. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第1講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「主の霊が、その日以来、ダビデの上に激しく下った。、、、主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊がかれをおびえさせた。」. . . . . サムエル記第一・16:11〜14 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. . いよいよ、後にイスラエルの王となったダビデの登場です。「ダビデの生涯に学ぶ」の第1講として、この聖書の箇所から「人は本来、霊的な存在なのだ」ということを学びます。現代人、特に、文明国のコンクリート・ジャングルに囲まれて生きている私たちは、五感で捉えられる物質的な世界のことしか意識にありません。それですから「主の霊が、、、下った。」「主の霊は、、、離れた。」と言うような聖書の表現は理解することが難しいのです。しかし、人は本来そのように創造されていて「霊に満たされて、、、」というレベルで生きるのが、真の人間らしい生き方といえます。

. . ここで、心に留めておくべきことがひつとつあります。すなわち、ダビデが生きていた旧約時代と私たちが生かされている新約の時代の相違です。旧約の時代には「主の霊に満たされる」という経験は、限られた、主が選ばれた人に限定された経験でした。サウルやダビデは、正にそのような主の選びの器でした。しかし、新約時代の恵みは、特定の人々だけではなく、すべての人が「主の霊を与えられ、、、また、満たされる」と言う恵みに与ることができるということです。預言者ヨエルは、そのような時代の到来を予見して、以下のように言っています。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(使徒の働き2:17、18、ヨエル2:28)

. . 近年における「脳死」(クリック)という概念は、人が単なる物質的存在ではないことを示しています。心臓の停止によって終わる肉体のいのちの他に、それぞれの分野によって「意識」、「たましい」、「霊」など様々に呼ばれてはいるものの、人の本質的な部分は、霊的と言えるものであることを示しています。

今日一日、「主の霊に満たされ」、主のみこころを教えられて、霊的な生涯を生きる一日でありますように !

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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