2004年05月12日:「行い」について・パウロとヤコブの見解
Question/0007:
こんにちは、お久しぶりです。今回は「信仰の義」と「行いの義」の事です。ローマ3:28に「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」とかいてあります。他にも、ローマ4:5と、ローマ3:26です。「イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」とかいてありますが、ヤコブの手紙2:24には「人は行いによって義と認められのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう」とあります。これは一見矛盾するかのようですがどう解釈するのでしょうか。すいませんけど教えてください、お願いします。
Answer/0007:
■ 「行い」についてのパウロとヤコブとの教えを理解するために、以下のことを心に留めてください。
・ 1.パウロは「信仰による義」について書き、ヤコブは「行いによる義」について語っている、と考えますと、矛盾があるように思えます。
・ 2.そこで、パウロが書いているのは「律法による行い」であり、ヤコブが論じているのは「信仰による行い」であると考えてください。そして、パウロは「律法による行いは、救いのために何の意味もない。それによっては義と認められない、義とされない」と語っているのです。一方、ヤコブは「信仰による行いがなかったなら、その信仰は無意味である」といっているのです。それですから、この両者の間には矛盾はありません。
・ 3.パウロは、義と認められ、義とされる「方法、すなわち、信仰」について語っており、ヤコブは義とされた生涯の「結実、すなわち、行い」について語っているのです。
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