徳永岫雲斎圀典プロフィル

        三学戒          

        わかくして学べば壮にしてなすあり  壮にして学べは老いて衰えず
       老いて学べば死して朽ちず
                 佐藤一斎著 言志晩録

    少而学壮而有為     壮而学老而不衰
    老而学死而不朽           後学正篤録
 

         岫雲斎の耋録「玄哲録」                         

佐藤一斎

三学戒
後学正篤録
徳永善是圀典  
   戊牛秋晩老学正篤
   安岡正篤筆
  戊牛は昭和53年
私の宝物
槍ヶ岳
  平成18年8月23日
住友銀行本店 1階2階5階で
本店11年勤務

昨年晩秋に、東京の出版社コスモ21より商業出版の話あり、平成25年1月19日初版3000部。
2月5日には第二版2000部の増刷となった。岫雲斎圀典第四冊目の著作である。



平成25年1月28日
サンケイ新聞三面


講演風景
鳥取市文化センター



読者の反響集
https://iss.ndl.go.jp/books?ar=4e1f&any=%E5%BE%B3%E6%B0%B8%E5%9C%80%E5%85%B8&op_id=1
 
徳永圀典プロフィル  岫雲斎「玄哲録」         「人物と教養」索引 -住友銀行に於ける安岡正篤先生講話
  住友家家訓と松下幸之助

                                         
   「岫雲斎の回想」−−総括索引

「出生・雅号」                  ザ・ラストバンカー@ 西川善文氏
                         ザ・ラストバンカーA 西川善文氏   
                       ネツトで見た、ある「ザラスト・バンカー 読後感」

                                
銀泉誌寄稿文索引
鳥取県に生まれる
平成23年に傘寿を迎えた岫雲斎
と号する。徳永岫雲斎圀典(とくなが しゅううんさい こくてん)とは私の雅号である。岫雲(しゅううん)とは、高山の中腹を出たり入ったりしている雲のことである。私は登山を好む。とは、本来、整えるの意。祭りにあたり、起居や食事を整えて、身を清め、心を戒める意がある。学問に相応しいと思い、好む字である


「略歴」

住友銀行入社1年後、本店外国部でコレスポンデンスや現在のディーラー業務をやる。その後本店営業部外国為替課を経て神戸支店外国為替課、外国関係を通算10年経験。当時、外資系企業、領事館等々貿易、外人を担当した。神戸支店在勤は長く、外国為替課副課長、取引先課長から次長待遇を経て、大阪の支店長歴任後、最後は本店人事部審議役

「無上の副産物」

住友銀行勤務の最高の副産物にして無上の幸運は安岡正篤先生との邂逅である。木鶏クラブ創立の発端ともなっている。然し、これは支店長時代以降の事である。(安岡正篤先生関係蔵書)

「趣味・友情」

さて、ゴルフの打ち下ろしは昭和35年名古屋の三好カントリークラブであり神戸支店時代は同僚の繁益氏と一時期宝塚のスポニチカントリクラブメンバーでもあった。支店長時代は週に数回のプレイもしたがいかんとも致し難く下手で引退と同時に道具は蔵にしまい込んでいる。住友銀行神戸支店は住友銀行創業以来の名門店であり森川氏、繁益氏と私との出会いの職場である。三人が月山会チャーターメンバーとなった理由である

三人は夫々の道を歩んだ。私は銀行時代の後半は厳しい仕事の中、登山に夢中となり管理者の40代も一時期は一年の休日の52日間を殆どハイキングとか登山で過ごした年もある。元々は芦屋登山会に所属したのがスタートであった。神戸の老舗貿易商、近藤商店のオーナー故近藤治衛氏と縦横無尽に六甲山を歩き回った。近藤氏の父近藤茂吉氏は地図に記載されている北アルプス剣沢の近藤岩発見者でありわが国の登山パイオニアのお一人である。私はアップアンドダウンが強い56キロの六甲全山縦走を数回やり自信を深めて高山に挑んだ。北アルプス連山始め立山連峰、白山等の夏山には随分登ったし住友銀行山岳会長として奥穂高岳に引率登山もした私は日本の美しい山をこよなく愛している。富士山は登山したが秀麗さを眺める山である。私の憂国放論ーーサンケイ新聞投稿ーー富士山浄化を提唱しているが、ゴミ山は登山者の恥と認識すべきであろう。

住友銀行時代の終わりには銀行山岳会会長としてフィトンチッドを浴びようという大きなブルーの旗を作ったり住友ハイキングクラブのバッジを参加者に手交したりしていた


「引退と余生」

恒例により、部店長経験者は55歳で同行を勇退。住友関連銀行の鳥取市・ふそう銀行の代表取締役常務に就任。山陰合同銀行との合併に携わる。丁度満60歳であり合併を期に完全引退。その後、今日まで自適の生活をしている。パソコンとワープロを始めたのは満65歳の時であった。テキストを学んで理解した。ただ今のパソコンは5代目となる


「著書・文筆活動」     読者の反響はーー「潮流読者の反響」多数掲載。  

さて、平成12年春には、古稀祈念に平成の大乱を上梓、更に、平成14年4月には私の憂国放論を出版した両著併せて通算自費出版数は800冊となり全国に配布したが素晴らしい国、日本に生まれたお返しの心というようなつもりであります。
平成16年には、三冊目となる「人類最高の良いこと」を1000冊出版したが全て売り切れた。

この間10年間、日本海新聞の潮流欄
に各月1回寄稿を続けたが、通算10年となるので新聞社の都合により寄稿は平成19年3月で打ち切った。

「月山会」

三人が再会したのは銀泉会と言う住友銀行銀行OB会であった。大阪のロイヤルホテルで話は一挙に纏まり月山会を発足した
月山会を発足して関西百名山に挑戦した、本ホームページ月山会のページに記録を記載している。本会は益々意気盛んとなり健康と友愛に満ちた会で、出羽三山の月山登山を目指して頑張ったが、高齢化と共に挫折者もでで自然解散した。
だが愚生は別の親友と関西百名山は完全に踏破し、その記念に親友と出羽の月山に登山した。

「鳥取木鶏会」

鳥取木鶏会
は銀行時代の25年前に私が創設したもので、今日迄月1回勉強会を行ってきている。場所は鳥取駅南の「ふれあい会館」の生涯学習講座に認定されている。本年は創立25周年行事を市内のホテルで盛大に挙行した。本会は当初は安岡教学を主としていた。その後、佐藤一斎先生の言志四録やら中国古典を勉強している。鳥取木鶏会の仲間とは大山とか岡山県北の1000米クラスの山々には午前9時には登頂し、帰途近隣の鄙びた露天風呂を楽しんだりしている。近年は兵庫県の「宍粟50名山に挑戦中である。

「日常生活」

個人的には、住まいは母校鳥取西高校に近い。日課的ハイキングは、鳥取城跡三の丸を経て天守閣跡の久松山に急登し汗を流し、十神林道経由の縦走を経て、秀吉の鳥取城攻略で有名な太閤平、本陣山経由樗谿を下る、自宅から約2時間のコースが日常ルートである。
    
      平成24年  徳永圀典  
徳永圀典の主要講演記録 

2006年新春「鳥取市内宅の書斎風景」---
この図書、約2000冊は、平成23年11月吉日、書棚5ヶと共に、鳥取県赤碕町に在る、由緒ある「伯耆稲荷神社」河合鎮徳宮司に寄贈した。徳永岫雲斎圀典の傘寿祈念である。社務所に「岫雲斎文庫」として開放される由である。同慶に堪えない。徳永圀典

徳永圀典の「登山大全」
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