「日本人による世界宣教と子女教育の課題」
日本人としてのアイデンティティを考えて


序 文

   去る8月24日の国外宣教局々員会において、帰国中の各宣教師が教報2段分を担当、毎月執筆するように決定された。内容は報告、祷告課題、宣教論等とのことである。祈り思索した結果、私は冒頭の題目を先ず取り上げてこの問題に対する私見を明らかにし、宣教の問題と取り組んでおられる多くのIGM諸師のご批判を仰ごうと考えた。また、信徒の中にも信仰者として 教育の分野に携わっておられ、よきご意見をお持ちの方も居られることと期 待している。

   子女教育の問題をこの度取り上げたのは、この問題を宣教の課題の第一と 考えたからではない。それが当面の課題であり、他の宣教師方の原稿との関 連を考慮したからである。

現 状 の 認 識

   さて先ず、現状を直視し、理解することから始めるのが妥当であろう。私たちがジャマイカに宣教師として始めて赴いた時(1969年)、長女は1才半、長男は4か月であり、3か年の第1期を終えて帰国、1年間を日本に過ごして再赴任した時(1973年)が、長女5才半、長男4才半、そして帰国中に生まれた次男が1才の時点であった。この度第2期、4年の筈を1年延長して、5年間ジャマイカで過ごし、本年帰国したわけで、長女が10才半(5年生)、長男が9才半(4年生)、次男が6才(来春就学)となっていた。

 この三人の日本語習得度を観察するに、
 ・ 個人個人の言語習得能力の差ということと共に、
 ・ どの年令を時に、渡航、また、日本に帰国、滞在していたか、
がそれに大きな影響を及ぼしているように思える。

   彼ら3人とも、日本における就学経験は、幼稚園を含めて、全然ない。また、先回帰国時の生活環境はおとなに囲まれた生活環境で、同年令の遊び相 手は、姉弟の他、一、二しかなかったことの考慮されなければならない。ジャマイカにあっては、最後の一年間だけは、比較的近くに政府関係のお仕事で、子ども連れ(8才、5才の2女児)の日本人家族が来られ、私たちのこどもの遊び相手が与えられた。

   今回帰国後、帰国子女学級に入学させるに際して、面接の折り「お姉さんは九年間外国に居たわりに、日本がよく分かり、よく答えられますね、何か特別な努力でもなさいましたか」と尋ねられたが、両親にとり、彼らの日本語習得が著しく遅れていることが課題であると共に、今程度でも、日本語を理解し、話せること自体に不思議な思いさえするのである。
 ジャマイカ滞在中、家庭にあっては極力、日本語を話す様にしたものの、 ある時は一年近くにわたって、三度三度の食事にアメリカ人宣教師を迎えるという期間も あり、第2期に学長という責任をおわされてからは、教師、学生、他の来客 が頻繁に訪れてき、家庭での会話も英語でという時が多かったのである。

   第2期着任と共に上二人(5才半と4才半)はプレプ・スク−ルと呼ばれ る4才−11才児対象の英語の学校に入学した。教師3、児童数60名の、 「小」学校である。

   9月が新学年度の開始で、7月(1973年)ジャマイカ渡航より、それ までの6か月余の期間は長女の日本語習得に大変貴重であった。毎朝時を定 めて、母親と一対一で向き合って、「先生、お早ようございます」との挨拶 に始まって、日本語の授業が持たれたからである。

   しかし、このような形体の教育は低学年であっても困難であることが判っ た。

 ・ 母子という関係もさることながら、
 ・ 家事と奉仕の合間に、このような「学校」を持ち続けることは不可能 に近かった。生徒は一人でも、30人いるのとどうようの時間を要したから である。ジャマイカでは人件費が高く、家事の為、日々人を雇うことはでき なかった。

   他の国では、人件費の比較的安いこと、また、「雑用しかできない人間が 余っている時、宣教師夫人が家事に時を奪われて、宣教師夫人にしかできな い仕事をなす時を失うのはどうかと思う」との先輩宣教師のことばに従い、 現地人の家事手伝いを得たようである。

 ・ 母子という一対一の教育は、更に大きな欠点を有している。即ち、子 どもとして集団の中に入って、社会性を身につけるということが皆無だから である。

 ・ 更に、学びの為も、他の同年令の子供から挑戦をうけることもない。
 ・ 「初期の宣教師達の場合、多く、母親が自らの子女の教育にあたった」 とのことがしばしば言われる。しかし、忘れてならないことは、その当時の 一般教育のレベルは、現代(殊に日本における)のレベルと比べものになら ず、教育が子ども達の生涯において占める重要度も現代ほどではなかった、 とのことである。

   時間的、能力的課題を乗り越え得たとしても、母親がその子女の教育に当 たり得るのは、ごく限定された初期の教育だけであろう。

   このような事情・理由は私たちが、2人の子供たちを英語の学校に入学さ せるのを余儀なくしたのである。日本人学校はジャマイカにはなかった。

   さて、通学を開始し、上2人の子供のことばが急速に英語に変わっていっ たのは当然であった。両親との会話は日本語で、兄弟同志、友人との会話は 英語で、といった状況が出現した。下の子のことばは日英混ざったものとな った。即ち、日本語の文章に英語の単語が入り、英文に日本語が入るといっ た具合である。

   子ども達はその行動半径が広がると共に、学校で学んだ英語の他に一般の ジャマイカ人の用いる「パトワ」(ここではジャマイカ式英語としておこう) をも語るようになった。その習得は正式な英語より、ずっと容易なようであ った。

   子ども達の通学したプレプ・スク−ルは何千坪にもなるその地方の大地主 (英国人)の牧場内にあり、二棟三教室からなっている。柵を破ってしばし ば、牛、馬が建物近くにまで迷い込むこともあり、周囲は一面の緑である。 学校が其処にあることを知らない人々には一般の家屋、または、農機具の修 理場としか見られないであろう。

   英夫人の校長を含めて教師3人、児童数60名からなり、児童は3級に編 成されている。上の級は、また、年令、能力に応じてグル−プに分けられて いたようである。

   自ら2児の母親であり、また教師であられたベ−カ−夫人(英国人)が、ご自 分の娘さん方の教育を理由に、精糖工場で働くご主人をジャマイカに残して 英国に帰られてからは、正規の教師は校長先生一人となった。このシェント ン夫人は個別的に児童に接し、子ども達に学ぶべきペ−ジを指示し、その間 にもう一人の子を木陰に呼んで読み方を指導するといった具合である。

   ある時には年上の子供と年下の子供が組になり、一冊の本を手にして、上 級性が読むのに下級生が従ってゆくというほほえましい光景も目にした。日 本の学校に見る授業風景とは大分異なっている。勿論、このような教育方法 を一概に悪いと言っているのではない。

   英語による読み書き、それに算数に重点がおかれている。算数はパイント、 クオ−ト、ガロンと度量衡が日本とは異なっており、九九も勿論英語である。 理科と言えば実験器具は一切なく、日本人が田植えをして見せたのが唯一の 実験であろうか。そして、そのたんぼの広さは一メ−トル四方にも及ばなか った。

   体育といえば木曜日の午後、半ドンで店を閉めて駆けつけてきた商店主の 小父さんが、太った腹を突き出してサッカ−を指導するという具合で正式な 体育の教官は勿論いない。

   2人、後には3人の子供をこのような学校に送りつつ、私たちの考えてい たことは、彼らがこの学校で、学校生活を通してでしか学び得ないことを学 び取る様に、日本語の学びは英語の学びと平行して、通信教育の教材を用い て行うとのことであった。しかし、かって数多くの宣教師達によってなされ ていた働きを、彼らが去った後、残された者達だけで継続しつつ、両親とし て、子ども達の教育に、十分の時間をとることは困難であった。子どもの為 に費やす時間は平行的に行おうとした日本語の学習の代わりに、英語の学校 で学んできた事柄を理解させ、宿題をみてやることに費やされねばならなか った。

   即ち、日本語の学習は、9月より翌年7月までの期間をのぞいては、日常 の簡単な会話に限定され、日本からの日本語通信教育の教材は手のつけられ ないまま積み上がっていった。教材の内容そのものにも、日本を全然と言っ ていいほど知らない子供たちには、理解できない内容が多かったのである。  彼らにとり「第一国語」は英語となりつつあった。

欧 米 の 先 輩 宣 教 師 た ち

   欧米の先輩宣教師達も、宣教地で、家庭では母国語を用い、現地人と接す るには現地語でといった経験を通っておられる。従ってMK(宣教師子女、 ミッショナリ−・キッズの略)は大体2か国語を耳にする環境におかれてい た。しかし、彼ら欧米宣教師の場合、こと学校教育に関する限り、多くは母 国語での教育に一貫してきたといえよう。

   アレキサンダ−大帝の世界征服が当時の全世界をギリシャ語圏に変えてし まったほどの規模ではないにしても、7つの海を支配した大英帝国の遺した ものは世界各地に存する「英語圏」であった。過去1、2世代に亘る英米 宣教師たちの活躍はこの背景をもって行われたことを見逃してはならない。

   彼らのMK教育における問題は、多くは本国における教育と、宣教地にお ける教育との「格差」の問題であった。[また、所謂カルチャ−・ショック の問題が指摘されている]。日本人宣教師の場合、この「格差」の問題は二 の次であって、課題の中心にはない。日本語の特殊性の故に、これ以上の、 更に大きな問題が横たわっているのである。

   それはさておき、「格差」の問題はあるにせよ、MK教育を母国語で行う ため、欧米の各宣教団体は幾つかの対策・手段を講じている。
 ・ 彼らはいわゆる宣教基地を建て上げ、、複数家族が同じ構内に英語社 会を築き上げた。宣教地にあって別世界とも言うべき、こうした宣教基地の 存在は批判の的ともなろう。しかし、MK教育の観点からは彼らの母国語教 育を可能とする一方策であった。こうした宣教の基地にはMKの教育に専任 して当たる宣教師が派遣されることが多かった。

   この度ジャマイカよりの帰途、マイアミでおたずねしたリントン夫人(元 在日ウエスレヤン宣教師、ロス師夫人の実姉)が夫君ともども、2子女の英 語教育に専門的に従事される為であった。リントン兄姉はアメリカにあって は各々、学校の教師であられる。
 ・ そもそも、多くの宣教地においては英語教育が宣教の手段であった。 諸宣教団体は巨額の資金と有能な人材とを惜しげなく投入して、いわゆる「 ミッション・スク−ル」または「クリスチャン・アカデミ−」といった学校 を設立した。こうした学校の多くはレベルの高い教育を宣教師子女の母国語 で施したのである。宣教地の指導者となるべき青年層の教化ということと共 にMKもまた宣教地にあって母国語で程度の高い教育を受け得た訳である。  英国のボ−デイング・スク−ル(全寮制の学校)、米国のアメリカン・ス ク−ルなくしては、英米人による宣教活動は理解できない。

   日本の現在の経済力を背景とした日本人学校が、英米のもの程度に世界中 に広がる可能性があるであろうか。

   ある方は「何故、日本語教育に固執するのか、英語教育で十分ではないか」 と言われるかもしれない。この問題は後に論じよう。

幾 つ か の 可 能 性

   英語、即ち、母国語で子女教育にあたり得る英米の宣教師たちと異なり、 日本人学校の存する地域が限られているため、日本人宣教師にとってはジャ マイカのみならず、他の宣教地に於いても、
 ・ 日本語で一貫して教育するという道は見出し得ない。ここに日本人に よる世界宣教の特異な課題が存するわけである。世界の幾つかの都市に全日 制、または、補習制日本人学校がある。都市に集中している外務省、商社関 係の人々には可成の助けとなろう。それでも尚、彼らは問題意識を持ってい るのである。その問題は主に帰国後の問題のようであるが、、、。しかし、 IGMの宣教師子女にとってはその利用度は高くない。否、皆無といえよう。

   そこで現実の問題として、英語圏に労する日本人宣教師の子女教育に関し て、次のごとき幾つかの方法を検討しなければならない。多くの国において 英語の他に現地語が用いられているが、これは宣教の媒介として宣教師は学 ぶ必要はあるものの、子女教育の媒介としては考慮しなくとも良い、と判断 しても差し支えないであろう。

   さて、その難易、可否は別として、以下の道があろう。
 ・ 英語での教育に一貫する。
 ・ 初期の教育を英語で授け、ある時点で日本語に切り換える。
 ・ 日本に滞在中は日本語で、外地に赴いた時には英語で、と二本立てに する。

   更に、私たちの場合、初めて国外に赴いた時点での子供の年令が、1才半、 4か月ということで取り得なかった道であるが、これからの人々にとっては 次の可能性もあろう。即ち、
 ・ 日本語での基礎を築き上げたうえで、その後の教育を英語で行う、と の方法である。
 これらのうち、どの方法を取るべきかを一般論的に論ずるのは至難である。  ・両親の教育理念
 ・子ども一人一人の語学能力
 ・宣教地の教育事情
 ・国外での滞在期間、国内に帰国滞在する期間の割合
その他の要因を検討する必要がある。しかし、ここにあえて一般論として、

(以下、工事中)

■  神学小論文:「21世紀に踏み込んでの国外宣教局」

■  神学小論文:「21世紀に向けての   」

■  神学小論文:「IWFとわたし」
■  神学小論文:「宣教師の召命」

■  神学小論文−そのY:「教職と信徒」

■  神学小論文−そのZ:「私たちの教会―教会論:その制度面から」

■  神学小論文−その[:「再び、教会の権威を巡って」

■  神学小論文−その\:「監督政体の理解」

■  神学小論文−その]:「監督政体について」

■  神学小論文−その]T:「祝祷について」

.                                   聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


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