2001/06/15 執筆
■ 神学小論文−そのX:「キリストの使節としての務めに任じられて」
■ 神学小論文−そのY:「教職と信徒」
■ 神学小論文−そのZ:「私たちの教会―教会論:その制度面から」
■ 神学小論文−その\:「工事中」
■ 神学小論文−その]:「監督政体の理解」
2001/06/15 執筆
■ 神学小論文−そのX:「キリストの使節としての務めに任じられて」
■ 神学小論文−そのY:「教職と信徒」
■ 神学小論文−そのZ:「私たちの教会―教会論:その制度面から」
■ 神学小論文−その\:「工事中」
■ 神学小論文−その]:「監督政体の理解」
. 聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供
「再び教会の権威を巡って」
宗教改革以前、ローマ・カトリック教会においては「教会の権威」が主張されていました。そして、それは「教皇の権威」に他なりませんでした。ローマ・カトリックの理解では、教会は教皇を頂点にした司教団によって構成されているからです。
プロテスタントの宗教改革は、それを「聖書の権威」にするよう、教会を正しく引き戻しました。そして、ここに「聖書の権威」という時、ある人々が批判するように、ヴァチカン公国にあって君臨するポープに代わって「紙の法王」を産み出したのではなく、聖書に証しされた「主イエスの権威」への復帰を意味しています。
さて過日の論議において、М・F 師は「教会の権威」を強調していますが、それは宗教改革以前の体制への逆戻りだということにお気づきでしょうか。もっとも М・F 師は「ローマ・カトリック教会においては『教会とは司教団』のことであり、私の言う『教会は信じる者の共同体』であって、宗教改革以前への逆行ではない」と説明されるでしょう。しかし、「司教団」であるにしても「信徒の共同体」であるにしても、キリスト以外のものに権威を帰したことにおいて、いづれにしても同じ過ちに陥っているのではないでしょうか。一方の極端を嫌って、もう一方の極端に走ったように思えます。
さて、宗教改革によって「聖書の権威」、即ち「キリストの権威」が主張されましたが、宗教改革以降のプロテスタンティズムは、聖霊・「もう一人の助け主」の教理を十分に展開してきませんでした。
ウエスレーにおいて聖霊と教会の関係が日の目を見たと言えないこともありません。スターキーはその著書「ウエスレーの聖霊の神学」において、ウエスレーが、教会を以下の三点から定義する必要を論じたと記しています。
即ち、
・ ローマ・カトリック的な「使徒たちとの交わりの一致を堅持すること」−共同体的連続性の強調
・ プロテスタント的な「メッセージに固執すること」―古典的プロテスタントにおける聖書の権威
そして・それに加えて、教会の第三の側面、ペンテコステ的と言われる「聖霊の共同体」としての教会の理解です。
この第三の視点が、宗教改革以降の教会、そして、現代の多くの教会からも欠如しています。
この第三の視点が欠如する時、権威を巡っての論議は異なった方向に行くのは必然的です。キリストは、聖霊にあって教会に現臨し、教会を今なお御手のうちに保っておられる教会の主、教会にあって唯一、その権限をそのからだの肢々に分け与えることのできるお方という意識・認識が、希薄・薄弱なのが問題です。
勿論、ウエスレーの下にあって最初の信徒説教者となったマックスウェルが、後に主観主義に走り、ウエスレーと袂を別つなど、弊害がないわけではありませんでしょう。特に私たちの時代、カリスマ派の活動が顕著な時、この主観主義に陥る危険性はウエスレーの時代とは比較にならないほど大です。
ですから「御霊の自由」を一方で主張しつつ、頑なと思えるまでに「聖書の規範性」を強調するのです。しかし、主観主義を警戒するあまり、御霊の自由な働きに制約を課すとしたら、それも誤りであり、その誤りは「体制主義の誤り」と、言えないでしょうか。