 その一
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朱文公は、固と古今絶類の大家たるに論無し。其の経註に於けるも、漢唐以来絶えて一人の拮抗する者無し。翔だ是れのみにあらず。北宋に文章を以て顕るる者、欧蘇に及ぶ莫し。其の集各々一百有余巻にして、今古比類に罕なり。朱子は文を以て著称せられずと雖も、而も其の集も亦一百有余巻にして、体製別に自ら一家を成し、能く其の言わんと欲する所を言うて、而も余蘊無し。真に是れ古今独歩と為す。詩も亦韋柳と相亜ぐ。但だ経学を以て文詞を掩わる。人其の能文たるを省せざるのみ。 |
岫雲斎
宋の朱熹は古今に類のない大家である。経書の註釈に於いても漢唐この方拮抗する人間はいない。こればかりではない、北宋では名文家の欧陽修や蘇東坡に及ぶものはいない。その文集は各々一百有余巻あり古今比類稀である。朱子は文章の点ではそれ程著名ではないが文集は一百巻あり作風も自ら一家をなしており余す所はない。真に古今独歩の作風の観がある。また、その詩も唐の韋応物や柳宗元などにつぐものである。ただ朱子は経学が非常に優れている為、その文章や詩の良さが覆い隠されてしまっている。こんな訳で世の人々は朱子が能文であることに目を留めないのである。
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19日 |
8.
朱子礼讃
その二 |
朱文公、易に於ては古易に復し、詩に於ては小序を刪る。固と巨眼なり。其の最も功有る者は、四書の目を創定せるに在り。此は是れ万世不易の称なり。 |
岫雲斎
朱子は易経については、費氏の古易を復活し、詩経については小序を削除した。これらは実に経を見る上での大見識であった。最も大きな功績は大学、中庸、論語、孟子を四書の要として創めたことである。これは永遠に賞賛される。
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20日 |
9.
四書の編次に妙あり |
四書の編次には、自然の妙有り。大学は春の如し。次第に発生す。論語は夏の如し。万物、繁茂す。孟子は秋の如し。実功、外に著わる。中庸は冬の如し。生気、内に蓄えらる。
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岫雲斎
四書の編述の順序を見ると天地自然の妙味がある。大学は恰も春のように次第に修身・斉家・治国・平天下と発展してゆく。論語は夏のように様々の弟子に対し色々な問題を教えているから恰も万物が繁茂している状態である。孟子は秋になると実を結ぶように実際の功績を外に表している。中庸は冬のようで儒教の哲理を説き満々たる生気を内臓している。
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21日 |
10.
天道と地道を合せて人をなす |
慮らずして知る者は、天道なり。学ばずして能くする者は、地道なり。天地を併せて此の人を成す。畢竟之れを逃るる能わず。孟子に至りて始めて之れを発す。七篇の要此に在り。
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岫雲斎
孟子に「人に学ばずして能くする者は良能なり。慮らずして知る所のものは良知なり」とある。このように別に思慮なくして知る所のものは孟子の所謂、良知であり天道である。学ばないでも自然に能くする者は良能である。この天道と地道が合体して人間が形成される。だから人間にはどうしても、この天道と地道から逃れられない。孟子に至りこの点が初めて明快にされた。孟子七篇の根本はここにあるのだ。
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22日 |
11.
無能の知と無知の能 |
無能の知は、是れ瞑想にして、無知の能は是れ妄動なり。学者宜しく仮景を認めて、以て真景と做すこと勿るべし。 |
岫雲斎
実行なくしてただ知るだけでは妄想、智慧は無いのに行うのは妄動。学問をする者は心眼を開いて仮の有様を見て、これを本物だと思ってはならぬ。
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23日 |
12.知と能 |
君に事えて忠ならざるは、孝に非ず。戦陣に勇無きは孝に非ず。是れ知なり。能く忠、能く勇なれば、則ち是れ之れを致すなり。乃ち是れ能なり。
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岫雲斎
礼記に「君に仕えて忠ならざるは孝に非ず。戦陣に勇なきは孝に非ず」とあるが、これのみでは単なる知識である。更に進んで、よく忠に、よく勇に、これを実行することこそ、能即ち行であり「知行合一」である。
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24日 |
13.
古の学者と今の学者 |
古の学者は、能く人を容る。
人を容るる能わざる者は、識量浅狭なり。是れを小人と為す。今の学者は見解、累を為して、人を容るる能わず。常人には則ち見解無し。卻りて能く人を容る。何ぞ其れ倒置すること爾るか。 |
岫雲斎
昔の学者は度量が大きくてよく人を包容した。人を包容することの出来ない人は見識も浅く度量も狭い。これを小人という。今の学者は特定の考え方に囚われてそれが災いとなり人を包容できないでいる。学問をしない普通の人は特定の考え方が無いから却ってよく人を受け入れる。今の学者と普通の人がまるで反対になっている。
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25日 |
14.
学問を始める時の心得 |
凡そ学を為すの初めは、必ず大人たらんと欲するの志を立てて、然る後に書を読む可きなり、然らざるして、徒らに聞見を貧るのみならば、則ち或は恐る、傲を長じ非を飾らんことを。謂わゆる「寇に兵を仮し、盗に糧を資するなり」、虞う可し。 |
岫雲斎
学問を始めるには、必ず立派な人物になろうとする志を立ててから書物を読まなくてはならぬ。
そうでなく、徒らに見聞を広め知識を増やすのみの学問をすると、その結果は傲慢な人間になったり、悪事を誤魔化す為になったりする心配がある。
こういうことであれば、「敵に武器を貸し、盗人に食物を与える」類いであり恐ろしいことだ。
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26日 |
15.
有字の書から無字の書へ |
学を為すの初めは、固より当に有字の書を読むべし。学を為すこと之れ熟すれば、則ち宜しく無字の書を読む可し。
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岫雲斎
学問の当初は申すまでも無く書を読まねばならぬ。学問に成熟してくれば、文字のない書、則ち天地自然の理法、社会の実態、人情の機微などを直観と洞察で読み取らねばならぬ。
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27日 |
16.
源ある活水と源なき濁沼 |
源有るの活水は、浮萍も自ら潔く、源無き濁沼は、蓴菜も亦汚る。
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岫雲斎
水源のある生々とした水は浮き草も清らかだ。
水源のない濁った沼ではじゅん菜までも汚れている。
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28日 |
17.
学に志す者の心得 |
学に志すの士は、当に自ら己を頼むべし。人の熱に因ること勿れ。淮南子に曰わく、「火を乞うは、燧を取るに若かず。汲を寄するは、井を穿つに若かず」と。己れを頼むを謂うなり。
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岫雲斎
学問に志して人格向上をしようと思う者は、頼むのは己自身であると覚悟しなくてはならぬ。
淮南子が言っている「他人の熱を頼りにするのでなく、自分で火打石を打ち火を出すのが宜しい。
他人の汲んだ水を当てにするより自分で井戸を掘るほうが宜しい」と。
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29日 |
18.
田の中の一粒も捨てるな |
自家田中の一粟をば棄つること勿れ。隣人畝中の一菜をも摘むこと勿れ。
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岫雲斎
自分の田でできた一粒の粟も無駄にしてはならぬ。
隣人の畑の一本の菜をも取ってはならぬ。
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30日 |
19.
この学は自己の為にす |
此の学は己の為にす。固より宜しく自得を尚ぶべし。駁雑を以て粧飾と做すこと勿れ。近時の学、殆ど謂わゆる他人の為に嫁衣裳を做すのみ。
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岫雲斎
聖人を目指すこの学問は、自己の徳を成す為にするものであるから、もとより自ら道を体得することを尚ぶべきである。雑多な学問をして外面ょ飾り立てるようなことをしてはならない。近頃、学問をする者は、殆ど真の精神を忘れて他人のために嫁入り衣裳を作るようなことをしている。
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31日 |
20
.悔・激・懼などの一字訓 |
悔の字、激の字、懼の字は、好字面に非ず。
然れども一志を以て之れを率いれば、則ち皆善を為すの機なり。
自省せざる可けんや。
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岫雲斎
悔・激・懼などの字は何れも好い字ではない。悔は過去の出来事を悔やむこと、激は心の調和を喪失したこと、懼は心が充実しておらず心が恐れ慄くことである。然し、一たび志を樹てると、これを率いれば、みな善をない契機となるものだ。即ち志を立てて、これ等を見ると、悔の時は過去を改めて善への第一歩、激は発奮激励する意であり、懼の字は、これにより身を慎み善を為すきっかけとなるものである。このように活用方法があるのだから自ら反省しなければならぬ。
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