「キリストの大使に任じられて」
  執筆:2001/03/10

伝道職・牧会職の権威を巡って


「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」

                                 第二コリント5:20


序 文:

  IT革命の世紀に踏み込み、ホーム・ページから多様な情報・意見が発信されています。インターネットは情報収集の手段である以上に、情報発信の機会となっていて、人の意見が飛び交っているこの時代です。このような状況の中で、心に思うことは、規範としての「聖書」の重要性で、ある問題に関して「聖書は何と言っているのか」が絶えず問われなければなりません。
  宗教改革以来、福音的な教会は「聖書のみ」という信仰に立って、「神のことば」が教会を導く唯一の規範であることを頷いてきました。しかし現実には、聖書を無視して自分の見解・考えが主張されています。「聖書は信仰と実践の規範」は、高く掲げた旗印ではあっても、聖書と実際に直面する問題とを噛み合わせることはしない、という状況が残念ながら至るところに見られます。
  かっての聖化大会講師、D・トムプソン博士は次のように書いています。
     ・ 「教会はその主張も実践も、ただ聖書の権威と啓示の元で形作らなければなるまい。、、、教会は、御霊によって生まれはするが、次に自分自身を裁き、支えるような独立独歩の存在となってはならない。」
     ・ 「『聖書のみによって』のスローガンで始まった宗教改革でさえ、暫くすると教義運動へと矮小化し、教義文面以外の考え方をすべて非正統的として裏ごししてしまったのである。」
     ・ 「かっては、確信やカリスマでがむしゃらにやっていた仕事を選挙で選ばれた人が遂行するようになる。すると、指導力も熱血なイデオロギーも『人から職へと』移ってゆく。こうした過程で、組織の関心は、体制の保持・継続に向けられていく。そうなると、言動も行動も決定も、その聖書的・神学的根拠を問われることなく、それらが団体にどのような影響を及ぼすかという観点のもとに出されるようになる。」、、、
     ・ 「教会は、伝統を生み出し、礼典を作成する。その過程を通して真理が微妙に歪められ、歪みが蓄積し、その屈折に馴れてしまって、やがて教会が、神の御言葉を聞く力も、代弁する力も失ってしまう、ということが頻繁に起こってきた。」
  トムプソン博士は、この危険を回避する希望を「ダイナミックな聖霊の働き」と「不変な神の言葉」に見出し、そして、この二つは「一緒に働くのが常である、、、」と書いています。私たちは「聖書こそが信仰と実践の規範である」との立場を再確認し、その意味することが何であるかを真剣に探求しなければなりません。
   そうするにあたって、解釈における以下の原則に心を向けることが必要でしょう。私たちは、第一に、聖書の明言に注意を払います。正しい釈義の結果、聖書の明瞭に意味することであるとのことが判明したならば、それを先ず受け入れる姿勢が必要です。そして、次に聖書が明言はしてはいないものの、推論によって確定できる事柄に思いを向けます。正しい推論の結果も「聖書的」と言えましょう。しかし「聖書の明言」と「聖書からの推論」を逆転させ、明言を押しのけて推論を優先させることは、釈義の原則に反することです。ましてやその推論が、聖書の明言と矛盾していたなら、その推論を正しいとする根拠はありません。その推論は明らかに間違っているのです。この際、もう一度真剣に「聖書:神のみことば」に取り組もうではありませか。
 M・F師が「つばさ」誌2000年1月号論説の中に「、、、議場で何かを討議することはきわめて難しい状況です。しかし、『合議的監督制』にあって、年会はいのちです。討議・議論もいのちです。」と書いています。しかし、現実には時間的な制約があって年会ではとても討議を交わすことはできませんので、お互いの理解を深めるためにこうした形で、建設的に、即ち、感情的になったり、相手の人格を傷つけるような表現を避けながら、論じあうことが大切と思います。

  さて、今回の論点は:

   ・ 「牧師・監督(IGM内での表現に従って、今後単純に『伝道者』と表現することがあります)の授かった神的権威が、「つばさ」誌2000/1月号にM・F師が主張するように、『神から直接に、ではなく<教会から>委託されたもの』なのか
   ・ または、筆者が教報2000/2月号、更に『天城文書』で展開しているように、それは『主イエスから<直接に>授けられたもの』なのか

という一点です。

  「つばさ」誌に書かれている他の諸点、特に実際的な事柄への示唆に関しては、お互いおおむね共通の理解を示し、合意が成立しているものと考えています。
  私の見解・主張の論拠として、更に以下の諸点を吟味していただけますでしょうか。このような経緯を通して、様々な機会に書き綴ることになったこの問題に関する私の理解を、ここにひとつに纏めてみました。重複する点が多々あるかも知れませんがご容赦ください。

  T 教職と信徒−それぞれの権威・権限

   A 「つばさ」誌2000/1月号の論説では、「監督は、、、教会の権威を委託され、職務を執行する、、、」とされていますが、ここに、権威を委託する側の教会と、権威を委託される側の監督という二者の関係があります。

     1. さて、この関係において、「権威を委託する側の教会」は、当然、「権威を委託される側の監督・牧者」を含みません。しかし、教職者を含まない信徒のみを「教会」と言うことができますでしょうか。それはローマ・カトリック教会が、信徒を除外した「司教団」(監督の集まり)をもって「教会」であると誤って定義したのとは、正反対の過ちを、そのように定義することによって犯すことになります。
  言うまでもなく、新約聖書によると主イエスの「教会」は「聖徒たち、監督、執事たち」によって構成されており、監督、執事などの奉仕者を除外した信徒たちは、教会の一部であっても「教会」そのものではあり得ません。両者が揃って存在して初めて、真の成熟した意味での「教会」が存在し得ます。
     2. こうして「教会」とは、「聖徒たち」と「監督、執事たち」との両方によって構成されているという新約聖書の教えに立って考える時、「教会が、監督に権威を委託する」という図式がいかに奇妙かが見えてきます。なぜなら、その「教会」は、「監督」も含まれており、「自らが」権威を「自らに」委託すると主張していることに他ならないからです。
     3. それでは、この難点を避けるために、「教会」という語を置き換えて「信徒たち」として考えてみましょう。そうすると「つばさ」誌で展開されたМ・F師の論旨はどのようになるでしょうか。教職者は、信徒たちから教職権を委託されることになります。しかし、教職と対比された意味での信徒が「信徒」であるのは、教職権を持たないからではないでしょうか。自らが持たない権限を、どのようにして教職に委託、または、賦与できるのでしょうか。また、持たない者たち全員、即ち、全信徒が集まっても、教職権を創り出すことはできません。

   B 現代におけるローマ・カトリック教会の一神学者は、司祭と信徒に関して、以下のように書いています。

  「一方では、個人としてすべてのキリスト者にはそれぞれ御言葉を宣言し、かつ秘跡にあずかるための全般的な力が与えられているということと、他方では、共同体への公の本来の奉仕職へ、つまり御言葉の宣言、秘跡の執行、共同体のメンバーに対する多様な世話などにー正常な場合は按手あるいは叙階によってー召されている個人が持っている特殊な権威、これら両者は全く別のことである。」

     1. この神学者はローマ・カトリックの陣営に属するので、プロテスタント教会の立場に立ってこの文章を読むと、幾つかの訂正すべき点に気づくきます。
       a 第一は、「共同体」によって意味される人々には、奉仕職に召された人々が含まれておらず、「奉仕職へ召された人」と「共同体」という関係となっています。しかし、聖書を正しく理解するならば、「共同体」、即ち「教会」は、既述のように「聖徒たち、監督、執事たち」とから成立っており、その中には、「監督、執事たち」などの奉仕職に召された人々も含めるべきです。それ故、「監督、執事たち」と区別された共同体のメンバーは、正しくは、「聖徒たち」、或いは「信じた(信じている)者」と呼ばれるべきでしょう。
       b 第二に、「按手あるいは叙階によってー召されている個人」としていますが、これも「按手あるいは叙階によって」ではなく、「主からの召命によって」とすべきでしょう。按手は、その主イエスからの召しを、教会が正式に確認・承認するものであって、それによってある個人が奉仕職に就くのではありません。内的召命と外的召命を区別して考えるべきと思います。
       c 第三に、「秘跡」といった用語が明らかにカトリック的です。

     2. こうした点において相違があることを認識した上で、この学者が「個人としてのキリスト者が有しているみことばを宣言する力と、召された個人持っている特殊な権威」とを「これらは全く別のことである」としている点に注目したいと思います。
       これに対して、宗教改革者M・ルッターは、1520年執筆の「ドイツ貴族へのことば」の中に「教職権は、基本的には全信徒に属するものである」と書いています。
  しかし、次のルッターのことばで判るように、ルッターのこの理解にはすべてのキリスト者の持つ力・権限と奉仕職へ召された人々がもつ権威との混同があります。
  「このことを更に簡明に表現するなら、もし、敬虔な平信徒のキリスト者の一団が捕虜となり、砂漠に連れて行かれ、司教によって聖別された司祭がその中にいないので彼ら自身の中から一人を選ぶことに決め、、、、そうしてバプテスマを授け、ミサを祝い、赦罪を宣言し、説教をしたりすることをその人に命じたとしたら、その人物はあたかも全司教と全教皇が彼を聖別したのと同じような、真の司祭となるはずである。」
  「、、、なぜなら、だれでもがこれらの職務を行うのがよいというのではないが、バプテスマを受けた者はすべて、司祭、司教として聖別されたものと誇ってよいからである。」
  私たちは、そうは考えないのです。一人の人が牧者として立てるのは、教会の主、また、羊の大牧者であるキリストが、その人に声をかけ、その群れの牧者として立つように召命を与えられた時であり、その召しの声が掛からない限り、その人は信徒として、お互いに勧告したり、説教したりはできるでしょうが、それはどこまでも信徒としての立場に留まったままです。
  具体的な例として、和歌山のベテスダ会の状況を想い起してください。彼らが、伝道者のいない状態で、その内のひとりを自分たちで牧師と選んで、教会としてやってゆくということがありうるでしょうか。
  「すべてのキリスト者がみことばを宣証する権を委ねられている」とのことは、共同体の一部の人々に専門的にその業に携わるようにとの主からの召命が与えられる、という事実を排除するものではありません。
  宗教改革というような変革の時代には、人の常として一方の極端からもう一方の極端に振れた見解が打ち出されるものです。ローマ・カトリックの体制に戦いを挑んだルッターが、司教の権威に反発したのも理解できないことではありません。しかし「つばさ」誌の論説の誤りは、聖書に基づいて論じる代わりに、一方に偏ったルッターの見解を土台として論旨を展開したことにあるのではないでしょうか。

     3.教職権は、共同体の一部を構成する教職者に主イエスから委ねられた権限です。そして教職者たちが教会の本質的な一部であるが故に、その権威は「教職者にあって」教会・共同体のものであると言えます。
  しかし、教会全体・共同体に属しはするものの、信徒に属するのではなく、主イエスによって個人的に召された教職者に属するものなのです。

     4. 「按手」は、召された人物に主イエスからの使命の委託に伴う権威の賦与がなされる内的召命とは区別され、「外的召命」と結びついています。しかし、それは教職者に権威を委譲する行為ではなく、主イエスからの召命に伴って既に彼らに賦与されている権威を、共同体として(審査することを含めて)正式に認知し、教会におけるその行使を承認する行為です。
  宗教改革直後のプロテスタント諸教会は、国家権力と結びついた国家教会であって、その教職者は、国家の官職としてその務めに就きました。そのような状況下では、権威が国家教会から委譲されているとしても、それは当然視されます。政教一致の状況があるからです。この文脈での「権威」は、国家権力によるもので、キリストからのものとは異質なものです。

     5. 政教を分離して考える時、教会が監督に権威を委託したという歴史的背景は除かれます。この歴史的背景を取り除いた上で、なお「教会が監督に権威を、、、」と考えると、上述のようにいろいろの無理が生じてくるのです。なぜなら、教職者の与えられている権威は、使命の委託に伴って、その使命の遂行のために、主イエスから賦与されたものだからです。それを違うように理解して論じるところに、矛盾が生じてくるのだと思います。

     6. 更に「キリスト者全体の権利を正しく行使するために、投票によって選ばれた者に務めを委ねる権利をキリスト者はもっており、選ばれた人は神の召しと投票によって他の人に代わって、それを引き受けることができる。」というのがルッターの考えです。
  この「投票によって」は、使徒の働き14章において、「彼らのために教会ごとに長老たちを選び、、、」(23節)とある聖句の「選び」という語が意味するところとされています。初代教会は「手を伸ばすこと」によって投票したようです。さて、この投票による選任は、教職の権威委託の行為ではなく、「教会ごとに」とあるように、教職の権威を認め、その行使の場を提供するものです。更に、長老たちが真に神によって召された人物であるか否かを審査することをも、含意していると理解できましょう。
  もし、ルッターが考えるように、福音を宣べ伝え、教会を建てあげる権限、即ち、教職権を「他の人に引き受けてもらった」とすると、引き受けてもらった側、即ち、全信徒は、最早、その権利・権限を有しないことになります。これは証人としての信徒の使命を明確に教え、強調する聖書の教えと相容れません。教職者がその召された使命を果していても、信徒としてのみことばを宣証する責任は、決して無くなるものではありません。なぜなら、引用したローマ・カトリックの一神学者が書いているように、この二つの権限は、異なったもので同一のものではないからです。

     7. 教職権また、それに伴う権威は、新約聖書によると、教会の主であるキリストから召命を受けた教職者たちが、福音の奉仕の委託に伴って、その委託と同時に主イエスから直接に賦与されたもの以外の何物でもありません。それは、みことばの奉仕に伴う権威です。使命の委託と権限の授与は一体のもので、それらを切り離してはなりません。信徒には、例え、それが全信徒であっても、教職権を委託し、授ける権限はないと理解すべきでしょう。
  「万人祭司」が意味するところは、別の事柄―教職者を含めた信徒間の平等、神への直接的接近の妥当性など―を教えていると理解すべきと思います。

  U 「福音の役者の権威」に関してー「だれが、あなたにその権威を授けたのですか」

  (この第二の区分は「伝道職の権威」に関する小論文の第一を既に読まれた方は、スキップしてください。)

  「イエスは答えて、こう言われた。『わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。、、、』」         マタイ21章23〜27節

  キリストに投げ掛けられた「だれがあなたにその権威を授けたのですか」という質問は古くて新しい質問です。勿論、この質問を投げ掛けた祭司長・民の長老たちと違って、私たちは主イエスの権威に関しては少しも疑問を抱いていません。主イエスの権威に関しては明確な認識を持っています。最近私たちの間で問題となっているのは福音の役者の権威に関してです。即ち「民の指導者、長老、学者たち」が使徒たちに「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」(使徒4:7)と尋問した時の状況と似ています。福音の役者の権威が問われているのです。
  さて、主イエス緊迫した空気の中で、質問者に質問を返してファジィに答えられました。使徒たちの方は、ストレートに「イエス・キリストの御名によるのです。」と答えました。今回は主イエスに倣って「だれが牧師・群れの監督にその権威を授けたのですか」という質問に対して、ストレートに答える代わりにいくつかの質問を投げ掛けてみたいと思います。
  この文脈で、ヨハネの権威は、主イエスの権威と密接な関係にありました。さて、そこでヨハネは預言者と認められているでしょうか。26節の「ヨハネを預言者として認めている」ということばは、人々の判断・考えであって、それは否定されるべきものなのでしょうか。主イエスは、この場面で、当然、肯定的な見解を抱いておられたのではないでしょうか。また、ルカの福音書1章にあるゼカリヤの賛歌の中では、ヨハネは「いと高き方の預言者と呼ばれよう」(76節)として言及されていますので、ヨハネは明らかに預言者だったのではないでしょうか。それでは、そのヨハネ、旧約の預言者たち、そして更には、新約のみことばの役者の権威は「上から」でしょうか「下から」でしょうか。

  A ウエスレーの基準による検証:

  さて、ウエスレーは物事を立証するにあたって、四つの基準を設けました。即ち、聖書、理性、経験、そして、伝統です。これらは「ウエスレーの四辺形」と呼ばれていますが、ウエスレーの意識では、四辺形というより「聖書を頂点とする三角錐」と言ったほうが正しいようです。ウエスレーにとっては、そして、私たちにとっても、聖書は無二の基準であって、他のものはその聖書の理解の補助的手段として位置つけるのが正しいのです。
  それで、先ず、

     1. 「聖書による検証」を見てみましょう。
  新約聖書は、監督・牧者たちなどの福音の役者の権威について明記していないでしょうか。幾つかの聖句を思い起こして頂けませんか。
       a 使徒20・28―「聖霊は、、、神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」―ここに「あなたがた」とは、エペソ教会の長老たちのことです。彼らは、長老、牧者、また、監督でした。ある人々は「使徒の働き」は歴史的文献であるゆえに史実を述べるに過ぎず、後代への規範性、時代を超えた普遍性を有していないと反論するでしょう。この反論は正しいでしょうか。
       b 書簡に見出される聖句に移りましょう。Uコリント13:10―「主が私に授けてくださった権威を用いて、、、」―ここに「私」とは、使徒パウロのことです。彼は主から直接的、また、個人的に「教会を築き上げるための」権威を授けられました。しかし、或る人々は、ここにおいても、パウロの使徒職の特殊性を理由に、この聖句は普遍性を有していないとして私たち現代の牧者・群れの監督にこれを適用することを拒むでしょう。一歩譲って、そうだとしても、Uコリント 10:8の「私たち」をどう理解しますでしょうか。
       c エペソ4・11も見てみましょう。「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」使徒以外の教会のミニストリーについている人々を、この聖句は「神によって立てられた」という点においては、使徒と同列においています。この聖句から、主が牧師・群れの監督に直接的に、使徒パウロ同様に、その「権威を授けてくださった。」と結論できないでしょうか。
       d Uコリント5章18〜21節
  5章の18、19節には「神は、キリストにあって、、、、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」、「神は、キリストにあって、、、、、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」とあって、次の20節、有名な「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。、、、私たちは、キリストの代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」へと続いています。
  「和解の務め」、「和解のことば」の委託が、その奉事に伴う権威を伴って、キリストにあって神から与えられているからこそ、伝道者は「キリストの使節」と呼ばれます。使命のみがキリストから与えられて、その使命遂行に伴う権限・権威は、キリストから直接ではなく、他からというのは奇妙な論理ではないでしょうか。使命の委託と権威の授与は、同時的であり、同一のお方「キリストにある神」からのものです。
  もし後者の「みことばの奉仕に伴う権威」の授与を「教会から委託されたもの」としなければならないのなら、前者の「福音の奉仕そのもの」も「教会から託されたもの」としなければなくなりますでしょう。両者は不可分です。これは伝道者にとって生命的といえる伝道職への召命観に関わってきます。
  さて、パウロのその点の自覚は、ガラテヤ1章1節に明確に表明されているように、「使徒となったのは、人間からでたことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によった」と表明されているものでした。そして、これが、使徒職とは異なるものの福音に仕えるという点で共通性を有する、伝道職に召された人々の揺るがない自覚・意識ではないでしょうか。
  「死者の中からよみがえらせ」られた、という表現の意味合いは、後で言及します。
  IGMの按手式の誓約文には「あなた(がた)が聖書の教えと使徒の模範に基づいて、按手により、教職に任ぜられることは、教会のかしらでる主イエス・キリストの召命によると確信していますか。」と問われています。「主イエスの召命」の事実が、伝道者としての使命の委託、それに伴う伝道者の権威の授与を保証するのです。
  教会は、その主イエスからの召命の確実さに関して審査し、その事実を認知することはできても、福音の使命の委託も、それに伴う権威の授与もできません。それは「教会という場」で起こることにしか過ぎないのです。勿論、それも大切なことのひとつで、軽んじてはなりませんが、、、。
  もし、このように新約聖書が明らかに福音の役者の権威は「天から」、即ち、「神から」―主イエスご自身、また、聖霊によると明言しているのですから、たとえ個人的意見であっても、聖書の明言と異なった見解を抱くことは私たちにとって正しいことでしょうか。それは許されることでしょうか。聖書の明言を退けて自分の論理・推論に重きを置くことは、むしろ、危険なことではないでしょうか。

     2 次いで「論理(理性)による検証」に入りましょう。
  「つばさ」誌2000/1月号「今月のことば」の論説では、ローマ・カトリック教会は「キリストー司教団―信者」という体制であって、それ故「上から」の権威が主張されていると説明されています。それに対して「万人祭司」の真理を主張するプロテスタント諸教会では、監督の権威は「キリストー教会―監督」というラインに従って「下から」の委託と主張されています。そして、その論説には「上に立つ者は、その権威を神から直接に授かったと考えるべきではありません。神は、霊的な権威を先ず『教会』に与えました。教会は、合議的な手続きを経て、その権威を監督に委託しているのです。」と断言されています。
  しかし「万人祭司」とは、神と私たちの間に仲介を要しない直接的関係を正当化するものですから、監督の権威に関して「キリストー教会―監督」として、教会の仲介が必要と考えると、ローマ・カトリック教会とは反対の方向の極端に陥ることになりませんか。それは「万人祭司」の真理に矛盾することになりはしませんか。そもそも「万人祭司」の教えは、ひとつの「上部」である「かしらなるキリスト」、ひとつの「下部」である「からだなる教会」のみの存在を教えるものであって、その教会の中に「上部・下部」を設けることを否定しているのではありませんか。それはすべての信仰者の立場や奉仕の相違を超えた「霊的平等性」を主張するものではないでしょうか。

     3 さて、次に「体験による検証」です。
  教会は「キリストのからだ」であって、その「首はキリスト」でありませんか。「からだ」は、その肢々のすべてをもってすれば「首(かしら)」に代わることができるのでしょうか。権威は「からだ」から与えられるのではなく「首」から授けられるのであって、キリストは今も聖霊によって教会に「現存する教会の主」ではないでしょうか。勿論、牧師・群れの監督も教会の一部ですから、彼らに与えられた権威は、教会に与えられたとも言えます。しかし「教会」の仲介を通してでしょうか。
  私たちの伝道職への召命を思い起こす時、それは間接的に私たちに信仰者の共同体である「教会から」与えられたものと、私たちは理解・意識していますでしょうか。使徒パウロと等しく、私たちは「人からではなく、また、人々を通してでもない。それは、主イエス・キリストからだった」と証ししないでしょうか。

     4. 最後に「伝統による検証」を試みましょう。
  ジョン・ウエスレーのあの有名な「世界は私の教区である。」という発言の文脈において、ウエスレーは「人に従うよりは、神に従うべきです」として、彼の持つ「上から」の権威を主張し、他人の教区で説教しないようにと命ずる教会の権威をはね除けたのではないでしょうか。
  また、チャールス・ウエスレーの有名な賛美歌「神をあがめ、、、」("A Charge to keep I have"―インマヌエル賛美歌628番)で、チャールス・ウエスレーが、"A charge"、"My calling"、"My trust" 、"Account to give" といったことばを用いる時、彼は、教会との関係を心に描いてこうしたことばを用いているのでしょうか。それともこれらは、神、また、主であるキリストとの関係においての、彼の意識の表明でしょうか。
  そして、これこそが歴代の教職者・群れの監督たちの心中にあった同じ自覚ではないのでしょうか。
       a 監督教会の教職者は、当然「神から授けられた権威」を主張しています。では、他の政体を取る教派・教会の教職者たちの見解はどうでしょうか。
       b 会衆派牧師、その議長も務めたピーター・T・フォーサイスは次のように書いています。
  「教職は福音のゆえに教会の上に権威を持つ。しかして、いつに福音であって、思想においてでも、行為においてでもない。」
  「教会は、説教者に神的権威を与えることはできなかった。しかし、説教者に社会的立場を与えることはできた。また、教会は、、、、彼 らの権威を認めることはできた。」
       c ドイツ改革派神学者のオットー・ヴェーバーは、どう言っていますでしょうか。以下の引用文に目を留めてください。
  「事実、世俗化した共同体(教会)が自らの世俗化を弁護するために『万人祭司』をどのように引き合いに出したか。、、、我々の教会が助けられるのは、ただ教務職(教職)が共同体に対する独立を獲得し直す時であり、教務職の交わりによって担われる時である。、、、『カトリック的な』軌道に通じると主張したくなるとすれば、それもまた不当なことであろう。断じて否を言うことが必要である。」
  「その職(説教職)の尊厳さが備えられているのと全く同じように、その職には権力が与えられている。、、、彼の権力は全教会を神のことばに従順ならしめるということだけに限られている。」

   主イエスは、質問を投げ掛けた後、譬えでご自分の心のうちを巧みにソフトに語られました。しかし、コンピューター時代にはハードな「0か1か」、即ち、監督・牧師の権威は「上からか、下からか」と直裁的に語るのが相応しいようです。神のみことばによると、福音の役者の与えられている権威は明らかに「上から」のもので、聖書はその点に関して、決して曖昧ではありません。条例改正に伴って、また、新しい総理の選出・就任に伴って「何が変わったのでしょうか。」―権威の源泉、また、神・キリストの権威がどのような流れで私たちに授けられたかに関しては、何も変わってはいません。また、その理解を変えてはなりません。同労の牧師・伝道者の先生方。みことばの明確な教えに立って、与えられた権威をキリストご自身からのものとして重たく受止め、慎重にそれを行使しようではありませんか。
 変わったことがあるとすれば、また、変えなければならないことがあるとすれば、それは神が授けてくださった権威の行使における私たちの姿勢・態度ではないでしょうか。ペテロの第一の手紙5章には、どのような意識、姿勢でその権威を行使すべきかが明記されています。

     1 神によって授けられた権威だからといって、「何事でも牧師・監督に言うことを聞け」、「牧師が間違っていると思っても従え」と主張することは、委ねられた群れを「支配すること」になり、権威の濫用だということを弁えようではありませんか。他人の良心の分野、また、権利が認められている分野に土足で踏み込むことは、権威の濫用です。群れのひとりびとりも、彼らに与えられた権利を持っていることを忘れてはならないのではないでしょうか。長老政体、会衆政体を無げに否定できないのは、聖書にそれらの政体をとる人々の論点を支持している聖句があるからではないでしょうか。それも聖書の教えの一部ではないでしょうか。
     2 群れの建て上げのためではなく、自分や家族、近い者の「利益を求める心から」その権威を用いることも、権威の濫用になることを心に留めておこうではありませんか。教会歴史の光によれば、中世におけるローマ・カトリック教会腐敗の原因のひとつは「ネポティスム」(血縁重視主義)にあって、教会の、特に、法王庁、司教たちの堕落は、都市の大主教の座、修道院院長の立場に家族・親類など血縁者を任命し、それらを独占したことに発していると言われています。ネポティズムは、どの時代にあっても教会を蝕んだ、人間の最も陥りやすい悪のひとつであることを弁えて、警戒を忘れてはいけないのではないでしょうか。
     3 第三に「互いに謙遜を身につけなさい」と勧められています。謙遜を忘れるとき、様々な形での権威の濫用が始まるのではないでしょうか。その実際はあまりにも多岐にわたっていて、そのひとつびとつをここに列記するわけにはゆきません。しかし、こうしてハッキリものを言うことが、謙遜への勧めに反することにならないように、主のみ助けを仰ぎます。
  ここで、教団の総理の選出とその意味合いに関して一言つけ加えます。「つばさ」誌の論説では、「下から」の選出は「下から」の権威の委託を意味し、そこに、会衆に対する責任が存すると論じてありますが「選出」は「権威の委託」に関わる行為でしょうか。確かに、一般社会における選挙においては、主権在民ですので、選出することは選挙民の権利の委託を意味します。しかし、教会における選挙においては、権威は「からだ」である教会にはなく、「首」であるキリストにあります。牧師・群れの監督は、前述のように、キリストから権威を授けられた人々です。そのような神的な権威を帯びた複数の教職者たちの中から、教団の総理・単一の監督を選出することは、権威の「委託」ではなく、すでにその器が授かっている主からの権威の行使に対する私たちの「承認」・「承服」なのです。「その権威が、正しくみことばに従って行使される限り、私はあなたを指導者として認め、その権威に服します。」との意思表示に他なりません。
  このように「上から」の権威は、権威行使に関する「下から」の承認を必要としていて、相互の信頼関係の上に成り立っているのではないでしょうか。また、権威行使に関わる承認に伴う「アカウンタビリティ」(「下への責任」)が生じるのも当然のことと理解できないでしょうか。しかし、これも神へのアカウンタビリティに包含されるものと理解できるでしょう。
  私の疑問は「つばさ」誌一月号の論説における神学的な論旨展開の部分にあって、その適用として注意が喚起されている諸点に関しては、私も賛同の意を表明します。実際的で大切なことが論じられ、示唆されていると判断し、高く評価し心に留めておこうと思っています。しかし、適用の基礎である論旨が崩れたなら、その適用は意味をなさなくなります。その意味で「つばさ」誌の論説における論旨展開の問題点、その疑問点を指摘し、それぞれの教会という現場での牧師の、そして、教団という場での単一の監督の権威に関して、聖書に基づいた理解と正しい行使への道を求めるものです。主の助けを仰ぎつつ。

  V 更なる考慮点:

   A 教会の権威が主張され、強調される背景:

    1 さて16世紀に、宗教改革が旧大陸の各地域・各教会に起こり、プロテスタント諸教会・諸教派が生まれてゆきました。その時代背景は、近代国家の勃興と時を同じくしています。それゆえ、英国国教会とよばれる教会だけでなく、ドイツ・北欧のルッター派諸教会、スイス・オランダを中心とする改革派諸教会も、「国家教会」という特徴をもって、プロテスタント諸教会は誕生を見たことを忘れてはなりません。
    2 教会は「世の光・地の塩」として、周辺社会に大きな影響・感化を与えますが、それと同時に、世にある「戦闘の教会」は、教会が存在する時代の影響・感化から自由ではないのです。近代国家の誕生という時代背景の中での「国家教会」としてのプロテスタント諸教会の発足に際しては、国家・領主、そして、ジェネヴァの場合は市議会、が大きな役割を担っていました。国政・市政との教会の関わりの中で、当時の監督職・牧師職は、国家の官職としての性格を有していましたから、国家と一体化した教会機構から権威の委譲がなされたと主張しても、不思議ではありません。正当かどうかは別として、当然理解できることです。国家というものは、本来教会とは異なる権力機構ですので、、、、。
    3 しかし、この政教一致という時代の潮流の中での教会形成は、決して新約的とは言えませんでした。教皇の教会ではなくなっても、依然として女王の教会であり、市議会の教会となる傾向性・危険性を孕んでいました。その弊害が、教職者の権力主義的傾向、名目だけの信仰者の激増などに見られます。
  こうしたコンテクストの中で発展し、プロテスタント諸教会の中に定着してきた教職制は、当然、教会を権威あるものとして位置付け、その意味付けがなされてきたことを忘れてはなりません。それは聖書的というより時代的であったのです。それゆえ、プロテスタント諸教会においても教理的には「万人祭司」を唱えつつも、実際上は、教職と信徒がある場合は巧妙に、ある所では無意識的に、二分されてきたのです(それぞれの立場・働き・機能を認めることは、二分とは異なることですが、、、)。
    4 政教一致の概念は、近代になって多くの国々・地域で、その弊害の大きさから、(表面的には)捨て去られ、政教分離の原則が多くの(?)近代国家の政策となってきました。しかし、教会を権威あるものとして位置付ける理念は、依然として根強く息づいています。しかも、今度は「民主主義」という時代の衣を身に纏って、その口実の元に、恰も「主権在民」であるかのごとくに「教会」の権威が語られてきています。
  ここに先に引用したヴェーバーが「世俗化した教会」と表現する理由があります。聖書に基づかないで、この世の思想・風潮に影響されたものだからです。
    5 しかし、神の民は、決して啓蒙主義的・人本主義的な原理に基づいた「民主主義」を採用することはありません。旧約のイスラエルの民がそうであったように、神の民はいつの時代にも「神政政治」を主張するのです。その意味でも、神が、唯一の権威の源泉であり、また、御霊にあって、教会に現臨されるキリストにおいて、神は権威の賦与者でもあるのです。教会は、神的権威の受け入れるものであっても、その授与・委託する主体では、決してあり得ないのです。

   B 教会の生きた主:

    1 ここに、ガラテヤ1:1を引用した時に「後に注目します」と書いた点が関わってます。キリストは死者の中から甦えられた「教会の生ける主」で、黙示録に小アジアの7つの教会に対して「右の手に7つの星を持つ方、7つの金の燭台の間を歩く方」と言及されている方は、現代の教会にとっても、キリストの霊によって「燭台の真中に」おられる方です。教会に現臨したもうこの生ける主キリストの事実を忘れる時、教会は間違いなく過ちに陥ります。
    2 さて、新約聖書にみるキリストと教会の関係のイメージは「夫とその妻」、「かしらとそのからだ」、「司令官とその兵卒」などです。
  どのイメージを取り上げても、権威は、「夫」、「かしら」、そして「司令官」の側にあって、「妻」、「からだ」、そして「兵卒」は、その権威に服する立場であって権威を授ける側にはないのです。
    3 教会の生けるかしらである主キリストは、教会にご自身の働き人、即ち、牧師・教師を立てて、聖徒を整えて、奉仕の働きをさせなさるのです。牧師・教師に委ねられたみことばの奉仕は、みことばが   権威あるものであるゆえに、必然的に権威性を帯びています。そして、この権威は、既述のように、教会を建て上げるために、その使命の委託に伴って同時に、主イエスから直接に「牧師・教師に」授けられた権威です。彼らも教会の本質的な一部分ですから、彼らに与えられた権威は、とりもなおさず「教会に」与えられたものとも言えます。しかし、「教会から牧師・教師へ」ではないのです。
    4 父なる神、主イエス、そして、聖霊と、いづれにしても神との直接的な関係を強調すると、必ず「神秘主義!」、「熱狂主義!」というレッテルが貼られ、批判の声があがってきます。それに対しては、ウエスレーが「御霊の確証」の教理において用いた論理がそのまま通用するでしょう。
「しかし、ひとつの極端から他の極端に走る必要があるであろうか。中庸の道を進むこと−この神の賜物を否定することなく、また、神の子たちに与えられているこの偉大な特権を放棄することなく、誤りと熱狂の霊に陥らないよう十分な距離を保つことはできなであろうか」とウエスレーは論じています。伝道職に伴う権威の問題に関しても同様で、一方の極端を恐れるあまり、他方の極端に走ることは戒められなければならないと思います。

   C もう一つの考慮点:

    1 教会が大いなる権威を授けられ、権威を行使することが、語られている箇所が、聖書に確かにあります。一、二の箇所のみを上げておきましょう。
     a「わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの12の部族をさばくのです。」―ルカ22:30
  この聖句の文脈は、「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」(26節)とある文脈です。
     b「かれらはキリストとともに、千年の間、王となる。」―黙示録 20:6―説明の必要はありませんでしょう。これらの箇所は、吟味する迄もなく、すべて終末的な文脈で語られています。
    2 エペソ人への手紙2章6節では、キリストとともに生かされた神の子ら・教会は、キリストとともに「天の所に」座しているとして描かれています。ここには確かに、教会の尊厳・威厳に満ちた姿があります。しかし、この箇所の文脈における中心的な思想は、2:8に見るように「恵み」です。
  主イエスは、あのナザレの会堂で予言者イザヤの書から引用して「、、、主の恵みの年を告げ知らせるために。」と語られました。しかし、指摘されているように、その後に続くイザヤのことば「われわれの神の復讐の日を告げ、、」は引用されませんでした。意味なくしてそうされたのではありません。
  教会の持つ二面性がここに暗示されています。今のアイオーンでは、教会は、福音の時代にあってその使命を果たしています。しかし、終末の時代には、教会は、権威を持ってこの世を裁くのです。
  この時代では、主イエスが地上でそうであられたように、教会は謙卑の姿をまといます。しかし、やがて来る時代には、かしらであるキリストがそうであるように、教会も権威をもってこの世に臨みます。エペソ人への手紙1章の描写も、2章7節に「それは、あとに来る世々において、、、」とあるように終末的なコンテクストと無関係ではありません。この箇所は教会の全貌を見つめています。
    3 私たちは、「すでに到来した神の国」の祝福をいま味わっているとともに、「なお来るべき神の国」を待ち望んで「御国を来らせたまえ」と祈っていることを忘れてはなりません。教会に関わることを考察する時、現在の「アイオーン」に既に成就した面と、来るべき時代においてのみ成就する面を、混同してはならないのです。聖徒たち、即ち、教会が権力を振るうのは、来るべき世においてです。そして、それは世に対してなのです。
    4世紀の神学者アウグスチヌスは、大著「神の国」を著わしたことで有名ですが、彼は、この書物で「教会」と「神の国」を同一視して描写していると言われています。そうであれば、現在の福音時代における教会の様相とは異なった面が、そこに出て来ることになるでしょう。終末時代の教会のあり方が、福音の時代である現在の教会の中に投影され、そこに混同・混乱が生じてくるのは必然的といえます。
  終末論は「千年期(ミレニアム)」に関する理解が、「前・後・無千年期」説と分かれていて複雑ですので、これ以上の深入りはしないでおきます。

   D 最後に:ひとりの神学者からの引用:

  「万一、共同体の権威や普遍的司祭職の権威が、単に指導層の役務職からのみ引き出されるようなことでもあれば、その場合、それは確かに教会を非聖書的に聖職者中心的なものにすることであろう。他方万一、指導者層の役務職の権威が単に共同体の権威や普遍的司祭職の権威からだけ引き出されるとされるようなことであれば、この場合も同様に教会を非聖書的に世俗化することであると言える。新約聖書に従えば教会内のすべての権威は聖霊の力によって教会の主から由来する。、、、」
  この文の著者は、多くの点において私たちと立場の異なるローマ・カトリック教会の神学者の一人です。ここでも「指導者層・共同体」という区分を立てて書いています。その点に関しては、私たちは、聖書に「聖徒たちと監督、執事たち」とありますので、「信仰者と教職者」の双方を含めて「共同体」・「教会」とすべきと思います。しかし、この学者が「新約聖書に従えば教会内のすべての権威は聖霊の力によって教会の主から由来する。」と明言していることには、注意、そして、敬意をはらうべきであり、また、信徒と教職者の関係を、この事実を軸にして、正しくバランスを取って、以下のように理解していることを高く評価したいいと思います。
  「、、、指導者たちも共同体も、互いに連帯していると同時に区別されたものとして理解されなければならない。一方では、個人としてのすべてのキリスト者にはそれぞれ御言葉を宣言し、かつ秘蹟にあずかるための全般的な力が与えられているということ、他方では、共同体への公の本来の奉仕職へ、つまり御言葉の宣言、秘蹟の執行、共同体のメンバーに対する多様な世話などに−正常な場合は按手あるいは叙階によって−召されている個人が持っている特殊な権威、これら両者は全く別のことである。」

    教団、即ち、複数の群れの監督としての権威は、単一の地域教会の監督・牧者の権威を土台としていて、両者を切り離して考える訳にはゆかないと思います。そもそも、前者は、後者からの歴史的な展開の結果なのですから。教団の監督としての権限は、地域教会における牧師の神から賦与された教職権・教導権を土台として、それを拡大したものとしてみるべきでしょう。群れの監督を、地域教会の牧師経験者以外から、即ち、教職権を持たない信徒から選ぶことはないということ自体が、その理解を支持しています。監督の権限は、教会から委託されたのではなく、主である神から賦与された権限を、拡大解釈、または、特定の状況に適応したものと考えるべきでしょう。もし、万人祭司が意味するところのルッターの1520年代の理解に立てば、信徒が教団の監督として選ばれても不思議ではないことになります。

  こうした論議を、新しく聖書を深く学ぶ機会と捉えることができたら幸いです。

 C.C.:М・F師、М・U師

■  神学小論文−そのW:伝道職の権威:「どこから、あなたはその権威を得ましたか」

■  神学小論文−そのY:「教職と信徒」

■  神学小論文−そのZ:「私たちの教会―教会論:その制度面から」

■  神学小論文−その[:「教会の権威を巡って」―再び―

■  神学小論文−その\:「工事中」

■  神学小論文−その]:「監督政体の理解」

.                                   聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


Copy right 2004 PZH
All rights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ フィリップのホーム・ページにゆく