「だれが、あなたにその権威を授けたのですか」

伝道職・牧会職の権威を巡って

天城会議:2001/ 2/5-7


  

  「だれが、あなたにその権威を授けたのですか。イエスは答えて、こう言われた。『わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。、、、』」
                             マタイ21:23〜27

  「だれが、あなたにその権威を授けたのですか」という質問がキリストに対して投げ掛けられました。この権威の源に関する質問は、古くて新しい質問です。主イエス緊迫した空気の中で、質問者に質問を返してファジィに答えられました。私たちは、この質問を投げ掛けた祭司長・民の長老たちのようには、主イエスの権威に関しては、何の疑問を抱いてはいません。その点に関しては明確な理解を持っています。
  しかし、私たちの間で問題となっているのは、福音の役者の権威に関してです。ある教役者は、教会の教職の行使する権威は会衆の合意によるもので、教会がその教役者に委任した権威であって、神から直接に授けられた権威とは考えてはいけない、という見解を公にしました。そこで、筆者は「だれが、牧師・群れの監督にその権威を授けたのですか」という質問を投げ掛け、それにストレートに答え、反論する代わりに、いくつかの質問を投げ掛けてみたいと思います。

  T、この文脈で、ヨハネの権威は、主イエスの権威と密接な関係にありました。さて、そこでヨハネは預言者と認められているでしょうか。ヨハネの権威は預言者としての神的な権威だったのでしょうか、そうではなかったのでしょうか。26節の「ヨハネを預言者として認めている」ということばは、人々の判断・考えであって、それは否定されるべきものなのでしょうか。
    主イエスは、この場面で、ヨハネを預言者、神からの権威を帯びた人物と言う見方に対して肯定的な見解を抱いておられたのではないでしょうか。また、ルカの福音書1章にあるゼカリヤの賛歌の中では、ヨハネは「いと高き方の預言者と呼ばれよう」(76節)として言及されていますので、ヨハネは明らかに預言者で、神的な権威を帯びていたのではないでしょうか。それでは、そのヨハネ、旧約の預言者たち、そして更には、新約のみことばの役者の権威は「上から」でしょうか「下から」でしょうか。それは神のみことばを預かり、それを宣言するという使命に鑑みて「天から」のものとされてはいないでしょうか。

  U、新約聖書は、監督・牧者たちなどの福音の役者の権威について明記していないでしょうか。幾つかの聖句を思い起こして頂けませんか。
   A. 使徒20・28―「聖霊は、、、神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」―ここに「あなたがた」とは、エペソ教会の長老たちのことです。彼らは、長老、牧者、また、監督でした。ある人々は「使徒の働き」は歴史的文献であるゆえに史実を述べるに過ぎず、後代への規範性、時代を超えた普遍性を有していないと反論するでしょう。この反論は正しいでしょうか。
   B.  書簡に見出される聖句に移りましょう。Uコリント13・10―「主が私に授けてくださった権威を用いて、、、」―ここに「私」とは、使徒パウロのことです。彼は主から直接的、また、個人的に「教会を築き上げるための」権威を授けられました。しかし、或る人々はここにおいても、パウロの使徒職の特殊性を理由に、この聖句は普遍性を有していないとして私たち現代の牧者・群れの監督にこれを適用することを拒むでしょう。一歩譲って、そうだとしても、Uコリント 10:8の「私たち」をどう理解しますでしょうか。
   C. もう一句見てみましょう。エペソ4・11―「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」使徒以外の教会のミニストリーについている人々を、この聖句は「神によって立てられた」という点においては、使徒と同列においています。この聖句から、主が牧師・群れの監督に直接的に、使徒パウロ同様に、その「権威を授けてくださった。」と結論できないでしょうか。

  もしそうであるなら、たとえ個人的意見であっても、聖書の明言と異なった見解を抱くことは私たちにとって正しいことでしょうか。それは許されることでしょうか。聖書の明言を退けて自分の論理・推論に重きを置くことは、むしろ、危険なことではないでしょうか。

  V、「つばさ」誌2000年1月号「今月のことば」の論説では、ローマ・カトリック教会は「キリストー司教団―信者」という体制であって、それ故「上から」の権威が主張されていると説明されています。さて、それに対して「万人祭司」の真理を主張するプロテスタント諸教会では、監督の権威は「キリストー教会―監督」というラインに従って「下から」の委託と主張されています。「上に立つ者は、その権威を神から直接に授かったと考えるべきではありません。神は、霊的な権威を先ず『教会』に与えました。教会は、合議的な手続きを経て、その権威を監督に委託しているのです。」と説明されています。
   しかし「万人祭司」とは、神と私たちの間に仲介を要しない直接的関係を正当化するものですから、監督の権威に関して「キリストー教会―監督」として、教会の仲介が必要と考えると、ローマ・カトリック教会とは反対の方向の極端に陥ることになりませんか。そして、それは「万人祭司」の真理に矛盾することになりはしませんか。そもそも「万人祭司」の教えは、ひとつの「上部」である「かしらなるキリスト」、ひとつの「下部」である「からだなる教会」のみの存在を教えるものであって、その教会の中に「上部・下部」を設けることを否定しているのではありませんか。それはすべての信仰者の立場や奉仕の相違を超えた「霊的平等性」を主張するものではないでしょうか。

  W、教会は「キリストのからだ」であって、その「首はキリスト」でありませんか。「からだ」は、その肢々のすべてをもってすれば「首(かしら)」に代わることができるのでしょうか。権威は「からだ」から与えられるのではなく「首」から授けられるのであって、キリストは今も聖霊によって教会に「現存する教会の主」ではないでしょうか。勿論、牧師・群れの監督も教会の一部ですから、彼らに与えられた権威は、教会に与えられたとも言えます。しかし「教会」の仲介を通してでしょうか。

  X、ジョン・ウエスレーのあの有名な「世界は私の教区である。」という発言の文脈において、ウエスレーは「人に従うよりは、神に従うべきです」として、彼の持つ「上から」の権威を主張し、他人の教区で説教しないようにと命ずる教会の権威をはね除けたのではないでしょうか。
   また、チャールス・ウエスレーの有名な賛美歌「神をあがめ、、、」("A Charge to keep I have"―インマヌエル賛美歌628番)で、チャールス・ウエスレーが、"A charge"、"My calling"、"My trust" 、"Account to give" といったことばを用いる時、彼は、教会との関係を心に描いてこうしたことばを用いているのでしょうか。それともこれらは、神、また、主であるキリストとの関係においての、彼の意識の表明でしょうか。
  そして、これこそが歴代の教職者・群れの監督たちの心中にあった同じ自覚ではないのでしょうか。監督教会の教職者は、当然「神から授けられた権威」を主張しています。では、他の政体を取る教派・教会の教職者たちの見解はどうでしょうか。
     1. 会衆派牧師、その議長も務めたピーター・T・フォーサイス:「教職は福音のゆえに教会の上に権威を持つ。しかして、いつに福音であって、思想においてでも、行為においてでもない。」「教会は、説教者に神的権威を与えることはできなかった。しかし、説教者に社会的立場を与えることはできた。また、教会は、、、、彼らの権威を認めることはできた。」
     2. ドイツ改革派神学者のオットー・ヴェーバー:「事実、世俗化した共同体(教会)が自らの世俗化を弁護するために『万人祭司』をどのように引き合いに出したか。、、、我々の教会が助けられるのは、ただ教務職(教職)が共同体に対する独立を獲得し直す時であり、、、、。『カトリック的な』軌道に通じると主張したくなるとすれば、それもまた不当なことであろう。断じて否を言うことが必要である。」「その職(説教職)の尊厳さが備えられているのと全く同じように、その職には権力が与えられている。、、、彼の権力は全教会を神のことばに従順ならしめるということだけに限られている。」

  主イエスは、質問を投げ掛けた後、譬えでご自分の心のうちを巧みにソフトに語られました。しかし、コンピューター時代にはハードな「0か1か」、即ち、監督・牧師の権威は「上からか、下からか」と直裁的に語るのが相応しいようです。
  神のみことばによると、福音の役者の与えられている権威は明らかに「上から」のもので、聖書はその点に関して、決して曖昧ではありません。
  条例改正に伴って、また、新しい総理の選出・就任に伴って「何が変わったのでしょうか。」―権威の源泉、また、神・キリストの権威がどのような流れで私たちに授けられたかに関しては、何も変わってはいません。また、その理解を変えてはなりません。同労の牧師・伝道者の先生方。みことばの明確な教えに立って、与えられた権威をキリストご自身からのものとして重たく受止め、慎重にそれを行使しようではありませんか。

  変わったことがあるとすれば、また、変えなければならないことがあるとすれば、それは神が授けてくださった権威の行使における私たちの姿勢・態度ではないでしょうか。ペテロの第一の手紙5章には、どのような意識、姿勢でその権威を行使すべきかが明記されています。
     1.神によって授けられた権威だからといって、「何事でも牧師・監督に言うことを聞け」、「牧師が間違っていると思っても従え」と主張することは、委ねられた群れを「支配すること」になり、権威の濫用だということを弁えようではありませんか。他人の良心の分野、また、権利が認められている分野に土足で踏み込むことは、権威の濫用です。群れのひとりびとりも、彼らに与えられた権利を持っていることを忘れてはならないのではないでしょうか。長老政体、会衆政体を無げに否定できないのは、聖書にそれらの政体をとる人々の論点を支持している聖句があるからではないでしょうか。それも聖書の教えの一部ではないでしょうか。
     2.群れの建て上げのためではなく、自分や家族、近い者の「利益を求める心から」その権威を用いることも、権威の濫用になることを心に留めておこうではありませんか。教会歴史の光によれば、中世におけるローマ・カトリック教会腐敗の原因のひとつは「ネポティスム」(血縁重視主義)にあって、教会の、特に、法王庁、司教たちの堕落は、都市の大主教の座、修道院院長の立場に家族・親類など血縁者を任命し、それらを独占したことに発していると言われています。ネポティズムは、どの時代にあっても教会を蝕んだ、人間の最も陥りやすい悪のひとつであることを弁えて、警戒を忘れてはいけないのではないでしょうか。
     3.第3に「互いに謙遜を身につけなさい」と勧められています。謙遜を忘れるとき、様々な形での権威の濫用が始まるのではないでしょうか。その実際はあまりにも多岐にわたっていて、そのひとつびとつをここに列記するわけにはゆきません。しかし、こうしてハッキリものを言うことが、謙遜への勧めに反することにならないように、主のみ助けを仰ぎます。

  最後に、教団の総理の選出とその意味合いに関して一言つけ加えます。「つばさ」誌の論説では、「下から」の選出は「下から」の権威の委託を意味し、そこに、会衆に対する責任が存すると論じてありますが「選出」は「権威の委託」に関わる行為でしょうか。確かに、一般社会における選挙においては、主権在民ですので、選出することは選挙民の権利の委託を意味します。しかし、教会における選挙においては、権威は「からだ」である教会にはなく、「首」であるキリストにあります。牧師・群れの監督は、前述のように、キリストから権威を授けられた人々です。そのような神的な権威を帯びた複数の教職者たちの中から、教団の総理・単一の監督を選出することは、権威の「委託」ではなく、すでにその器が授かっている主からの権威の行使に対する私たちの「承認」・「承服」なのです。「その権威が、正しくみことばに従って行使される限り、私はあなたを指導者として認め、その権威に服します。」との意思表示に他なりません。
  このように「上から」の権威は、権威行使に関する「下から」の承認を必要としていて、相互の信頼関係の上に成り立っているのではないでしょうか。また、権威行使に関わる承認に伴う「アカウンタビリティ」(「下への責任」)が生じるのも当然のことと理解できないでしょうか。しかし、これも神へのアカウンタビリティに包含されるものと理解できるでしょう。

  私の疑問は「つばさ」誌2000年1月号の論説における神学的な論旨展開の部分にあって、その適用として注意が喚起されている諸点に関しては、私も賛同の意を表明します。実際的で大切なことが論じられ、示唆されていると判断し、高く評価し心に留めておこうと思っています。しかし、適用の基礎である論旨が崩れたなら、その適用は意味をなさなくなります。その意味で「つばさ」誌の論説における論旨展開の問題点、その疑問点を指摘し、それぞれの教会という現場での牧師の、そして、教団という場での単一の監督の権威に関して、聖書に基づいた理解と正しい行使への道を求めるものです。主の助けを仰ぎつつ。

■  神学小論文−そのX:「キリストの使節としての務めに任じられて」

■  神学小論文−そのY:「教職と信徒」

■  神学小論文−そのZ:「私たちの教会―教会論:その制度面から」

■  神学小論文−その[:「教会の権威を巡って」―再び―

■  神学小論文−その\:「監督政体について」(レスポンス)

■  神学小論文−その]:「監督政体の理解」

.                                   聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


Copy right 2004 PZH
All rights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ フィリップのホーム・ページにもどる