. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデ以外による詩篇」 に学ぶ : 第1講
■ 今日の「井戸掘り」

    「幸いなことよ」              詩篇1:1〜6 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「幸いなことよ」で始まるこの詩篇第一篇、詩篇が現在の形に編集された時に、詩篇全体の序として、ここに置かれたものと考えられます。詩篇は、どうしたら、私たちが幸いな生涯を辿ることができるかを詠っているものと理解できましょう。

   しかし、ここに描かれている幸いは、何と世の中で考えられている幸いとは異なることでしょうか。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかったその人」。聖書、特に詩篇が語る幸いは、その倫理性にあります。ことばを変えるならば、それは創造主である神との関係に関わっているのです。それですから、そこに倫理性が生じてきます。

   聖書は、その人の神との関係、また、その人の道徳と無関係な、単に物質的なものの豊かさのみをもって幸い、とする思想を教えません。この世の富との関係がどうあっても、その人が神を畏れかしこんで、聖く歩む時、その人は「幸いな人」とされます。

   確かに、本人が幸いと感じていることも大切でしょう。しかし、それ以上に重要なのは、その人が神に受け入れられているかどうか、と言う点です。創造主である神に拒絶され、受け入れられない生涯を送っているとしたなら、どのようにこの世の富に恵まれていたとしても、どうしてその人は幸いと言えますでしょうか。

   神は、聖く歩む人々を受け入れ、祝福なさいます。聖書の教える「幸い」とは、「Happiness」(偶然の産物)ではなく「Blessedness」(神に祝福されること)なのです。

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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