「インマヌエル・ウエスレアン
連盟とわたし」

IWF50周年記念誌のために


  「IWF」・2つの宣教団体とインマヌエル綜合伝道団との日本における協力関係が、私にとって一層意味を持ってきたのは、神学院卒業後、蔦田二雄初代総理の牧会される丸の内教会で2年間、副牧師としての奉仕し、その後、第2次宣教留学生として蔦田公義師ともども中央インド・ヨトモールにあったUBS(Union Biblical Seminary)に遣わされ、2年後に帰国してからのことである。改めて宣教留学生としてではなく、村落伝道に携わる宣教師としてインドへの入国ヴィザを申請していたが、その交付を拒否されるという事態に直面した。その時、IWFの交わりを通してもうひとつの宣教地・カリブ海域ジャマイカでの奉仕の可能性が示されたのである。インドより帰国後、結婚生活も始まって、インドへのヴィザ交付を待ちながら開拓一年目の高知教会において伝道・教会形成の働きについていた時に、ヴィザ交付は不可との結果が判明した。
  そのニュースを耳にして間もなく高知教会に2人の宣教師が訪れてこられた。日本に赴任して間もないウエスレアン宣教団のベリー・ロス博士とワールド・ゴスペル・ミッションのリチャード・バルカー宣教師であった。集会の後、高知城を案内し、城内の苔むした石垣に沿って歩いている時、突然、ロス宣教師が「フィリップ、聞いているか。」と語りかけてこられた。「インドへのヴィザが拒否されたそうだが、北米ウエスレアン教会の宣教地のひとつ、ジャマイカに行くことをどう思う。」とのことである。
  インドへのヴィザの拒否という事態に遭って、当面インド行きは主のみこころではないことが判明していたので「ジャマイカに道が開かれるなら喜んで応じます。」と応答したことを記憶している。これがIGMの国外宣教の働きにおいて、インドについで第2の宣教地・ジャマイカへの道が開かれた経緯である。翌年には、同様にインドへのヴィザ交付を拒否された田中敬康・(故)泰子師がWGMの宣教地ケニアに赴くことになった。インドへのヴィザ拒否が、カリブ海域、そして、アフリカへとIGMの宣教活動が拡大してゆく契機となった。このようにIGMにとって宣教の拡大は、日本において、在日宣教団との間に「IWF」という協力関係があったことに密接に結びついている。
  私たちにジャマイカ行の話しがあったのは1968年のことで、当時、北米ウエスレアン教会では宣教の状況に鑑みて、北米教会が宣教地の教会を指導・支配するという体制から、ウエスレアン・ワールド・フェローシップ(WWF)という構想をもって、宣教地の、成熟したと判断される教会を独立させ、対等の関係での交わり・友好関係を維持してゆこうという方針を打ち出したところであった。英語圏カリブ海域のウエスレアン・ホーリネス教会、そして、フィリピンのウエスレアン教会が、独立した政体をもつ資格を得るのに最短距離にあった。翌1969年、私たちは北米ウエスレアン教会・世界宣教局との関係において、ジャマイカへ、この地域初めての日本人宣教師として赴任した。ジャマイカには日本大使館は未だなく、在住する日本人も皆無の時代で、今とは違い、日本人にとって知られていない遠い国であった。

  1952年に結ばれた日本におけるインマヌエル綜合伝道団とアメリカのウエスレアン宣教団との連盟関係・IWF(後に、WGMがこの連盟に加わった)は、ここに日本という枠を越えて、北米のウエスレアン教会を介して、世界のほかの地域へ広がりを見せたのである。「拡大IWF」といってもよいであろう。この拡大IWFは、カリブ海域ウエスレアン・ホーリネス諸教会が、WWF(ウエスレアン世界連盟)の形成とともに、その暫定的な地域単位教会(A General Conference)となり、北米ウエスレアン教会から独立した体制へと移行するようになるに及んで、北米ウエスレアン教会の宣教地であった国々・地域の諸教会とIGM宣教師との関係に変化が生じた。IGMより派遣された宣教師たちは:
     ・ 生活費・活動費などの経済、また、宣教方針に関しては、IGMに、
     ・ 宣教地における奉仕の形態、宣教活動における責任に関しては、現地の地域単位教会に、
     ・ そして、道義的な責任としては、協力して労するウエスレアン宣教師たちの属する北米ウエスレアン教会に、
  というように、三重の関係の中にあって奉仕するようになったのである。
  IGMと北米ウエスレアン教会世界宣教局という2団体だけの関係がより複雑な関係となり、しかも、北米ウエスレアン教会は背後に一歩退いた関係として変化してきた。
  こうした変化の起こり行く中で、筆者は、第1期3年間をジャマイカにおいて奉仕したが、その最後の年に、当時TBI(Torrington Bible Institute、現CWC、Caribbean Wesleyan College)学長J・ヴァ−ミリヤ師が健康を打たれ、帰国を余儀なくされた。ジャマイカを初めとしてカリブ海域には、その穴を埋める後任が見当たらず、カリブ海域ウエスレアン・ホーリネス教会総理W・A・テーラー師は、筆者に「学長として奉仕してもらえないか」と打診して来られたのである。自立自給教会としての体制を整えつつあった時期でもあったが、宣教師としての奉仕第一期目の筆者に指名があるほど、宣教地はリーダーシップを取る人材に不足していた。また、誇ってはならないが、第一期三年足らずの奉仕を通して、現地教会指導者とのよき信頼関係を築き上げることができていたのである。
  しかし、自立自給への動きに鑑みて、学長としての務めを直ぐに執ることを固辞し、霊的で、説教の賜物を持ったジャマイカ人医師を名誉学長としてたて、筆者は学長代行として一年間実務に当たり、第一期三年の奉仕を締括り帰国した。一年後ジャマイカに戻って第二期の奉仕を開始する際には、適切な器が新しい学長として選ばれ、その人物の下で奉仕できるよう期待を抱いての帰国であった。   一年後、第二期の奉仕のためにジャマイカに赴いたが、カリブ海域には学長となる適切な人材が見当たらず、そして、名誉学長として押したS・ウイルソン医師も、献身してアメリカに渡航、アズベリー・セミナリーで学ぶこととなり、他の選択肢がないまま、私がJWBC学長として(TBIを改称、Jamaica Wesleyan Bible Collegeとなった)、ジャマイカにおける第二期の奉仕を開始した。そして、その後開催されたカリブ海域の総会では、JWBC学長という立場にあったので、ウエスレアン・ホーリネス教会の教会籍がないにも拘らず、総会代議員の議席を与えられ、WWF内の新組織としての条例制定の審議にも加わった。
こうした重たい責任を委ねられた立場にあったが、別に、その関係を成文化した文書があった訳ではない。カリブ海域ウエスレアン教会指導者、同労者である教職者、信徒の兄弟姉妹方、そして更に、北米ウエスレアン教会の宣教師たち、との麗しい信頼関係の下にその奉仕が受け入れられ、認められ、感謝されたのである。異文化圏から行った宣教師にとっては、宣教地の教会・クリスチャンのやり方、考え方には、異と見える事柄も多い。単に文化の相違からくる違和感としては片付けられない問題もある。果たして聖書に光において妥当かどうかを問いたくなる問題もない訳ではない。
  しかし、一方的に批判していたのでは、現地の同労者、兄弟姉妹たちのこころを固くするだけである。批判すべき点は批判すべき点として心に留めつつ、あらゆる協力を惜しまない姿勢が大切である。それによって、人々は異国からの宣教師を受け入れるようになり、また、そのことばに耳を傾けるようになる。忍耐と知恵を要する働きであるが、現地のクリスチャン、特に、批判の対象となりやすい宣教地の指導者たちとの信頼関係・友好関係を築くことが、宣教師として第一にすべきことなのである。彼らのこころを捉えずには、働きは一歩も進まない。また、指導者層を無視して、宣教師たちが現地のクリスチャンたちを動かして、何かを始めたなら、教会に混乱を招き、時には、分裂を引き起こす事態を招致しかねない。
  経済面に関しては、私たちのジャマイカ派遣に際して、IGMと北米ウエスレアン教会・世界宣教局との合意事項として、日本人宣教師の生活費・活動費はIGM側の負担、宣教師の住まいはウエスレアンの世界宣教局が責任を持つということが決められていた。初代総理・国外宣教局長は、それを文章化するということはなさらなかったが特に問題はなかった。お互いの信頼関係が崩れることがなかったからである。
  私たちがジャマイカに携えて行ったのは主イエスの福音であり、自立自給に関わるメッセージでもあった。世界の宣教地で当時課題となっていたのが、従来の宣教団体への依存的体質を改めて現地教会を自立自給教会とするとのことであったからである。日本におけるIGMの模範を示すことがひとつの使命と考えられた。北米ウエスレアン教会からジャマイカ初めカリブ海域の地域単位教会に献げられる献金は削減される中で、ジャマイカのウエスレアン・ホーリネス教会としては経済的に苦しい時期であったが、北米諸教会の肩代わりを日本の教会に求めようとする動きは起こらなかった。
  私たちのメッセージは明確で、私たちの協力はジャマイカの諸教会が自立自給教会へと脱皮するためのものであることを、お互いが(ジャマイカの教会指導者たち、アメリカの宣教師たち、そして、私たち日本の宣教師も)認識していた。財政的に厳しい時期を通過してはいたが、ジャマイカの教会、そして、その指導者たちは、彼らを励まし、自立自給に向けて挑戦を投げ掛けはするものの、経済的支援に関しては、何の手も差し伸べないという姿勢の、これまでのアメリカからの宣教師とは異なった対応を見せる遠い異国からの宣教師を、排斥・軽蔑するどころか今までになかった動きを見せてきたのである。すなわち、日本人宣教師のチャレンジに応じて、自分たちの神学校をサポートするために、貧しい中から神学校への献金を寄せるようになってきた。また、ジャマイカの教会の将来のために、神学校において無給で教鞭をとることを可とする教役者も興されてきた。彼らは、宣教団体・宣教師依存の体質から徐々にではあったが労苦しつつ脱皮しようとしていた。
  私たちは、ジャマイカにあって、IGMの宣教師としてウエスレアンの働きに協力しているという意識が強かった。日本におけるIWFの関係がそのモデル・背景となっていて、それぞれ独立した働きであることを認め合ったうえでの協力関係と捉えていた。同じウエスレアンの宣教地、パプア・ニューギニアのケースは少々異なるように見受けられた。パプア・ニューギニアが北米ウエスレアン教会の世界宣教局の指導下にあって、カリブ海域のような(暫定的ではあっても)地域単位教会のステータス(立場)を持つに至っていなかったことに起因するのかも知れない。IGMから派遣された相原雄二・(故)聖子宣教師たちは、ウエスレアン宣教団の一員として行動し、北米ウエスレアン教会の一員としての意識が私たちよりも強かったように思える。
  ジャマイカでは、私たちから(故)大島登・久美宣教師、そして、現在の植木英次・昌恵宣教師と宣教師の代替わりがあっても、最初の合意に基づいて、住居はウエスレアン側の責任で、生活費・活動費はIGM側でという関係が続けられてきている。光熱費こそ日本側で支払いこそすれ、その他の住居に関するコストは今に至るまで負ったことはない。私たちの赴任直後、私たち日本人宣教師のために(聖書学校の教師の住まいという名目で)建てられた宣教師館であるが、その建築に要した費用は一切ウエスレアン教会が負担した。
  しかし、この度ハイチに根本律子医療宣教師が派遣されたが、その赴任に先立って、先の国外宣教局長・竿代照夫師と、ウエスレアン宣教団との間に交わされた合意文書では、IGM側がIGM派遣宣教師の生活費・活動費を負担するだけではなく、ウエスレアン宣教団派遣の宣教師並みに、ハイチのウエスレアン宣教団HQ(本部)を支える費用も分担する内容と聞いている。多分、IGMの国外宣教の働きが第三期に入ったことを意味するのであろう。従来のように、ただ宣教師を派遣し、その生活費・活動費を負担するのみではなく、宣教活動の維持に必要とする多岐にわたる費用も応分に分担することが求められている。
  締め括りに、IWFにとって今大切なのは、それぞれの加盟団体=北米ウエスレアン、WGM、そして、IGM=においてリーダーシップの交代が急速に進む中で、それぞれのリーダーたちの間での人間関係を深めてゆくとのことを指摘したい。そのことなしには信頼関係に基づく協力体制は機能しないように思える。
  現在、筆者は、R・バルカー宣教師ご夫妻の帰国に伴って、日本にウエスレアン宣教団の宣教師が居なくなった現状を受け、宗教法人としてのウエスレアン宣教団の責任役員として、この国でのウエスレアン宣教団の活動が継続されるよう願いつつ、無報酬でその務めを果たしていることをも付言して筆をおく。

■  神学小論文 V:その1:「21世紀に踏み込んでの国外宣教局」

■  神学小論文 V:その2:「21世紀に向けての   」

■  神学小論文 V:その4:「宣教師の召命」

■  神学小論文 U−その6:「教職と信徒」

■  神学小論文 U−その7:「私たちの教会―教会論:その制度面から」

■  神学小論文 U−その8:「再び、教会の権威を巡って」

■  神学小論文 U−その9:「監督政体の理解」

■  神学小論文 U−その10:「監督政体について」

■  神学小論文 U−その11:「祝祷について」

.                                   聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


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