佐藤一斎 「言志耋禄」その二 

佐藤一斎 塾規三則

「入学説」 重職心得箇条
 (まん)げん)


佐藤一斎「言志耋録(てつろく)」はしがき

.礼記(らいき)にある人生区分

平成25年9月

1日 21.
悔の字
悔の字は、是れ善悪街頭(がいとう)の文字なり。君子は悔いて以て善に(うつ)り、小人は悔いて以て悪を()う。故に宜しく立志を以て之れを(ひき)いるべし。()因循(いんじゅん)の弊無からんのみ。

岫雲斎
悔という字は善と悪との分岐点にある文字である。
立派な人は悔いて善に移行し、つまらぬ人は悔いて自棄(やけ)になり悪を追うものである。

2日 22.
立志の立の字
立志の立の字は、(じゅ)(りつ)標置(ひょうち)、不動の三義を兼ぬ。

岫雲斎
志を立てるの立の字は、真直ぐに立つの意味の(じゅ)(りつ)、目印を立て高く自らを持する意味の標置、そして確りと動かないの不動の三つの意義を兼ね備えておる。それは、志を真っ直ぐに立て、その志を目標にして不動の心を以て進まなければならぬ事である。

3日 23.
立志の工夫
立志の工夫は、(すべか)らく(しゅう)()念頭(ねんとう)より、(こん)(きゃく)を起すべし。
恥ず可からざるを恥ずること勿れ。
恥ず可きを恥じざること勿れ。孟子謂う、「恥無きを之れ恥ずれば、恥無し」と。
(ここ)に於てか立つ。

岫雲斎
どう志を立てるかの思い巡らすには、自己の不善を恥じ、人の不善を憎むという心持から出発することだ。恥なくて良い事を恥じることはないが、恥なければならぬ事は恥なければならぬ。孟子は「自分の恥ずべき点を恥じないでいる事を恥とすれば恥はなくなる」と言った。このように厚顔無恥を恥として(にく)むことが分れば、これで志は立派に立ったということになる。

4日 24.
私欲の制し難きは志の立たざるによる
私欲の制し難きは、志の立たざるに由る。志立てば真に是れ(こう)()に雪を点ずるなり。故に立志は徹上(てつじょう)徹下(てつげ)の工夫なり。

岫雲斎
自分の欲望を抑えられないのは志が確りとしていないからだ。立志が確立しておれば、欲望などは真っ赤に燃えている上の一片の雪みたいなもので忽ち消えてしまう。だから立志と言う事は、上は道理を究明することから、下は日常茶飯事まで上下総てに徹底するように工夫することだ。

5日 25.
()()
の工夫は甚だ難し
志を持するの工夫は(はなは)(かた)し。吾れ往々にして事の意に(さから)うに()えば、(すなわ)暴怒(ぼうぬ)を免れず。是れ志を()する能わざるの病なり。自ら恥じ自ら(おそ)る、書して以て警と為す。

岫雲斎
志を曲げないで持続する工夫は大変難しい。自分は時折、意にならない場合に出会うと荒々しくなり怒りだしてしまう。これは志を持続できない病である。自らに恥じ恐れるものである。ここにこれを書いて戒めとする。

6日 26.
修養上の四つの要点

立志は高明を要し、著力(ちゃくりょく)は切実を要し、工夫は精密を要し、()(ぼう)は遠大を要す。

岫雲斎
志を立てるには高く明快に、力のつけ所は実際に適切に、事に当たっては抜ける事なく緻密に、期する所は遠大であらねばならぬ。

7日 27.
志は大、工夫は小
学者は志大にして、工夫は則ち皆小ならんことを要す。
小は事に於ては始と為り、物に於ては幾と為る。
易に云う「復は小にして物を(わきま)うけとは、()れなり。

岫雲斎
学問する者は其の志は大でなくてはならぬが、それを成し遂げる工夫は細事をゆるがせにしてはならぬ。小さい事も、兎角大きな物事の始めとなったり、契機になったりするものだ。易経に「(ふく)即ち悔い改めて正しきに(かえ)るとは過失の小さい時に、よく物事の道理を(わきま)え知ることにある」とあるのは上述の事を言ったものである。 

8日 28.
学をなすの効
学を為すの効は、気質を変化するに在り。其の功は立志に外ならず。

岫雲斎
学問をすることによる効験は人間の気質を変えて良くすることに在る。それを実行し元気をなすものは立志に他ならない。

9日 29.
均しくこれ人
均しく是れ人なり。
遊惰(ゆうだ)なれば則ち弱なり。
一旦困苦すれば則ち強と為る。
きょう()となれば則ち柔なり。
一旦激発すれはば則ち剛と為る。
気質の変化す可きこと此くの如し。

岫雲斎
誰でも人間である。然し、遊びなまけていると柔弱になる。人間は、一度困難と苦難を経験すすれば鍛えられて強くなる。心が満ち足りて楽をしていると人間は優柔となる。一旦激しく発奮すれば剛強になる。人間の気質の変化はこのようなものである。

10日

30.
学による気質変化

曾ル(そうせき)の狂、夫子(ふうし)を得て之れを折中(せっちゅう)せざりせば、則ち(もう)(そう)()りけん。()()の勇、夫子を得て之れを折中せざりせば、則ち(はん)(いく)と為りけん。()(こう)の弁、夫子を得て之れを折中せざりせば、則ち蘇、張と為りけん。気質の変化とは、此の類を謂う。即ち学なり。

岫雲斎
曾ル(そうせき)の如く志のみ遠大で行いの伴わないのは、その師の孔子が程よくしてくれなかったら荘子のような風変わりの人物となったであろう。子路のような勇気ある者は孔子が程よくしてくれなかったら、昔の孟(はん)や夏育のような血気の勇者になったであろう。()(こう)の弁説も孔子が程よくしてくれなかったら、あの蘇進張儀のような権謀術数を弄する人物になったであろう。気質の変化はこのような類例を言う。これらは皆学問によるのだ。

11日

31.(こん)(しん)暖飽(だんぼう)

困心衡慮(こんしんこうりょ)は、智慧を発揮し、暖飽(だんぼう)安逸(あんいつ)は思慮を埋没する。猶お之れ()(しゅ)は薬を成し、甘品(かんぴん)は毒を成すがごとし。

岫雲斎
心を苦しめ、思慮分別に悩んで初めて真の智慧が生まれるものだ。反対に、暖かい衣類で安らかに生活しておる時は思慮の力が埋没している。これは丁度、苦いものは薬、甘いものは毒となるようなものだ。

12日 32.
得意と失意 
その一

得意の物件は(おそ)る可くして、喜ぶ可からず。
失意の物件は、慎む可くして、驚く可からず。

岫雲斎
平生に得意の事が多く失意の事が少なければ真剣に物事を考える事が無いから思慮分別の機会が少なくて実に不幸と言うべきである。反対に、得意のことが少なく失意の事ばかりだと、それを払うべく色々と思案し智慧が深まり幸いというべきかもしれない。

13日 33           
得意と失意 
その二
得意の事多く、失意の事少なければ、其の人知慮を減ず。不幸と謂う可し。得意の事少なく、失意の事多ければ、其の人、知慮を長ず。幸と謂う可し。

岫雲斎
平生、得意のことが多く失意の事が少なければ、真剣に考えることが無いから思慮分別が足りなくなり不幸というべきである。反対に、得意の事が少なく失意のことが多ければ、不味いことを跳ね除けようと色々と思いを巡らすから智慧や思慮が増えてゆく。却って幸いといわねばならぬ。

14日 34.
楽にも苦にも真と仮がある

楽の字に(しん)()有り。苦の字にも亦真仮有り。

岫雲斎
楽しみにも、苦しみにも本物とニセモノがある。

15日 35.
我輩の楽処と孔顔の楽処

吾が輩、筆硯(ひっけん)の精良を以て、(たのしみ)と為し、山水の遊適を以て娯と為す。之れを常人の楽む所に比すれば、高きこと一著(いっちゃく)なりと謂う可し。然れども之れを(こう)(がん)楽処(らくしょ)(くら)ぶれば、()だに下ること数等なるのみならず。吾人(ごじん)(なんぞ)ぞ反省せざるや。

岫雲斎
自分は良質の筆や硯を用いる事を楽しみとしている。また、心の赴くままに山水を楽しんでいる。
これは普通の人々に比べたら数等優れていると言えよう。然し、孔子や顔回のそれと比べたら数等下るばかりではない。大いに反省しなくてはならぬ。
 

16日 36.
学問をする二つの方法
学を為すには、自然有り。工夫有り。
自然は是れ順数にして、源よりして流る。
工夫は是れ逆数にして、麓よりして(てん)す。
(いただき)は則ち源の在る所、麓は則ち流の帰する所、難易有りと雖も、其の(きゅう)は一なり。

岫雲斎
精神修養の学問をするには自然的方法と工夫的方法の二つがある。自然的方法は、自然の道理に従うもので、例えば水源から流れ下る方法の如きものである。工夫的方法とは、逆に進む方法で、山の麓から山頂に登山するようなものである。山頂は水源のある所であり、麓は流れの帰する所で、難易の別はあるがその到達する究極の真理は一つである。

17日 37.
学問をする心

学を為すには、人の之れを()うるを()たず。必ずや心に感興(かんきょう)する所有って之を為し、()持循(じじゅん)する所有って之れを執り、心に和楽する所有って之を成す。「詩に興り、礼に立ち、(がく)に成る」とは、此れを謂うなり。

岫雲斎
学問は他人から無理強いされてするものではない。自分の心に奮起するものがあって成すものである。
この心を持ち続けて学問を務め行い、楽しむというようになって初めて学業が成就するものだ。

18日 38.
向上心
「予言うなからんと欲す」。欲すの字の内多少の工夫有り。「
士は賢を
ねが、賢は聖をねがい、聖は天をねがう」とは即ち此の一の欲の字なり。

岫雲斎
孔子は「私は今後何も言うまいと思う」と言った。この欲すの字には色々の工夫が必要。則ち、立派な人間は賢人になろうと欲し、賢人は聖人になろうと欲し、さらに聖人は天と一体になろうと欲す、というような具合で、これらはみな一つの「欲」の字即ち向上心のことである。

19日 39.克己の工夫

気象を理会するは、便(すなわ)ち是れ克己の工夫なり。語黙動止(ごもくどうし)()べて(とっ)(こう)なるを要し、和平なるを要し、舒緩(じょかん)なるを要す。粗暴なること勿れ。激烈なること勿れ。急速なること勿れ。

岫雲斎
自分の気性を把握することが、即ち己に克つ工夫となる。語るのも、黙するのも、動くのも、総て丁寧に親切、穏やか、ゆるやかであることが肝要である。荒々しくしてはいけない。烈しいのはよくない。気ぜわしいのもよくないのである。

20日

40.
真の己と仮の己

真の己れを以て仮の己れに克つは、天理なり。
身の我れを以て心の我れを害するは、人欲なり。
 

岫雲斎
自分には、真の自己と仮の自分とがある。真の自分を以て仮の自分に克つのは天の道理である。反対に、物質的に身体の欲望に動かされる自分を以て、精神的に生きようとする心の自分を害してゆくのは人欲である。

21日 41.
人欲の起こる時と消ゆる時

人欲の起る時、身の熱湯に在るが如く、欲念消ゆる時、欲後の(せい)(かい)なるが如し。

岫雲斎
人間の欲望の起きた時は、熱湯の中にあるようで、もがきにもがいて欲しいものを得ようえとする。欲心が去ってしまうと、入浴して出た時のように心が綺麗さっぱりとして心地よいものである。

22日 42.
飲食欲

人欲の(うち)、飲食を以て尤も(はなはだ)しと為す。賎役庶(せんえきしょ)()を観るに、(あい)(こう)に居り、襤褸(らんる)を衣る。唯に飲食に於ては、則ち()べて過分たり。得る所の銭賃(せんちん)は、之れを飲食に付し、(つね)(すなわ)ち衣を(てん)して以て酒食に()うるに至る。(いわん)()(かい)の人は、飲食尤も豊鮮たり。故に聖人は箪食瓢飲(たんしひょういん)を以て顔子(がんし)を称し、飲食を(うす)くするを以て大禹(たいう)を称せり。

岫雲斎
人間の欲望の中で飲食が最も酷いものだ。卑賤な労役をしている人々を観察していると、狭苦しい小路に住み、身にはボロをまといながらも飲食だけは分に過ぎたものを食べている。そして日々働いて得た賃金は飲食に使ってしまう。また、いつも自分の衣類を質屋に入れて酒とか肴の代に当てている。身分の高い人々の飲食はさらに豊富で新鮮なものだ。こんなわけだから、孔子は、非常に粗食に甘んじながら道を楽しんだ弟子の顔回を賞賛し、また自分の飲食を切り詰めて神様に供物を捧げた大禹(たいう)を賞賛したのである。飲食に対する欲望を抑制する事は容易でないのである。

23日 43.
衣食住は欠くべからず

衣食住は欠く可からず。而して人欲も亦(ここ)に在り。又其の甚しき者は食なり。故に飲食を(うす)うするは尤も先務(せんむ)なり。

岫雲斎
衣食住の三つは生活の根本であり不可欠である。だから、人間の欲望の根源もここにある。中でも甚しいのは食である。この飲食を慎むことを一番先にやる必要性があるのだ。

24日 44.
天地の気象

一息(いっそく)の間断無く、一刻の急忙無し。即ち是れ天地の気象なり。

岫雲斎
天地の気象の変化を観察すれば、一瞬も休むことなく、又いつ見ても慌しく動くこともない。(人間も大自然も一呼吸の中に在り。)

25日 45.
理・気の説に関して

主宰より之れを理と謂い、流行より之れを気と謂う。主宰無ければ流行する能わず。流行して然る後其の主宰を見る。
二に非ざるなり。
学者(やや)もすれば分別に過ぎ、支離の病を免れず。

岫雲斎
宋儒の「理と気の説」に従うと、理は本体、そして気は運用である。万物は統べ司っているという前提から言えば理である。万物が成長し流行している現実から見ると気である。処が主宰が無ければ流行する事は出来ぬし、流行があるからこそ主宰を見ることが出来る。水があるから波あり、波があるから水を知る如きものである。この理と気は二つなのではない。だが、学者の中には、ややもすると分かち過ぎて離れ離れにみる癖のある者がいる。

26日 46.
一旦豁然

一旦(いつたん)豁然(かつぜん)の四字、真に是れ海天(かいてん)(しゅ)(じつ)の景象なり。
認めて参禅(さんぜん)頓悟(とんご)(きょう)()すこと(なか)れ。

岫雲斎
一旦豁然の四字は、書物を読んで分らなかった事が、苦心に苦心を重ねて「分かった」と思った時、これが「一旦豁然」である。それは海上に朝日が昇った瞬間の如きである。これは学理上の問題が分かった時のことで、参禅をして、はっと悟るというようなものではない。

27日 47.
心を養うべし

(およ)活物(いきもの)は養わざれば則ち死す。心は則ち我に在るの(いち)大活物(だいかつぶつ)なり。尤も以て養わざる可からず。之れを養うには奈何(いか)にせん。理義の外に別方(べっぽう)無きのみ。

岫雲斎
凡そ生命あるものは之を養わねば死ぬ。心は即ち各自保有の一大活物であるから最もよく養生せねばならぬ。その方法はどうか、それは唯、道理を明らかにして、各自の心をその道理に照らして見る外には別の方法は無い。

28日 48.
喜怒哀楽二則 
その一
喜怒哀楽の四情、常人に在りては喜怒の発する十に六、七、哀楽の発する十に、三、四にして、過失も亦多く喜怒の辺に在り。(いまし)む可し。

岫雲斎
人間には喜怒哀楽の四情がある。通常の人間ならば、喜びや怒りの起こる事が十のうち六か七である。悲しみや楽しみは三か四である。このように喜怒の方が多いので過失や失敗も喜怒の時に多い。警戒しなくてはならぬ。

29日 49.
喜怒哀楽二則 
その二

()()は猶お春のごとし。心の本領なり。怒気(どき)は猶お夏のごとし。心の変動なり。(あい)()は猶お秋のごとし。心の収斂(しゅうれん)なり。(らく)()は猶お冬のごとし。心の自得なり。自得は又喜気の春に復す。

岫雲斎
喜びは春のようなもので心の本来の姿と言える。怒りは夏で心の変動した姿である。哀みは秋で、心の引き締まった姿である。楽しみは冬のようなもので、自らの内なる姿であろう。この自得の姿が再び喜びの春へと復って行くのである。

30日 50.
霊光は真我
端坐して内省し、心の工夫を做すには、宜しく先ず自ら其の主宰を認むべきなり。

省する者は我れか。心は()と我れにして、()も亦我れなるに、此の言を為す者は果して誰か。

()れを之れ自省と謂う。

自省の極は、(すなわ)ち霊光の真の我れたるを見る。

岫雲斎
きちんと座り、内心を省み、心の修養をするには、先ず自ら自己の本体を認識しなくてはならぬ。「内省する者が自己であるか、それとも、内省されるものが自己なのか。心は元々自己であり、肉体もまた自己である。それなのに、この言葉を発する主体は果して誰なのか。」こうやるのが自己反省ということなのである。このような自己反省の窮極は、霊妙な良心の光が真の自己であると知るに至るのである。